158
カイと大黒豚との戦いは、初合を除いてほぼ一方的なものとなった。
初めに感じた頭蓋骨の恐ろしいまでの硬さがなんだったのか……その後カイの鉄棍に打たれるままになった大黒豚は、防御に使った四肢の骨を容易く砕かれ、瞬く間に戦闘不能に陥った。
(ただの石頭だったのか…)
立ち上がることもままならず蠢く肉塊に堕ちた大黒豚を、介錯するようにとどめを刺した。本来ならば相当な強度のある頚椎も、鉄棍の先を捻り当て、体重をかけて押し込むと砕くことができた。
初撃に異様な硬さを覚えたのは、単に頭蓋への当り方が浅かったのかもしれない。いささかの引っ掛かりは覚えても、とりあえずは対処可能と分かったことで心に冷ややかさが戻ってくる。眷族の長たちが大黒豚の死骸に武器を試し刺ししようとしてその頑丈さに驚いてるが、大丈夫だよなおまえら…。
濡れた鉄棍が滑るのを気にしていると、ポレックが腰袋から小壺を取り出し、アガの実を磨り潰して煮詰めたという『松脂』のようなものを塗ってくれた。
その間も、カイは油断なく辺りを警戒していた。
邑の各所でせめぎ合っていた豚人族と大黒豚の争いは、カイのまわりの豚たちが逃げ出したのをきっかけに、完全に均衡を崩したようだった。
戦意喪失した豚たちがいっせいに逃げ出し始めている。それを追いすがろうとする大黒豚たちは、やはり過大なその肉量を支えるには足りぬ弱足のせいでどうしても取り残されてゆく。苛立つままに棍棒を叩き付けるもの、なかには死体の足を掴んでめちゃくちゃに振り回すものまである。満足に走ることはできなくてもその膂力はすさまじかったから、それらが掠めでもした豚は無事ではすまなかった。
やがて憎悪に澱んだその目が、逃げる一方の負け犬たちではなく、村の入り口で陣を構えている谷の国の軍勢へと向けられる。呼び合っているのか野太いいななき声がそこここで上がった。
あるかなしかの統制が利き始めたようだ。大黒豚の全部がこちらへと向いだす。
「ポレック」
「…除くしかありませぬな」
すぐさま弓兵たちの斉射が始まったが、谷の国の貧弱な矢では大黒豚の剛毛と分厚い脂肪でほとんどが弾かれてしまう。少しでも刺さればまだマシで、おそらくは急所にあたってすら致命とはならないだろうとわかる。
中途半端な攻撃で敵意を引き寄せてしまった弓兵らを守るべく、比較体格のよい猪人族の槍兵が前進し、さらのその前に軍勢の最高戦力である各種族の長らが武器を手に出張った。
心強くはあるもののも、小族の長らの土地神はせいぜい『二齢』であり、なかにはその本願地を追われた流浪の身のものたちもいる。その衰えた加護でどこまで立ち向かえるのかは予想もつかない。
カイは案じつつも、すっと気持ちを切り替える。
相手が強ければ、それ相応の被害はこうむるだろう。弱者の戦いとはいつもそういうものだった。肝心なのは、相手を一匹殺すのに、こちらはいくつの命を差し出さねばならないのかということ。
見渡す大地には、豚人族の亡骸に混ざってぽつぽつと黒い小山が見える。けっして豚人族が一方的に狩られていたわけではないと言う証の、大黒豚の息絶えた亡骸だった。
(目算で十数対1ほどか)
身体能力に隔絶する両種族の『交換比』がだいたいそれぐらい……大黒豚1匹を殺すのに豚人族は十数匹の命を失っているということ。
カイが参加したことのある人族と豚人族の争いでは、200対700……だいたい3対1ぐらいで接戦となっていた。ということは、人族が相手する場合、大黒豚の数に対して50倍ほどの数をそろえねば勝てないということである。
ならば人族よりも劣位にある谷の国の民たちは、いくら命を投げ出せばよいのか。
カイの眼差しに気付いた先頭の大黒豚は、武器代わりに握っていた豚人の脚の肉を、かぶりついてむちゃむちゃと咀嚼した。
「プクブ、ゲヒャヒャ」
大きすぎる身体を畳んでいるせいで、脇からあふれ出た肥肉が膨らみ動く。酷い猫背はやはり巨体を支えきれない筋力不足のせいか。
正面から相対して初めて分かる。豚人族に比べてややのっぺりとした顔の造形は、たしかに他種だと分かる。鼻面も奇妙に長い。
そして発される声は、恐らく言葉未満のものだった。
目に入った未知の何かに、ただ興奮し、喜悦する。赤ん坊のそれに近かった。
「お前たちは…」
カイの問いに大黒豚は反応しなかった。そもそも彼らは独自の言葉すら持ち合わせてはいないのかもしれない……脈絡もなくそんなことを思った。
にらみ合っていた1匹が、ぷっと飛礫のように白いものを吐き棄ててきた。それが頬を掠めても、射線を読みきったカイは瞬きすらしなかった。おそらくは骨の破片か何かだろう。
大黒豚の脇からはみ出した肥肉が、躍動的にぶるりと震えたことで、攻撃が始まることも丸分かりだった。
鈍重かつ無造作に掴みかかってきた大黒豚は、伸び上がったことでまさに丈高い村の防壁が崩れかかってくるような迫力だった。鷲掴みに迫ってきた巨大な手を打ち払いつつ円の歩法でかわし、多対一の定石をなぞるように流れるままに鉄棍を振るう。側面から脇腹をしたたかに叩きつける。
鉄棍と肉塊の衝突で生まれた運動エネルギーが、肥肉を皿のように広げたわませる。割と本気の一撃であったのに、脂肪がほとんどの力を逃してしまったのかわずかに体皮が裂けただけに終った。
しぶいた黒い血が腕に少しかかり、身に覚えのあるおぞましい冷感が広がるや、ぞわりと鳥肌が広がった。
(なんだこの感じは)
「ブプゥゥ」
子供が戯れに唇を震わすように。
後列から迫ってきた別の固体が、頬を膨らまして大量のつばを吐き出して来た。
10ユルほどは距離が離れていたというのに、恐るべき肺活量がカイまでそれを届かしめた。鼻が曲がるほどに臭い唾が顔半分に噴きかかって、その瞬間カイは自分から身を投げるように地面へと転がった。
得体の知れぬものの唾という以上に、それが肌に触れた瞬間に広がった危険な冷感に、本能が即座に反応したのだ。
転がったカイに、眷属の3戦士は素早く行動に移った。それぞれの得物を前面に掲げつつ、王と謎の生き物との間に盾になるよう身を割り込ませる。猪人族のドレンガが牽制するように槍を払うと、その鉄の穂先が大黒豚の脛を傷つけ、小さく黒い血の花が咲いた。
袖で拭ってもなくならない厄介な冷感にははっきりと覚えがあった。
カイの全身はすでに『骨質耐性』に覆われていた。
「下がれ! そいつには触れるな!」
『悪神』?
いや違う。こいつは世界から疎まれてはいない。体皮がまったく燃えていない。
世界にあることを忌まれる『悪神』は、その全身が常に焼かれ続けている。あの白煙を上げながら燃える熾き火のような青い火をカイはけっして忘れることはない。
(ネヴィン!)
カイは念を飛ばした。
森のどこかで何かをしようとしている先達らに問いかける。
(誰か教えろ! こいつらは!)
気をそらした一瞬を突かれ、後列のやつに組み付くのを許してしまった。
土砂崩れに巻き込まれたかのような質量に圧倒されて、カイは即座に鉄棍を手放し、もっとも頼りとするおのが怪力で立ち向かう。迫る凶手に掴まれまいと、対抗してがっぷりと応じる。
笑えてくるほどに手の大きさが違う。大人と赤ん坊のそれよりもなお差が大きかったから、指を絡めるような握り合いではない。カイは掌の肉襞をかろうじて掴むのがやっとであった。
それでも谷の王たるカイの剛力は健在で、質量差の不利をしてなお相手の圧迫を跳ね除け逆に押し込んだ。
敵の大黒豚は、おそらく加護などない素の個体であったろう。人の何十倍もあるに違いない恵まれた筋力のみで、カイの怪力に抗ってくる。
ついに押し合いを制し、カイは打ち倒した敵に馬乗りになって右掌に霊力を掻き集める。
『火魔法』!
一瞬にして手が炎につつまれ、焼印を押し付けるようにカイの手のひらが黒い毛を焼いた。じゅうじゅうと肉の焼ける臭いと白煙が立ち上り、初めて大黒豚の口から悲鳴がほとばしった。
『加護持ち』でないのなら肉はただのたんぱく質に過ぎない。単純な力比べにこだわらなければ対処には困らない。
腹の上でおのれの身体を破壊しようとしている小さな生き物を睨みつけて、大黒豚はがむしゃらに掴みかかろうとした。その巨大な手のひらをさっとうつ伏せして避けて、カイは『魔法』にさらなる霊力を流し込んだ。
『火魔法』!
腹中とは言わず、鼻、口、尻穴から炎が噴出した。
その数瞬後に腹が破裂した。
確実に仕留めたのかどうかを見届けるカイの耳に、警戒のこもったポレックの声が届く。
立ち尽くした大黒豚たちが、爛々と輝く目をカイへと注いでいる。
「主様」
「ああ、分かってる」
相手の息の根が止まったことを見届けてから、カイは立ち上がる。
ネヴィンたちからの返事は返って来ない。返事するゆとりもないほど忙しいのか、あるいはだんまりを決め込んでいるだけなのか。
『穢神』の次は、『悪神』みたいな呪いつきの謎種族。分からないことだらけで嫌気が差すものの、それでもなすべきことは成さねばならない。
「ここの土地神を下すぞ」
焼いた大黒豚の臭いが妙に鼻をくすぐった。
地面に落ちた鉄棍を広いながら、思わず鳴ってしまった腹の虫に、少し恥ずかしげに裾を払うなどして居住まいを正したカイ。それには眷属たちも少し驚いて、ポレックが「さすがは主様」とかかと笑ったのであった。