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可能性の火花が散った。
その輝きは砂粒の瞬きのような微細なものだったが、しかし日差しを遮られた暗い地の底ではよく光を撒き散らした。
他者を喰らい糞をひって生き続けるだけの『生命』という状態継続にしがみつく下等なものたちの中に、揺るぎない意思をもって特定行動を続けるものたちがいる。殺しても殺しても生き残りたちは群り出て来る。もはやおのれの死すら眼中にはないものたちの示した狂気だった。
好んで頭部のある器官を摂食する奇態を見せるそのものたちは、一心不乱に願っていた。
もっと知恵が欲しい。
もっともっと。
強くあるための脳髄が欲しい。
外神らのなかに、その『火花』に興じるものたちが出た。
神の発した意思の波が、瞬く間に伝播して多くの神々のありようをわずかに揺さぶった。全体としては恐らく誤差の範囲内であったろう。だがたったそれだけのことで奇跡は顕現した。
(でたらめだ)
白い毛長猿たちが、湧き出した黒いもやに包まれた。
黒く染まりつつその姿が曖昧になり、形が変わっていく。
死の瀬戸際で同胞たちを守り続けていた『守護者』の幾柱かがその様子を見届けていた。彼らの見た記憶がいま映像となってカイのなかで再生されていく。
見つめる『守護者』たちの含む想いはさまざまだ。
同胞達の亡骸を無残に引き裂き食い荒らすいまわしいものたちへの怒り。
外神に目をつけられ難い小族たちが、卑小であるがゆえに我が物顔で王国の土地に群りはびこるさまへの絶望。
そして下等な彼らがなぜか《寵》を得て、奇跡としかいえない種の『踏み上がり』に至ろうとしていることへの猛烈な焦慮。
イシマシラたちはみるみるうちにその上背を積み上げ、大きな頭をもたげるようになった。黒のわだかまるその頭部に現れたふたつの眼は、視線の高さに戸惑いつつもおのれを取り巻く世界を見、瞬きした。
そして闇が払われていく。わだかまる何かが剥がれ落ちた頭部には、毛並みの後退した人がましい容貌が顕われていた。
カイの記憶にある、灰猿人族の王種のそれと重なり合う姿。知性ある強い眼差しがそこに生まれているのを見て、『守護者』たちも驚きを隠さなかった。新種の最初期にのみ現れる揺り籠の時……肉体の黒化現象が目の前で起こり、イシマシラたちはそのありようを別種の如く変化させたのだ。
(…あれがやつらの『興り』か)
『最古の一族』を自称する灰猿人族の王種ども。
旧世からの生き残りであったのならば、ほかの灰色猿どもとそのありようが違うのも頷ける。あるいは現世の灰猿人族は、イシマシラたちがおのれたちの手足となるべく誘導した新種の成れ果てなのかもしれない。
知恵を得て、種の階梯を上がったイシマシラたちは、外神らについに良質な餌として追い回されだした。そうして誇らしやかに逃げ散っていく彼らの姿が歪んでいく。見届ける『守護者』の記憶がそこで途切れた。
その時点での《会》が世界のどこでのことかは分からない。逃げ散った彼らの一部が《大営巣》……岩の城へと逃げ込み潜んだことで、イシマシラという種は今世へと繋がり千年期の暗黒時代をしぶとく生き延びていくのだ。
そして今もまた。
イシマシラたちはおのれたちのいさおしを神々に示して、実りある《寵》を得ようと……『種の踏み上り』をせしめようと混乱の坩堝に押し寄せてきたというのか。
と、そこへ。
(ウルバン!)
邑のある窪地の向こう側、霧にまかれたままのバレン杉の森の一部が、爆ぜるように爆発した。
一本数万パイントはありそうな途方もない巨木が、数本まとめて薙ぎ払われ、大量の葉が雨のように撒き散らされた。その深緑の驟雨のなかから、ずんぐりした鍋型の巨体が弾むように滑り落ちてくる。その発する苦鳴がカイの脳裡をパチパチと弾けた。
相当な深手で身動きもままならぬウルバンの様子にも動揺したが、それを追うように木々を押しのけて表れた途方もない黒い巨人……遠近の感覚が狂うほどに巨大な大黒豚がゆっくりと斜面を下り始めると、湧き上がったおぞましさに手足の先から毛が逆立った。
生き物の生存本能が、あれには近づくなとおののいている。
その一方で加護持ちとしての本能が、あれを倒せと叫んでいる。唐突にこみ上げてくる脳筋な熱量に身体が勝手に動きそうになるのをカイは押さえ込んだ。
同様の衝動がほかの『加護持ち』たちにもあったのだろう。土地神の墓石の上でクルルが歯軋りし、大耳族のアラライが唸り声を上げている。
見れば灰猿人族たちも同様のようで、ひと目でそうと分かる大柄な個体がいっそう闘争心をむき出しにして壁となる大黒豚どもに挑みかかり出した。そのなかで女王ゼイエナは、黒爪衆を引き連れて動き出していた。側近たちに道をこじ開けさせつつ女王はどんどんと先へと進んでいく。
壁となる大黒豚どもは精強であれども数がない。その厚みのない壁を抜ければ背後には無人の野があるばかり。隙間へと分け入り、抜け出た先に立ちふさがった大黒豚を、女王は手にしていた白い王笏で払った。その王笏もまた辺土伯家の宝剣と同じく骨でできた神器か何かなのだろう。脛を切り払われた大黒豚は幼子のように傷みに啼き叫んで屈み込んだ。その後ろ頭を蹴りつけるように女王はひと跳びして、無人の野へと降り立つなり駆け出した。
「待て! 女王!」
カイは彼女がなにをしでかすか分からず、思わず静止の声を上げた。
《会崩し》を台無しにされるおそれがあるのなら止めねばならない。ほかの先達たちも、灰猿人族の横車には苛立ちを露わにしていて、悪態をつきまくっている。
その先達たちは、いまどこでなにをしているのか。
おぼろげながらに伝わってくるのは、彼らがそれぞれに分かれて周辺の光あるところ……おそらくは周辺諸族の土地神の墓所に陣取り、何かの段取りを始めたらしい気配だけである。『守護者』それぞれの力を弱い土地神たちに託して、より強い屋根を立ち上げようとしているのか。
それぞれの土地では棲む小族たちが、『守護者』を祭主として一心に祈りを捧げている。盛大に焚かれる破邪の炎に内心煙たいとぼやいている先達もいる。
(柱、足リヌ)
(灰色猿メ!)
万を越える灰猿人族の大群が通過した土地では、『守護者』の神通力は効かず、多くが族滅を怖れて灰猿人族に隷従したらしい。つまりは先達たちのいる光点箇所……そこが《会崩し》を行う術域 (エリア)の末端ということであり、なるほどこっちに駆けつけた『仮眷属』の小族たちの数と差がなかった。
柱が足りない。
個では『点』でしかない土地神たちが、3神集まることで最小の『面』たる三角面を成して……はじめて《集》という特恵が生ずる。集まる神が多くなればそれだけ《集》は複合拡大して力を強めていくのだが、先達らの思惑ほどには数を集められなかったのか。
神眼を発現しているためかかなり広い範囲での土地神の位置情報が感じられる。この棘狸族の土地神を中心に東西を先達らが押さえ、後方となる南は谷の国が支配していることでそれなりの三角面、『ポリゴン』の集合のような《集》の発生範囲が生まれている。
たしかに東側半分ほどが灰猿人族によって『死に頂点』となってしまい、面が歪な形になって不安感がある。せめて何もない北にひとつでも土地神を求められれば増しなのだが、そちらはウルバンと巨大黒豚の死闘する方角である。
求めるのは難しいだろう。
そこでふと、袖を引かれてその存在を思い出す。
所在無く谷の国の民たちと行動をともにしている人族の坊主ふたりと、自称『妻』の鹿人族族長の少女ニルン。振り向いたカイに嬉しそうに破顔するその明るい姿に、別の記憶が励起される。
北。
森の深部。
(ああ、思い出した)
そういえば以前カイは森の深部に踏み入ったことがある。
真理探究官ナーダの要請で、ラグ村は預言の神を探す探索部隊を深部に送り込んだのだ。探究官の導きである邑にまでたどりついたカイは、奇しくもこの鹿人族の少女と縁を持つことになった。そのある邑とはナジカジ邑。いまはもう失われた鹿人族の本願地であった。
カイが念ずる間もなく神眼は求める像を脳裡に描き出す。
ここから数十ユルドは奥地にある場所である。
ここからだとやや東寄りにはなるが、北側の範囲にその邑跡……土地神のありかを示す光が見える。鹿人族の本尊の光だ。
その光点と他の土地との兼ね合いを俯瞰する。歪ではあるものの北側になにもないよりもよほど『面』としての安定感のある《集》である。
素早く思案して、カイは思念を他の『守護者』たちに発した。
そして彼らもまた迅速な判断で『是』と返した。
(いいのか、谷の)
ネヴィンが問うてきた。
谷の国に寄宿してニルンとも顔なじみだったからこそ案じたのだろう。
(まだオレの思いつきだけだ。本人に聞いてみる)
カイが真正面から向き合ったので、ニルンは少しだけ驚いた後、用もないのにくねくねとアピールしはじめた。「あー、ニルン」と、わざとらしく咳払いするカイに、艶めいた反応が微塵もないことに彼女はがっくりとうな垂れる。
「前途多難です」ぼそりとつぶやくニルンに構わず、カイは真剣な面持ちでいまの状況を説明した。
世界の守りに破口が生じたこと。
その綻び目に外側の悪しき神々が迫っていること。穴をふさがねば谷の国も無事ではすまないことなど。
その災いを防ぐためにあるものたちと協力してカイもここにきていること。その守りの術式を成功させるにはいまひとつの土地神を加えねば難しいことなどを語った。
その神が《ナゼルカゼェル》。
ニルンたち鹿人族が放棄してきたかつての本願地……その土地神の墓所を一時だけでよいから谷の国の神群に束ねたいと。
地面に描いても示した。《集》の話は絵で見せるのが一番分かりやすい。棘狸族の土地神を中心に、束ねられた《集》図は、まるで歪な傘のように見える。
途中からニルンは笑いを収めていた。
じっとカイを見つめ、カイもまたニルンを見つめていた。
「…わかったです」
ニルンは首肯し、「愛する夫のためです」と偉そうに付け加えたのだった。