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命とはいったい何なのだろう。
何度も何度も、数え切れぬほどの『近しき死』を見てきた。
はじめはおのれの魂まで死者の世界に引きずられてゆくほどの恐怖を感じた。死して魂が天上の《大霊河》に還っていくという言い伝えを誰もかれもが疑うことなく信じている。わたしも信じている。ゆえにこの世界の生けるものたちは、死に際で足搔かない。
生と死の境目は、はっきりしているようで朧気で、陽だまりと日陰の間にできる境界線になんとなく似ている。
そこに何かが線引きされているわけでもなく、明るい場所と暗い場所が分かたれるがゆえに線があるように見える……目の錯覚のような一線である。
死があふれている世界を、わたしは足搔き生き抜いてきた。そしてこれからも、生き延びるほどに身を切るような別れを突き付けられるのだろう。
命あるものたちが、次の瞬間には死して倒れている。
何百、何千と。
感情は擦り切れ果てて、いつしか感じ取ることもあまりしなくなった。
「女王!」
「ワガ命、捧ゲル!」
「伴ニ霊河行ク!」
「賢姫ィィ!」
生者は暖かい。死者は冷たい。
生者は息をする。死者は息をしない。
死したものたちの時間は無情にもそこで潰え、気づかぬまま生者は生暖かい死体を踏み越え歩いていく。
老いたものたちは言う。
それが定命というものだと。死したものは神が与えられた時間を使い切ったのだと。
(まるであの玩具みたいに)
幼いころ、わたしはひとつの『宝物』を持っていた。
もの狂いしてすぐに身内を殺す父王が嫌いで、鼻を明かすつもりで宝物庫からくすねたそれは、硝子なるものでできた、『時』を測るための道具だった。
硝子を創り出せるのは人族のみでそれはとても貴重なものだったらしい。何日も大人たちが探し回るほどのものだったが、わたしはそれを隠し通してついにわがものとしたのだ。
『砂時計』
中ほどがすぼまった硝子の筒に、時を測る褐色の砂が入っている。
砂時計は一方に砂が落ち切ると、その最大の機能を失ってしまう。砂が流れている間は『生』であり、落ち切ったらそれは状態の終わり、命尽きた『死』のていとなる。
(わたしの時はまだ動いている)
ぶわり、と風が薄皮一枚の間をかすめて行き過ぎた。
毛が逆立つほどの恐怖。いま戦っている相手のハエを追い払うようなひと振りだけで、下手をすればおのれは殺される。『加護持ち』の鉄のごとき肉体だとて、あのとてつもない力に捕まればきっとただでは済まない。
わたしは身震いしつつも湧き上がる笑いの衝動に身を任せる。
父祖の守り伝えてきた本尊神、『最古の一族』の長が継いできた《ユドハタル》は、管蟲の巣穴からたまたま掘り出された土地神であったという。
始まりは『三齢』にしか過ぎない弱き神であったが、『一族』の隆盛とともに神威を取り戻し、ついには種族の王神として恥ずかしくない高きへと至った。
旧世では死体漁りの卑獣、石穴の猿モドキと他族から卑しみ蔑まれていた小族が、神より下された優れた知性をもって千年、一心に執心し続けた結果こそがこの大神なのだ。
累代の王たちは、追い払われるばかりで近くに傅くことすら許されなかった旧世最大の王神……古種百族に戴かれし大王と呼ばれた強き神を、おのが種族に勧進することを焦がれ夢見てきた。そして妄執に取り付かれた王の多くが狂王となった。
(いま一度『奇跡』を)
ゼイエナは一族に連綿と受け継がれてきた隠された伝承にも触れた。
同時に王神を継いだいま、その御霊に降り積もってきた父祖累代の怨念が、神の意志のごとく脳裏に渦巻いた。
灰猿人族という大族を、女王ゼイエナはいまだ完全にはまとめ切っていなかった。掌握したのは主邑を含めた中央から北側のみで、《大首領》率いる南部氏族との対決はいまだ手付かずだった。その決戦を前に、持てる力すべてを繰り出して彼女はここにまでやってきた。
留守を荒らされるかもしれないとは危惧すれども、彼女はそれを些事だと切り捨てる。もはや現状の灰猿人族は八方ふさがりだ。『最古の一族』は知恵を与えられていながらその鋭い武器を妄執のために内向きに使いすぎた。
新種から飼いならして育て上げた隷族に任せきりでは森の東部に広がるのが現界だった。父祖らは下等な隷族に不要な知恵を与えるのを嫌い、もっぱら一族の生活を支えさせることのみに注力させた。愚かにも先行種に与えられていた機会を投げ捨ててしまっていたのだ。
新たに王神を継いだゼイエナは、種族のまつりごとに腐心するいとまもなく先の天変に出会ってしまった。悠長なことなどしていられるときはもはや残されてはいないのだと知るや、優先順位の低い事々をすべて切り捨てた。
(我を助けよ《ユドハタル》)
旧世は身体が強き種族が幅を利かせた。
今世はより優れた知恵を求める種族が溢れた。
イシマシラ族は旧世の強きものたちが薄々気付き始めていた《知恵》という武器の鋭さに気付き、神の恩寵もあってその特性を手に入れた。愚かにも機会を逸したとはいえその優れた特性は種族を容易く成功に導いてしかるべきだった。
しかし覇族となったのは新参の『人族』だった。
彼らは知性のみならず、知恵を形にするための器用な四肢を持って現れた。なぜなにもないところから我が種族よりも優れた特性を得て生まれたのか。その誕生の理不尽に腹立たしくはあれども、『人族』がより知恵ある生き物としての完成度が我らよりも高いのは現実に認めねばならない。
ゆえにわれら『最古の一族』……イシマシラ族は新たな踏み上がりを獲得せねばならない。
イシマシラ族の『奇跡』。
その事跡は旧世が滅び去って千年を経てもなお語り継がれているらしい。
同じく生き残りの『守護者』らはもとより、あの森に潜んでいるやからども……灰猿人族の発展を阻んできた脳無しどもも、それを狙っているのだろう。旧世ばりに屈強さだけが長所の古臭いあやつらは、きっと旧世の生き残りどもの影響を種祖が受けたに違いない。
(そうして眺めているがいい)
《ユドハタル》の加護を得てその霊力を高めたゼイエナには、森の中のようすなど手に取るように把握される。ただ指をくわえて眺めるしかできない勇なきものたちを嘲笑う。
天の底が抜けたとき、世界はふるいにかけられる。
世界にあまたの種族を芽吹かせ育んできた創世の神が、千年の子守に飽いて自らも午睡に入る。独り立ちを迫られた子らは地力を試される。自らに宿る土地神の庇護だけが唯一の守りとなる暗黒の攪拌期……時代最後をいかに切り抜けるかはまさにおのれ次第。
今世の末期、滅びの始まりを告げる角笛を吹いたのは、愚かな豚人族だった。どれほどすさまじい暴力を持ち合わせていようと、新参の豚人族には生き残りに必要な知見が乏しい。長年あれだけ苦しめられてきた西の仇敵が、新種の一刺しで大崩れして国の四半を失い、逃げ惑っている姿を見るのは胸がすく思いだった。それにこのとてつもなく醜い大黒豚は、くだんの新種……やつらの知恵を吸って生まれた新種どもに違いあるまい。
もはや豚人族は終わりよ。
箱庭のなかでただ暴力に秀でていればのさばることのできた守られた時間は終わる。ここから先は神々を相手に身を守る手段を勝ち得たものだけが生き残る。イシマシラ族は古種の管蟲どもから奪った石の巣穴……《大営巣》という天与の隠れ家がある。百年も籠れば王とその周りのものたち以外食い尽くされているだろうが、種を保存できることはもう分っている。
後は来世での種の優位性を確保することのみが重要だ。小族に過ぎなかったイシマシラ族は今世で大族に成り上り、そして来世では覇族となる。
「神よ照覧あれッ」
ゼイエナは叫んだ。
世界の外側にうごめく得体のしれないおぞましき神々。
ただ交われば殺し尽くされるだけの邪悪なる神々だが、接し方を見誤らねば彼奴らには素晴らしい利用価値がある。
女王の叫びに、眷属らが歓呼した。
手に手に捧げられる血と肉塊は打ち殺した大黒豚どもの臓物であろう。そうだ、奴らを崇め奉れ。ただ奪うだけで恐れ忌避される奴らに我が種族は身を投げ出し最上最高の信仰を差し出してやる。この世の生みの母である創世神にではなく外の邪神たちに祈りをささげたのはきっと我が種族が初めてのことだろう。
さあこっちを見ろ、狂った神々め。
怯え逃げ出すどころか伏し拝み崇め奉る狂ったものたちが現れたのだぞ。脳髄をすすって知恵を盗もうとしていた卑しいものたちの末裔たちだ!
わたしにも脳髄をすすってみせろだと!? 黙れこの狂った怨霊どもめ!
累代王の怨念が脳裏に荒れ狂う。
出来損ないの小娘めと狂ったように叫んでいるのは『悪神』に食い殺された父王か。ええい死者はさっさと霊河に還れ!
女王!
誰かが叫んだ。
ほとんど怒号としか聞こえない眷属たちの咆哮の中で、障ることなく耳に届いたその声は、尋常のそれではなかったろう。
声がしたと感じたほうを見やれば、あの人族の小僧……『守護者』カイの姿がある。奴もまた同じくこの地に臨み、率いた眷属らをおぞましい邪神どもの眼前にさらしている。
一歩間違えばなどという程度ではない……半刻もすれば《会》がなされて今世最初の滅びの風が吹きすさぶやもしれぬ場所に、奴は覚悟を決めて立っている。
その横にある土地の神の墓石が光を帯び、『守護者』カイと眷属らを包んでいる。わたしのように自ら飛び込んだというよりは、土地神が土地神たるの縁に引きずられてやってきたか。
まあその動機などどうでもよい。もはや逃げ腰で森から離れつつあるほかの種族どもよりはよほどましな部類だ。
『守護者』カイの全身からあふれ出る神気は尋常ではない。その露わになった額に顕われている目のごとき神紋からは相変わらず神経に触る圧迫感を覚える。さきほどは思わず《ユドハタル》の力に任せて呪返しをしてしまったが、『八齢』にも届く高き神の破魔を浴びてそれほど堪えてもいなさそうなのは少し気に障る。
《ユドハタル》は森の東域では並ぶものとてない大神であるが、世界にはそれをも超える大柱がまだ幾柱もある。依り代となりその高みに上らねばこの世界を鳥のごとく俯瞰することなどできない。きっとあの『谷の守護者』の神もまた高き神なのだろう。
『守護者』カイが高ぶっている。いつ何時こちら側にしゃしゃり出てくるやもしれない。
すべてに勝る力が欲しい。
人族を超える知恵が欲しい。
仇敵たる豚人族を屠れるだけの暴力が欲しい。
念じながら宝剣を振るう。黒い草原のような毛むくじゃらの巨怪の腕を切り裂いて、しぶいた黒い血を潜るように身をそらすと、その血しぶきを透かして頭上の景色が広がった。そこには恐ろしく色の濃い青空と、直径にして数ユルドはあろう円状に遊弋する異形の神々の群れがある。その中心の何もないと見える深い空の奥底に、わだかまるようにしてある何か途方もない大きさの存在。父祖の怨霊たちも怯えを示すそれは触れるべからざるもの。
怖気づきそうになる気持ちを奮い立たせる。
見ろ。
そうだわたしだけを見ろ。
そしてわたしに……女王ゼイエナにその恩寵を授けてみせよ!