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突然のことだった。
付近の森からあふれ出てきた灰色の濁流……顔を白い化粧土で塗りつぶした灰猿人族の大群が、恐るべき勢いで地表を押し流していく。
逃げ遅れていた豚人族らはあるものは狩られ、あるものは小集団で固まったまま流木のように森の端まで押しやられた。
もっとも目立っていただろう谷の国の軍勢がきれいに残されたのは、『守護者』カイとの間で交わされた約定を尊守してのことなのだろう。カイが振り向くと、その神眼を怖れるように灰猿人族らは遠巻きに分流した。
(…姿を隠してるのか)
顔の白化粧もそうだが、多くのものが首の周りに蓑のように若木の小枝を束ねて巻いている。戦装束というよりも、狩りの勢子衆が森に潜むようにする迷彩細工のように見える。そのなかでもひと回りほどは大きい『加護持ち』と思しき戦士らが、カイを見知っていたのか幾匹かが目礼して行き過ぎた。
そうして灰色の濁流が、その波頭を巌に打ちつけた。
邑の中ほどに固まっていた大黒豚どもに、大集団は勢いのまま一斉に襲い掛かったのだ。
身の丈5ユルを越えるだろう大黒豚どもに対して、2ユルほどの灰猿人族では本来ならば勝負にすらならなかったろう。だが数の暴力が強引に現実を捻じ曲げる。
屈強な肉食獣であろうが無数の『軍隊アリ』に襲われたらひとたまりもない。殺しても殺してもそれを乗り越えて群がってくる狂った猿たちに、大黒豚たちが抵抗もむなしく次々に飲まれていく。大黒豚の肉厚な体皮は相当な硬さだ……それが石斧程度でどうにかなるとは思えないのだが、現実には灰猿人たちの『強者狩り』がいたるところで成功しつつある。
もしかしたらあの石斧には用意周到に猛毒でも塗られていたのかもしれない。
頭の中で声がちかちかと瞬いた。
(猿、止マラヌ!)
(我レ、見タ! 白イ王種!)
(石猿メッ!)
先達らも絶賛混乱中なようだ。
イシマシラ?
聞き慣れぬ名称が引っかかり、それが灰猿人族の王種の別称としてくくられたことで芋づるに女王ゼイエナの姿が頭を過ぎった。現行種の灰猿人どもとは似て非なる猿人種……『最古の一族』は長毛の白猿種である。
『守護者』たちは彼らを知っているようだ。
(なんでこいつらはしゃしゃり出てきた)
神眼がまた勝手に動き出す。
おのれの意に反してびくびくと蠢く顔の上半分が、もはや自分の身体とは思えない。加護そのものに身体を乗っ取られたかのようだ。
視線を転じたと思ったら、無数の灰猿人どもを突き抜けるようにして魚眼映像が走っていく。そうして群れの壁を突き抜けた先の、森の木々の向うに見えた白猿の姿に吸い寄せられていく。
女王ゼイエナ。
精兵である黒爪衆とともに、督戦しながら彼女らも駆け足で進んでいる。
見つめるカイの視線に気付いたのか、ゼイエナはこっちを見返して眼力とともに無形のなにか……つむじ風のような圧力がぶつけられてきた。目潰しを食らったように思わず『目』を閉じてしまったカイは、解けそうになるおのれのなかの霊力導線を本能的に鷲掴んで、束の間の混乱を耐え忍ぶ。そうしてゼイエナに焦点を合わすことを怖れて神眼を手元に引き戻した。
なんだいまのは。
カイの『百眼つぶし』のような魔法の手管が他にもあるのか。
「神様!」
「主さま!」
よろめいたカイに眷属たちが群ろうとする。
大黒豚はむろんのこと、豚人族や灰猿人族たちまでもが現れて始まった乱戦に、彼らが怯えていないはずなどない。なのに彼らのまなざしは一心にカイの身だけを気遣っている。死の濁流が渦巻くただ中にあってのその無防備さはあまりに危うい。
なにが起こりつつあるのか分からぬいま、この愛すべき眷属たちの命を守ることこそ最優先であろう。惑いを顔から拭い去り、背筋を伸ばす。
考えろ。
いまカイたち谷の軍勢は、先達『守護者』たちの要請に添って、《会崩し》の担い手としてここにやってきている。頭上に迫る外神たちの群れの目指す先も、おそらくはここ……総毛立つような危機感の高まりが生存本能によるものならば、この棘狸族の本願地たる窪地が降臨の終着地と見て誤りはあるまい。
カイたちはもはやその中心にあるわけで、もはや移動する必要はない。
ならばこの場で、眷属たちの安全をもっとも確保できる処置とはなんだ?
降臨しつつある神々は地表の生き物を餌と見ており、無防備に姿を晒していることは非常に危険な行為なのかもしれない。ならば森の中に彼らを避難させるべきか。いや、そもそも木々の中に隠れることが安全に繋がるのか?
(この場でもっとも安全なのは強き屋根の下にあることだ)
先達らの言う《会崩し》もまた同様の考え方の先にあるように思う。
屋根力の崩壊した世界の綻び……守りの失われた穴に急造の神群を束ね、土地神の屋根力を高めることで外敵を跳ね除けようというのがだいたいの筋かと思う。むろんそれだけでは足りないと感覚的に分かってしまうがゆえに、それを教えてくれない先達らに苛立ちは募る。
もはや今は信じるしかない。
種族の民は束ねられて長の力となり、その長の帰依が谷の王カイの力の源泉となる。眷属らもそれは分かっていて覚悟を決めている。
「猿どもは相手にするな。オレたちはただこの土地を……同胞となったものたちの土地を守り通すだけだ! ここはもうオレたちの『国』なんだ!」
「むろんむろん!」
「御意に!」
小族らの寄り合い所帯のような谷の国のものたちには、互助の気持ちが強い。
『守護者』らが旧世の景色を写し見たように、排他ではなく共存を選んだ彼らは神群が帰依で束ねられるようにその親和性を高めている。寄り集まるほどに国の力が高まってゆくことをこのところの経験から知っている。
大耳族、棘狸族に続いてあらたに数種族が合流した。
それによって高まった谷の国の力が、この窪地を覆っていた不吉な霧を払ったのだ。彼らの目には外神の姿は映らずとも、明るさを増した日の光は届いている。
「土地神の墓に拠れ!」
この土地で、もっとも守られた場所。
真に屋根に守られたもっとも深い場所こそが土地神の墓所である。外神から眷属を守るのにもっとも適した場所はそこを措いて考えられない。
カイの命令で、眷属たちは土地神の墓所のある泉の周りに集まり、隙間なく盾を並べて円陣を組んだ。仮の縁組をした周辺小族たちもその輪に加わった。当地の土地神の憑代たるクルルは墓所の上で身構えたままである。
生き物の小島であった。
ひとつの小島のように身を寄せ合った谷の国の軍勢を横目に、灰猿人族の津波はただひたすらに進み、前線の渋滞に身を投じていく。
その数は数千、いや万を越えているのかもしれない。彼の種族と関わりを持ったからこそ分かる……それは大森林東部最大の大族、灰猿人族の半数にも近い数であり、まさに総力戦の様相であった。カイの目がほとんど迷うことなく再び女王ゼイエナの姿を捉えていた。彼女もまたちらりとカイのいる肉の小島に一瞥をくれ、黙って見ていろというげに王笏らしき白い神器を掲げた。
力に飢えていた頃のぎらぎらした眼差しではない。新女王として種族の頂点へと上り詰め、王権をゆるぎないものとした為政者の強い意思を宿した眼差しだった。盟を結んだ南部氏族の長、大首領の谷の国への貢納は続いていたから、その勢力が依然として存在しているとなると、この灰猿人族の万軍はそれ以外の氏族から根こそぎしたものと見るべきだろう。
彼女らはなにを目的にここまで繰り出してきたのか。
(灰猿人どもも、まさか《会崩し》するために…)
大森林のこの一帯で、谷の国と同様《会崩し》の主柱に足る大族候補3つあった。
『守護者』の先達たちは、僚友だからという単純さでカイの率いる谷の国に白羽の矢を立てた。だがそのカイが存在していなければ、別の選択肢もなくはなかったはずである。
いまひとつの可能性は、豚人族のフォス支国。
そしていま目の前にしている灰猿人国。
いまだ建国の途上であった豚人族は、新参の侵略者でもある。周辺諸族との協調を取るにはあまりに不向きであったから、カイがいなければおそらく『守護者』たちも灰猿人国を担ぎ出していたに違いない。一帯の小族たちも、緩やかな従属関係を灰猿人族と結んでいたのだろう気配はあった。
民の数、束ねる神群の強さなども、本来は谷の国よりも一枚も二枚も上手なのだ、《会崩し》を行うにも彼らのほうが適していたと思う。
だがそうした想像もすぐに打ち払われる。
(ヤツラ! マタ恩賜、盗ム、狙イ!)
(卑怯者、変ワラヌ!)
次々に強い光が炸裂して、カイは思わず頭を押さえた。
いっときにあまりに多くの意思が流れ込んできたために過負荷になったのだ。
かつて誰かが見たのだろう映像記憶がいくつも瞬いた。見覚えのある白い毛長猿たちが、異形種たちと血みどろの殺し合いを演じていた。
今世とはかけ離れた獣や虫に近いその異形らは、もしかしたら『守護者』たちの見ていた旧世のものたちであったか。
いや、少し記憶とは食い違う。女王や大首領に顕れていた猿よりもぐっと人に近い様子……人がましい顔がない。もっと獣に近い、猿人ではなく類人猿とでも呼ぶべき頃の彼らであるのか。
その記憶のなかでも、彼らは周りから罵声を浴びていた。
いわく、「卑怯もの」と。
『守護者』たちが積重ねてきた知識を浴びるようにして、カイは驚くほどの速さで理解を深めていく。
『最古の一族』と名乗る灰猿人族の王種たちは、『守護者』らと同じくかつての千年紀を越えて生き残ってきた旧世由来の古い種族であるらしい。彼ら種族は旧世の末期に現れて、肉体に寄らず無類の強さを体現できる『知性』を獲得する流行に乗った。
先行して『知性』を高め、『大王』さえも戴き強大な勢力となっていた『守護者』たちの勢力、連合王国には後発組は追いつけない。『知性』は簡単に模倣できるような目に見えるものではなかったから。
『知性』に憧れ、獣のように飢えていた灰猿人族の王種……イシマシラたちは、知恵に優れた種族を執拗に襲っては、その『神石』と『知性』の出どこたる脳髄を貪っていた。
そのありようから他種族から蛇蝎の如く疎まれ、しばしば激しく狩り立てられることもあった。だが彼らはさらに古い世の巨大な化物の岩の骸に拠り、しぶとく族滅を免れた。あの岩山のような主邑、『大営巣』はイシマシラたちを常に守ったのである。
そして千年紀。
頼るべき友邦もなく、『知性』も不足したままであったイシマシラたちは、成すすべもなく《会》に遭遇した。あふれ出した外神の群れによって旧世では『知性』に優れ力を持っていた連合王国の市民種たちが次々に殺された。強大な武で世界を押さえつけていた『守護者』たちでさえも外の神々には手も足も出なかった。凄惨な戦いは世界のいたるところで続けられ、魂を貪られた生き物たちのおびただしい数の躯が地を覆った。
外神は命を喰らうが、肉を喰らうわけではない。
霧に巻かれた累々たる肉の海に、這い出してきた生き残りたちが飢えを満たすために群がった。イシマシラたちは普段は手も足も出なかった強種族の死体を見つけては、嬉々として頭蓋をかち割り、そのおぞましい欲求を満たし続けていた。
彼らは脳髄を食うことで、他者の知恵を奪うことができると信じた。
それはもはや信仰に近かった。
そして、『奇跡』は起こったのだった。