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神眼
額の肉が裂け、何かが開いた。
その瞬間に現れた新たな感覚、歪みつつ引き伸ばされていくような周囲の景色に、三半規管を揺らされてカイはぼやいた。
「…気持ちわりぃ」
パタパタと滴り続ける血を止めようと手をなぞり上げて、そこでおかしなことに気付く。
額に第三の目が開眼したのだとしたらそれだっておかしなことのひとつに挙げられねばならないが、撫で上げた手指にそれらしい形状……凹凸のようなものは当らなかった。
出血は続いている。
だがそれは軽微な裂傷であるらしく、皺に沿ってわずかに痛みを伴う傷だということしか分からない。額の真ん中にまで手をかざすと、やはり視界が塞がれる。額の真ん中になにがしかの受像器官があることは間違いない。
ポレックがめしいた目を見開きながら、血を拭き取るための手ぬぐいを差し出してくる。「神眼」と口にしたのはポレックである。カイはおのれの額がどのようになっているのかを、他人の反応からうかがうべく傷口を晒した。
「…オレのおでこに、なにが起こった」
「見事な《眼》が開いておりまする」
「やっぱり目があるのか」
「…ひとならざる大きな眼が開いておりまする」
手ぬぐいを受け取りながら、カイは他の長にも目を向けた。大きな耳を震わせて立ち尽くしていたアラライは、ポレックのいらえに少しだけ眼を泳がせてから、
「神様の紋、光ってる。まぶしい」
そう言った。その後ろの猪人族らも一様にこくこくと頷いた。
霊眼を持たないものたちには、ただ額の神紋が光ったというぐらいにしか見えていないらしい。カイの指に触れる現実もそのとおりであり、傷以外に異常は把握できない。
この受像器官は物質的なものではなく、霊的なもの、いや神の一部的なものであるということか。ますます分からない。
いや。
「…アレを視るのに必要なのか」
外神たちのさらに奥、認識の上では『宇宙』であるとしかいえぬ深奥にある恐るべき何か。星ほどもある得体の知れぬ何かを捉えるために、谷の神様が必要であると断じたのか。
谷の神様の特恵は『眼の良さ』であるという。おのれの額に浮かぶ《象形紋》もまた、眼の形を模したようのものであることも知っている。
そしてその《神眼》が見るべき対象。
それは神々なる高次存在。
三次元に生きるものたちが四次元以上に巣食うものたちを、その肉眼で捉えることはおそらく出来ない。三次元は時間軸を持つ四次元世界に内包された、コマ撮りフィルムのひとコマでしかないという。不自由な下位世界の、さらに細切れにされた一瞬。
不意に記憶に呼び起こされたのは、学者達がそれら高次元を考証するためにひねり出した、奇妙な動きを示す立方体像。
回転するうちに表裏が逆転するという、『トリックアート』のようなその偽四次元の立方体は、高次元の実在する可能性を示唆する一方、三次元存在でしかない人間の限界も証明してしまっていた。しょせん擬似的にしかそのありようを認識できないのが人間であるからだ。
頭上を見上げ、ふと確かめようとした。
そのわずかな思いだけで新たな受像器官が機能する。いまだ数千ユルはあろう上空の外神らを射抜くようにカイの視野は引き伸ばされ、対象たる『もの』に魚眼のような焦点が合わされる。
触れることかなわぬはずの神々が、袖摺り合わすように近く感じる。
「…神様!」
誰かが呼ばわったのを聞いた。
だが魅入られてしまったカイの耳には届かない。
誰かが袖を引いた。聞き覚えのある声が叫んだ。
息を飲んだそのとき。
(馬鹿か! 谷の!)
ばちん、と魂の頭を叩かれたように、意識がはじけた。
意思の力が衝撃波のように浴びせかけられたのだ。大きく息を吸い込みながらカイは頭を振った。全身の毛穴が開いたようだった。
あれはまともに見ていいものじゃない。
以前森の中で開かれた輪談のさなかに見た、上空を行過ぎた夜の帳そのもののような途方もない影を、守護者らは『大ホテン』と畏れ見送った。それに類する桁外れの何か……見上げる全天を覆うほどの、大神などという言葉すら足りぬ大きく逸脱した存在が外神らの向うに、底知れぬ闇のなかにわだかまっている。
討て。
谷の神様は望んだ。
憑代が彼の存在に挑まんとするのを期待した。
なにゆえにこの世界に土地神があるのか。なにゆえに彼らが生き物達に加護を与え、人外の超常力を振るわせるのか。
カイはようやくこの世界が求めているものに理解が及んだ。
(創世神は、子らの神殺しを望んでいる)
千年ごとに訪れる生き物たちの暗黒期……千年紀なる世界のカタストロフはただ生物種をリセットすることが目的じゃない。
神々と戦わせるために、檻から解き放たれただけなのだ。
「神様!」
「主様!」
なぜ神と争わねばならない。
全身の皮膚という皮膚がめりめりと引き千切られていくような感覚。焼け付く痛みに腕をさすり合わせると、ぬるりとぬめった。
なんだ。今度は身体中が血まみれだ。
頭部に集中していた神紋が全身へと広がり、その線形に沿って内から熱気を噴き出している。皮膚が割けたのはその神紋……鬱血したように浮かび上がった加護の証たる隈取部分のようだった。
ただの不思議な痣だと思っていたそれもまた、ゆえあってそこにそうして顕れているに違いない。これこそが神のありようなのだ。理解しがたい高次元にある神がなにゆえか低次にある生き物達の『神石』に縛られている……その位相のでたらめさが不可思議な線として顕れているのだ。
四次元実証の立方体トリックアートのように。
神の格によって線形が緻密化するのは、おそらく神体がより複雑な高次元にあるからだ。そして緻密化するから力も増大する。
身体中からなぞの力が放出されている様を想像して、カイは『磁石』のようだと重ね思う。
(…磁力線みてえなもんか)
この神紋が神たるものの放つ力場線のようなものなのだとしたら。
それを人型に切り抜けば、断面図がさながら隈取のように、木々の木目のように見えるのではなかろうか。
カイの理解は急速に深化していく。
そこにある『不可思議』を明確な言葉に置き換えていくだけの『語彙』を、前世由来の『知恵』を持ち合わせていたからこその超速の内的変質。今生のカイという少年と、谷の神様といういと高き土地神のありようの違いを……その空隙を異郷の知識が埋め合わせていく。たしかな血肉へと置き換わっていく。
討て、討て、討て。
いまだかつてなく、はっきりと谷の神様の声が聞こえた。
カイは空を仰いだ。辺土領主たちが常日頃から力を持て余してどつき合いばかりをしているその気持ちがようやく肌に合わさったようにしっくりと来る。土地神は血の気の塊だ。戦いに飢えていた。
アレとやり合って、勝てるのか。
そもそも触れることさえできない形而上存在の神相手にほんとうに戦えるのか。この世界の神様のありようをそれなりに理解できたような気はするものの、それで谷の神様からもたらされる力の総量が急激に増大したなどという感覚はなかった。ただ相互理解が進んで、力が馴染んだような……ここからならばもっと変換効率を上げられるのではないか、無駄を減らして運用できるのではないかというよく分からない自信があるだけだった。
「神様ァ!」
叫びが耳にこだました。
眷属たちの警戒の叫びはいま突然に起こったものではない。カイがしばらく気付かなかっただけだった。服の背中を掴んで必死に揺さぶるおのれの妻、ニルンの息遣いが荒い。眷属の長たちが主人を呼び続けている。
瞬きしてすぐに、地響きがするのに気付いた。低く轟く地鳴りは何かの大群が接近しているのか。
谷の国の軍勢を川中の小島にするように、灰色の生き物達の群れが濁流となって流れ込んでくる。木々の間から染み出すように湧き立ったその大群は、無数の灰猿人族だった。
うろたえて陣形を固めるしかない谷の国の小物達など目にも入らぬというように、地を震わせて押し寄せた灰色猿たちは一気呵成に大黒豚たちに挑みかかったのだ。