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改稿するかもです。
ニルンはカイを抱きしめた。
背丈はニルンのほうがやや高い。両腕で頭を抱えられるようにされたカイは、彼女の自慢である豊満な胸に押しつぶされたようになるが、普段のようにそれを嫌がったりはしない。毛をこすり付けられ、鼻がむずむずしてもされるがままに受け入れる。
種族は違えど女性ならではの柔らかさと甘い匂いはカイの男を刺激する。なにより伝わる命の熱が、胸の鼓動が彼女を近しく感じさせる。
熱烈な抱擁は終わり、ニルンはカイのまっすぐな眼差しをくすぐったそうに見返しつつ、「行くです」と身を翻した。本人は離れていくのに彼女の体臭はまだ身近にある。しっかりと匂い付けされたのだと思うと、ああ、あの娘とすっかりと絆されているのだと分かる。
むろん『加護持ち』とはいえ彼女をひとりでやるわけにはいかない。
「レジク!」
「はっ」
鹿人族の本願地を目指すのだ、護衛も同族がよかろうと進み出た筆頭戦士……角頭レジクと配下の若衆を同行させることにする。
(おいらが道行きの案内をしてやる)
待ち構えていたように頭の中にネヴィンの声が響いて、ふわりとその気配が動いた。どこにいるのか分からないが、聞き耳を立てていたらしい。
申し出は正直ありがたい。おそらく霧の海の底を行くような暗中模索の強行軍になるだろうし、『守護者』の導きがなければたどり着くことも難しいのかもしれない。
ここまでニルンと行動を共にしていた僧たちも、彼女の道行きに片割れを同道させたいと申し出た。すでに身づくろいを済ませていた大きいほうが、会釈しニルンのもとへと歩き出す。たしかホズルとかいう名の坊主のほうだ。
カイが人族の神群にまつらうことを拒絶したあとも、変わらず居座る構えらしい彼らの目的はおそらくことの顛末を見届けることなのだろう。ニルンとの同行も、護衛というよりは監視目的が強いのかもしれない。
だが《僧院》の坊主ならば。
「おまえたちも、やっぱり『目』は良いのか?」
「…人解したともがらには『目』の利くものも多うございますが……拙いながら愚僧もアレと繋がることができますゆえ、きっとお役には立てるかと」
やはり探求官と同じ《目》の魔法を駆使することができるようだ。ならば『保険』のひとつにはなる。
ニルンの横顔に神紋が浮かび上がる。
雄々しき威をまとった彼女は、濁流のごとき灰猿人族の群れの中に恐れげもなく飛び込み、つかの間ののちに対岸の森の岸辺に平然とその姿を持ち上げる。
彼女もまた半神半人の常人にあらざるものなのだ。同じく飛び込んだ角頭レジクとその兵士たちが、濁流に押し流されて50ユルは下手で這うように頭を出したが、決して彼らがふがいないということではなかったろう。男だ女だではなく加護持ちとはそういう存在なのだ。遅れて渡り切ったホズル坊は、ニルンと大差なく余裕をもって上がってきたが、一団の序列を意識してか鹿人族らの進みを待ってそれに続いた。
「やり遂げたらご褒美、期待するです!」
余計なことを言いつつ夫へと腕を一振り、ニルンは解き放たれたように走り出す。深部のより深きにある故地も鹿人族にはそれほどの距離でもないのかもしれない。
(頼んだぞニルン)
北にあるナジカジ邑の土地神を押さえられれば、先達たちの《会崩し》にもたしかな一助となるだろう。ほっとしつつも、一方では古風な考え方のカイは、女性に危険な橋を渡らせてしまったおのれにいら立ちも覚えている。
『守護者』として未熟なうえに、王としてもつがいの雄としてもふがいないほどに力が足りない。恥じて高ぶる気持ちが抑えられない。
嘆息して向き直ろうとした……そのとき。
わあっと、喚声が轟いた。
見れば血みどろの乱戦の向こう側に、いまひとつの大きな戦いが始まろうとしていた。かなたの斜面を下り降った黒々とした巨怪が、窪地の底にたどり着きその身をもたげようとしていた。
見たままには大黒豚の同族と思われたそれは、背中を丸めたままでさえほかのものを著しく凌駕していた。体高5ユルはあるほかの大黒豚の、ゆうに5、6倍はある。背後の巨木に比すれば、およそ30ユルはあるのだろうか。
まさに化け物。
絵空事に出てくる『怪獣』のごときである。
その巨大黒豚が、何かハエでも追うように疎まし気に手を振り回している。見ればその蚤のごとき相手こそが灰猿人族の女王ゼイエナだった。
(無茶だ)
その身動きのたびに纏った外套がひるがえる。豹紋の鮮やかな毛皮のそれは王の権威の証でもあるのだろう。深紅の裏張りは彼女の真っ白な体毛をよく際立たせる。
そして手にしている王笏……巨大な骨をヘラのように削り出したその武器は、よく見れば掻き手のような内反りの刃がついている。古い時代の『シックルソード』に近いのか。
女王がその素早さで巨怪を翻弄するたびに、万を超える眷属らが喚声を上げる。そして狂ったように、我も我もと壁となる大黒豚どもに挑みかかっていく。
数で圧倒しているとはいえその被害は悲惨の言葉では足らない。客観的にそれは精肉機に肉塊を流し込むがごとく次々に蹂躙されているのに等しく、折り重なる死肉の重みと疲労で『処理』が鈍ったわずかのときに、数十の毒斧がたたきつけられ、ぎりぎり両種戦力の『交換』が成り立っているだけである。
その灰猿人の兵士らが、不思議な行動を取り始めている。まだ大黒豚はいくらでも生き残っているというのに、倒した大黒豚のまわりに後続までもが吸い寄せられて群がっていくのである。大黒豚1匹に灰猿人族は100匹近く殺されているに違いない。それだけの命を捧げてやっと下した敵を、必要以上に辱めたいという気分は分からないでもなかったが……どうも雰囲気がおかしい。
カイが神眼を凝らして、真相が明らかとなる。
(…やつらは)
めまいがした。
彼らが狂ったように石斧を叩きつけているのは、死んだ大黒豚の頭部だった。
いくら頑丈とはいえ数限りなく石斧を打ち下ろされて無事なわけもなかった。敵のか味方のかもわからない血泥のなかで灰猿人たちは腕を伸ばし、灰色の何かを手づかみして口にした。
食いつめれば人族だとて亜人種の死体を『食料』として扱うことがある。灰猿人族も殺した人族を食ったろう。だが殺したばかりの敵を、それも脳髄を嬉々として貪るという話は聞いたことがない。探せばあるのかもしれないが少なくとも灰猿人族は、本来は木の実や芋を好んで、肉は普通に煮たり焼いたりで火を通して食べているはずである。それがなぜ急に。
(女王!)
先達らの交わす念話もかまびすしい。ああうるさい!
(…だから、滅す、よかった!)
(***! **!)
(生キ残ッタ、ダカラ、権利!)
記憶の共有がなければ『守護者』たちがなにを論議しているのかすら分からなかったろう。灰猿人族の王種、イシマシラ族の遥か昔の父祖たちは、物狂いのあまりにおぞましい奇行に走っていた。おのれの知恵の足らなさを補うために、他族の脳みそを好んで喰らっていたのだ。
当時の彼らは死体漁りの害獣のごとく卑しまれていた。知恵ある強きものたちからはひと扱いさえもされずに、集まれば汚い虫のように殺され追い払われた。『守護者』らが属する多種族の混交する《大王国》の市民達は、高度な知恵を分かち合って『強族』たることを実現していた。
その強大な《大王国》が旧世終焉の奈落へ、千年紀の滅びの霧へと飲み込まれて崩壊した。知性ある善きものたちが滅びを強いられ、蔑まれていた『害獣』がその死体を漁っていた時代の黄昏に、ひとつの奇跡が両者の立ち位置を無残に逆転せしめた。イシマシラ族は神々の気まぐれによって種族としてきざはしを理不尽に駆け上ったのだ。
まあ隔意も生まれはするだろう。
『守護者』のなかにははっきりとイシマシラを嫌悪するものたちがいる。むろん否定するものたちがある一方、暗黒の攪拌期を潜り抜けてなお種族としてあり続ける彼らを評価し尊重するものたちもいる。
カイの前世の記憶にも似たような議論が多くあったが、『守護者』も多様なようだ。基本としてフラットたろうとする彼らの判断基準……公平を尊ぶ精神性は知的生物として相当な水準にある。イシマシラ族との行き掛かりとは別に、その眷属である灰猿人族についても長年保護対象としてきたというのだから筋金入りである。
そのイシマシラたちが……再び訪れようとしている世界の滅びで『守護者』らの努力を無にしようとしている。そのことに怒り心頭に達しているものが多い。手が足らないのならば『守護者』をもっと集めればよいと手がつけられないほど憤っているものもある。辺土に限っても、その根城から動こうとしない『怠け者』がいく柱もいるらしい。
眷属らに他者の脳みそを喰らう真似事をさせている時点で、『守護者』らは女王ゼイエナの目論見を看破した。
(マタ恩寵貰エル、考エタカ!)
(白猿、浅知恵)
(***!)
まあ本当にそうだとしたら浅知恵と言われても仕方がない。
その脳みそ喰いを気まぐれに面白がられる確率がどれほどのものか。いくら神々が好事家だとて、同じやり方が通用するとはとうてい思われない。
『女王ゼイエナ』もそうだが、イシマシラ族は『大首領』も含め、流暢に人語を操るほどに高い知性を備えていた。ならば何かあるのだろうと灰猿人族の湧き出す森の端のほうを見て……その最後尾あたりに他の王種らと思わしきものたちを発見する。
(なんだあれは)
灰猿人族が何匹か掛かりで持ち運んでいる木でできた檻が並んで動いている。
檻の中には見たこともない変わった形の亜人種らが囚われている。
豹紋の毛並みの美しい痩躯の亜人種たち。
檻にしがみついて暴れている熊のような……というか穴熊族か。
長い鼻を檻の隙間から伸ばしている奇怪な種族や、黒白の縦じまが鮮やかな大蛇がとぐろを巻いているのも見える。それらの檻に続くように、背負い籠いっぱいに摘んだ花を運んでいる灰猿人族は、体型からして若いメスたちか。
そのあとにもおかしな集団が続いている。長持のような箱を数限りなく連ねているが、まさかあれも何かを運んでいるというのか。
まるでなにかの祭祀でも始まりそうな雲行きである。
(祭祀、か……そうか)
まるで灰猿人族が持ちうるすべてを持ち込んできたような勢い。
果断で計算高い賢姫……女王ゼイエナは大黒豚の巨怪に挑みつつ、凄絶な笑みをその口の端に浮かべたのであった。