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2021/07/19改稿
空が明るくなっていく。
土地神の屋根が立ち上がっていく。
一歩一歩、邑の中心へと近付いていくほどに増していく空の明るさが、そのまま地表に生きるものたちの安全度となっていく。邑にはこれでもかと豚人族の難民たちが溢れていた。
もはや彼らの密度で通行が困難になるほどで、立ちふさがる肉の圧とひといきれでめまいがしそうだった。王の命令を待つまでもなく谷の国の軍勢が武器を構えて押し出した。その剣呑な圧力でようやく前進が再開される。
無理矢理に掻き分けようやく邑のなかへと入り込んで、カイはその渋滞の原因を知ることとなる。
(豚どもが戦ってるのか)
耳朶を打つ怒号と喚声。
血と汗を擦り合わせるような豚人たちのひしめき合いの先では、いままさしく命を賭けた種族の攻防が展開していた。
打ち合う武具がそこここで火花を散らす。わあっとどよめきが起こると、『おしくらまんじゅう』のように押された豚人兵らが背後の人混みを圧して、波のような揺れがカイたちのところにまで届いた。
人族よりも何倍も体格のよい豚人たちが、どうも完全に押されている。豚どもの悲痛ないななきが巷に溢れたった。
さてはここでも『穢神』が暴れているのかと視線を頭上にさ迷わすが、すぐには見当たらない。
代わりに目にしたものは……新参者たちの視線を強烈に吸い寄せたのは、きらめく武器の林の向うに盛り上がる黒々とした肉の小山であった。
(なんだ、あれは)
そのとき、どん、と大地が爆ぜた。
最前列の豚人兵らが、爆発に巻き込まれて宙に舞う。後列のものたちはその落下に押しつぶされ叫喚した。
腹の底を震わせる獣の咆哮がこだました。
「主様ッ」
「神様!」
カイはほとんど条件反射のように飛び出していた。ポレックらが追従しようとするもののその瞬発力には追いつけない。豚人たちの肉壁をひと掻きでよじ登り、最前列までの10ユルほどを飛び石のごとく頭を踏みつけ宙を舞う。
「邪魔だ!」
その勢いのままに、屹立する黒き異形に鉄棍を叩きつける。
カイのその一撃は、たいていの生き物に対して致命の一撃となりえる強度のものだった。が、狙い定めた異形の頭と思しきものの硬さは尋常ではなかった。なめし皮を張った石でも叩いたかのような痺れに、カイは表情を険しくする。
鉄棍は上滑りして斜めに逸らされたが……『剣道』で面を打ち損なったときのように肩らしき肉瘤に受け止められる。その一撃に乗せられた破壊エネルギーは余すことなく伝えられ、黒々と盛り上がる肉の大地に衝撃波が波のごとく広がった。
(なんだこの生き物は)
絶叫がこだました。
鎖骨のようなものがあるのなら、それに類するものを砕いた感触がある。
カイの攻撃にいったんは沈んだその黒い巨体が、唾液を撒き散らしながら伸び上がるように屹立した。身の丈は優に5ユルを超える、豚人族にも倍する恐るべき巨体。
その肉の壁は、闇夜のごとく真っ黒だった。
交錯しながらカイは観察する。
毛色なのか、肌色なのか、その『黒』の正体を瞬時には見極められない。ただ黒々とした小山が蠢いている……はなはだしく大きい何か、生き物めいて見えるなにか。最初の接触で分かるのはその程度だった。
そして敵の背中側へと着地したカイは、予想外に柔らかい大地の起伏に足をとられ、たたらを踏んだ。カイが大地と見まがったのは、埋め尽くす豚人族らの亡骸だった。
半転して尻餅をつく格好で死体の腹の上に坐り込み、黒い異形を背中側から臨む格好となった。
(あの鼻面は…)
わだかまる黒色はその異形の細かなところを塗りつぶしている。
ただその大まかなところは知れる。命あるものの証である生気を宿す双眸と、特徴ある巨大で潰れた鼻面、発達した大きな牙。
それらは豚人族のものだった。
頭が倍あれば、相応に体のほうもでかい。同じく倍するものならば、その体長もまた倍するに違いない。
巨人と恐れられる南方の一つ目族たちも、これほどの大きさを持っているのだろうか。異形はカイの強烈な一撃に反応していったんは身体を伸ばしたものの、また背を丸めるようにかがんで潰れた山のようになる。
動くたびにはちきれそうなほどの肥肉が醜く波打っている。立つことを覚えたばかりの幼子のようにもたもたと足踏みして、異形は身体の向きを変えてくる。
荒々しい鼻息が、薄っすらと漂う靄を吹き散らす。
「おまえは豚どもの親戚か」
カイの問いに、むろん答えなど返らない。
問いを発した本人も、そんなもの期待もしていない。
「まあどっちでもいいか」
カイは小さく笑って、坐っていた死体から腰を浮かせる。
そのときぷくっと頬を膨らませたのは、大黒豚の鼻息の臭さが容赦なく漂ってきたからだ。
大黒豚が、威嚇するように垂れ下がる喉肉を震わせた。
部分の造りは近似していても、体つきは豚人族のそれに似ても似つかない。闘士型の筋肉質な肥満である豚人のそれに対して、大黒豚のそれはあまりにも締りがなくだらしない。背筋を曲げているのも、もしかしたら身体の大きさに対して十分な筋量が備わっていないからなのかもしれない。
二足歩行する『象』ほどの肉量があるのだ、まともに立って歩くだけでも生物としての限界を超えているとしてもおかしくはなかった。
「ほかもいるみてえだし、さっさといくぞ」
「プギィィィッ」
豚どもの肉壁を越えたことで、カイは邑のいたるところにいる同様の大黒豚を目視していた。ざっと十数匹はいるだろうか。その各所で豚人族の抵抗が続いているわけだが、もうほとんど彼らは負け同然となっていた。
ここでもカイが大黒豚の敵意を引き受けたことで、あからさまにほっとしたような顔をした豚たちが、じりじりと後退を始めている。自族の剣たる兵士たちが逃げを決めたことで、背後の難民たちもまた水が低きに流れるように邑の外、フォス支国へと続く新道へと溢れ始めた。
その様子を横目に、カイは忌々しげに舌打ちした。
外神たちを誘引したのだろう彼ら種族の大移動がまたぞろ始まったのだ。世界の危機を招き寄せている彼らを怒鳴りつけたいと心が渇望する一方で、死を畏れるがゆえの彼らの行動は理解しなければならないという前世知識に紐付いた悟性が頭を冷やす。
彼らは『守護者』ウルバンに追い立てられるように森の深部を逃れて来た。人族の地に同族たちが新しい国を作ったと言われ、ただ逃げてきただけに過ぎなかった。非難すべきはそれを先導したクソジジイ個人のみであり、彼らを責めるのはやはりお門違いだった。
「何とかできるんだろうな、先達たちは」
《会崩し》なる技まであるんだ、そっちはもうめくらでも期待するしかなかった。
カイは揉み絞るように鉄棍を握る指に力を込めた。集中力が高まるほどに、その鉄棒の先までがおのれと一体になったかのような感覚が生まれる。ゆっくりと吐く呼気にまで霊気がにじんだ。
大黒豚もまた、血と脂にまみれた図太い棍棒を構えてみせる。身体が大きいだけに棍棒も若木の幹をそのまま削ったかのように極太だった。むろん長さも相応のものがあり、殺傷可能な間合いも押して知るべしである。
カイが試すように一歩を踏み出し、それに間髪入れず大黒豚が応じた。
ほとんど反射神経だけのような攻撃。見つけた虫を棒で叩き潰そうとする子供のような、そんな無造作な一撃で。
カイの鉄棍も、持ち手の背丈に比べれば十分以上に長い得物である。だが大黒豚の丸太のごとき棍棒には一歩劣る。相手の力を計りかねて、まともに受け止めるのは危険と判断した。攻撃は直線的で稚拙そのものであり、最小の動きで避けようとしたカイであったが……ふと心に浮かんだ嫌ななにかに、寸前で大きく飛び退いた。
棍棒の一撃が、爆発した。
それこそが先に見た、豚人兵らを吹き飛ばしていた攻撃であったのだろう。地面もろとも、転がる死体までもが爆散して飛び散るとか意味が分からない。
もしや『加護持ち』であったかと見上げた大黒豚の顔には、相変わらず黒い何かがわだかまったように重なり、隈取のようなものは見当たらなかった。
『加護持ち』でないのなら、これは純粋に大黒豚の肉体が生み出した単純な暴力、素の破壊力ということになる。弛んでぶら下がっているようにしか見えない脂肪の内側に、恐るべき膂力を秘めた筋肉が分厚く存在するのだろう。振りぬかれた長い猿臂の肉が、反作用の衝撃でぶるぶると震えている。
しかし次の攻撃が起動しない。
一動作に途方もない力を込められるというのに、この生き物は別動作への移行が極端にとろい。むろんそれを見逃す手はない。
カイは鉄棍を一振りしてその遠心力で持ち手を端に移すと、最大の射程となる長さで叩きつけた。得物が長いほどにその最終端の速度は加速する。
ボッ!
鉄棍が空気を切り裂いた。
ほとんど音速近くにまで加速しただろう鉄棍の先が、大黒豚の伸びきった手首に炸裂した。このぎりぎりの持ち方だとカイとて動作終了時の制動を利かせられない。
先の手応えから『加護持ち』にも近い硬い骨格を持つと睨んでいた大黒豚であったが、骨を叩き折るどころか手首から先をちぎり飛ばしていた。行き過ぎた鉄棍は付近に横たわっていた豚人の亡骸数体を跳ね飛ばし、空中で派手に四散させた。
なんだ、そこまでではないのか。
勢い余ってくるりと一回転しながら、瞬きもせずカイはめぐる景色を眺めていた。急制動をかけて危機管理するという発想もなかった。
謎生物が手首を抱えて鳴き叫んでいる。
とても痛そうだが、おまえはその百倍ぐらい豚たちに死と苦痛を与えてきたんじゃないのかと突っ込みたくなった。そんなに顔をゆがめて、まるで初めて怪我をした子供みたいじゃないか。
「ああ、そうか」
もしかしたらおまえは痛みを感じたのは初めてなのか。
足を踏みしめ、カイは身構えを取った。