155
2021/06/28改稿
この低き地を統べろ。
ネヴィンは言った。
土地神を連環させてまとめ上げ、谷の国が支配するのだと。
(考え込むのは後だ。まずやることはもうひとつの眷属、棘狸族の土地を平らげること)
カイの中には最前見せられた一帯の地図が焼き付いている。棘狸族の土地は大耳族の北、さらに深部へと近づいた場所に続いている。
踏み分け路どころか荷馬車すら通行可能な幅まで拡げられた道を、カイたちは進んでいる。案内に立つ棘狸族族長のクルルは、警戒に全身の棘を逆立てている。
この深い森の中には不釣り合いな大道は、むろん豚人族らが作り出したものである。大森林の彼方にある本国……種族本願地へと繋がろうとするフォス支族の情熱は、蹴散らされた途上の小族らにとってただはた迷惑以外の何物でもなかったろう。
「…止まれ」
カイの指図で軍勢が足を止める。
そのわずかの後、行く手の霧の中から豚人族の小集団が飛び出してくる。
待ち構えているカイたちは落ち着いたもので、飛び出してきて谷の国の軍勢を見た豚人族らが慌てて路傍に避けていくのを見守っている。
個であれば傲慢不遜な彼らも、軍勢を前にしては恐れて道を空ける。戦う意思のないものたちを谷の国のものたちも相手にはしない。
待って、また進みだす。
通りかかる豚人族らは、例のウルバンが囲い込みに行ったフォス支族の生き残り……逃げ遅れていた難民たちなのだろう。むろん元気なものばかりではない。疲労困憊で隣人に助けられているもの、うずくまって路肩から動かぬもの、すでに生きているのかどうかすらわからぬ草むらに倒れ伏したものたちなど、いろいろである。
動けるものたちは、軍勢をやり過ごすなりまた南へと避難を開始する。彼らの生路はただひたすらに前にしかないのだろう。フォス支国という脅威がその数だけ増大していくのが分かっていても、カイたちには取り合っているゆとりはなかった。
(…みな迷い子みたいに怯えていた。オレが大耳族の土地を取ったから、豚どもの道沿いの屋根が落ちたのか)
道の行く手は完全に霧に沈んでいる。
大耳族の邑が谷の国の屋根と繋がって空が高くなったのと理屈は同じく、土地神の連環が断ち切られた豚人族の空は、支えを失ったように低く垂れさがってしまったようだ。
(切り離されると相互作用がとたんに弱くなる……《集》とかの理屈もそうだけど本当に『分子結合』みたいだな)
奪ってしまった側としては申し訳ないのだが、豚人族のそれとは対照的に、連環が直接的に繋がった谷の国の影響力増大はここにも表れ始めている。谷の国の王たるカイの周りから、霧が逃げるように引いていくのだ。まるでカイそのものが土地神の墓石であるかのように、小さな屋根らしきものが立ち上がっている気配である。
その範囲は精々10ユル四方ほどなのだが、それでも見通せるだけありがたかった。些少でも不測の事態に対せるゆとりがあるということだった。
そのとき前方の霧の中から、わあっと声が起こった。
やはり豚どもの難民なのだろう。その悲鳴ともつかない声を皮切りに、『将棋倒し』のように数十匹が谷の国の屋根の下に転がり込んできた。
霧のない空間にまろび込んだ豚人族たちは、ほっとするのも束の間武器を構えた谷の軍勢を前にすることになる。むろんカイの命令で眷属たちは避難民らを相手にすることもなかったから、まるで『ラッセル車』で左右に除けられる雪だまりのように、大勢の豚人族たちは道のわきに逃げていく。
カイはそちらには全く眼差しを向けない。
険しさを増したその顔を、吹き付けた風が撫でている。暴れる前髪を掻き上げるように、カイは前方にあふれ立った霧の波頭を見上げていた。
「なんだあれは」
嘆声が漏れた。
傍らのポレックが武器を構えて前へと出た。
もともと肉眼ではなく心の目で世界を見ている小人族の長には、カイ以上にその恐るべき何かの全容が見えていたのかもしれない。
(降りるまでまだ間がありそうだったのに!)
不定形の何かが濃密な霧をかき混ぜるように勇躍する。
外神!
下がり落ちていく世界の皮膜を押し付けるように、ゆっくりとその高度を下げつつある外神たちの群れはいまだ頭上にある。これは本格的な接触ではなく、先遣隊のようなものが先に地表に到達したのか。
実物はまるで知らないが、地上最大の海棲生物『鯨』のごとき不定形の巨体が、霧の海を叩きつけるように大きく跳ねている。
その湧き立つ白い波間を、豚たちが蟻のように死に物狂いに走っている。相対的質量差が、現実感を喪失させる。
生も死もなく、おそらくは時という概念すら超越しているのであろうかれらがなにゆえにオレたちに殺意を向けるのか……食い散らかそうとするのかは分からない。理屈はわからねども、餌たる生き物たちは死を恐れ、逃げ惑う。オレたちはやはり死ぬのが怖い。
(あれは、地付きの神……『穢神』だ)
カイの様子を見ているのだろうネヴィンの声が頭に響く。
多くを語るまでもなく次に脳裏に閃光がひらめき、言語以上に効率化された情報の塊が送り付けられてくる。
もともと霧に包まれている大森林の深部は、守りの皮膜がないにも等しい土地であり、かつての千年期にそのまま地表に居残り、棲みついた『地付き』たちが適応進化を遂げているのだという。
『悪神』が世界に忌まれ肉を燃やされるように、外神も皮膜の内側では長く生きられず、新たな千年紀の最初期にほとんどが燃やし尽くされる。が、森の深部のみはその呪いが薄く、環境に適応した神たちにわずかに生存の機会を与えることがあるらしい。
普段は深部の霧の底に潜んでいるものたちが、外神たちの接近に刺激を受けて動き出したのか。
(あいつらには関るなー。存在の位相が噛み合わねー)
ネヴィンだけではない、他の『守護者』たちからも次々に忠告が投げられてくる。彼らをして関りを忌避するほど厄介な相手らしい。
存在の位相が噛み合わない。なるほどと思う。
依り代を介して強引にこの世界に入り込む『悪神』とは違い、外神そのものとして生き延びている『穢神』たちは受肉していないがために、次元違いで触れられない。低次の3次元生物にはたしかに手に余る相手だろう。
しかしなんだあれは。
『穢神』に襲撃された豚人族らが、触れた瞬間に木の葉のように舞い上がる。触れられないものたちがぶつかり合って、なんで物理的な現象が発生するのか。
「オレの後ろに下がれ! 防御!」
谷の国の軍勢が身を寄せるようにカイの背に集まり、手にした武器を棘のように外へと向ける。カイのひときわ膨大な霊気に気づいたのか、別の場所から躍り出たもう一体の『穢神』が突っ込んでくる。
一匹だけじゃないのか。
全身に『骨質耐性』を広げ、衝撃に備える。恐るべき大敵を前にしてそちらを凝視しているおのれの眷属たちをチラ見して、心に湧き上がる釈然としない何かに頭を掻いた。
なんかおかしくはないか?
逃げる豚たちもそうだが、後ろで身構えている眷属たちにも、頭上の外神には見えていなさそうなのに、地表の『穢神』のほうは確実にその目で追っている。肉眼でとらえられているのだ。
間近に迫る『穢神』の巨体に、居竦んだものたちの悲鳴が上がる。
(同じ『外神』なのに、なんでこっちは見えている?)
カイは目を凝らした。
見れば躍動する『穢神』の透き通るような身体が、日の光を受けてわずかに照っている。光をわずかでも跳ね返しているということは……それが光に対する反射であるならば、その体を包む外皮が何らかの物質的要素を備えているということでもある。
本当にやつらは純粋な高次元存在なのだろうか。
「主様!」
ポレックの叫びを背に、カイは踏み出した。
『不可視の剣』は眷属に触らぬよう慎重に伸ばしている。
瞬間、目の前の白い壁が爆発した。
『穢神』の巨体が、霧を突き破って頭から突っ込んでくる。その必要はないはずなのに、口らしきものをぱっくりと空けているのは、捕食の真似事なのか。
見えるのなら、斬れるはず。
即座に覚悟しつつも、惑う。
ならばどこを斬る!?
背後には守る眷属たちがいる。骨質に包まれたおのれは大丈夫でも、透過を許せば呪いはおのれの背後へと及び、大勢の眷属たちを戦闘不能に陥らせてしまうだろう。
大口が迫ってくる。
ならば『食えぬ』ようにしてやる。
身体は流れるように動いた。踏み出した足を横に開き、剣を横に一閃した。
(下顎)
狙ったのは嚙合わせるためにできた下顎。低きにあるカイにはもっとも狙いやすかったのもある。
うっすらとあるらしい『穢神』の体皮を斬るのには、ほとんど抵抗らしきものはなかった。敢えて例えるなら風を受けて膨らんだシーツを棒で押したような感じ……心もとないものであったけれども、『不可視の剣』は見事にその仕事を果たしてくれた。
外神の薄皮……それはこの物質界に捕らわれて千年、忌まれ続けるがゆえに適応を余儀なくされ、世界とおのれという個を分け隔てるために彼らが獲得した体皮だったのだと思う。個の境界線に物質化を受け入れることで、彼らはこの世界で生き延び続けたのだ。
物質としての性質をわずかにしか持ち合わせない『穢神』の体皮は、燃費の悪い『不可視の剣』をよい意味で非常に長持ちさせた。一閃が目的を完遂するまでその力を保ちえたのだ。
結果『穢神』の下顎は中途に終わることなく完全に切り離され、体液かもわからぬあいまいな内容物を大量にまき散らして千切れ飛んだ。
そのあたりの『弾け方』は、まるで『水風船』を割ったような感じである。
『穢神』が金切り声を上げた。
「耳痛イ!」
「化物!」
発された形容し難い高音が、備えていなかった眷属たちを襲った。
下顎を失った『穢神』は、餌をとらえることができないまま軍勢を舐めるように右側へと逸れ、木々をへし折りながらまた空へと戻っていく。
谷の国の軍勢も黙って見送りはしない。幾人かの小人族が放った矢は、その多くが半透明の外皮に弾かれてしまう。
鹿人族がスリングで投げつけた礫も、やわそうな外皮を貫けなかった。
一体どういった物質でできた体皮なのだろうか。
(あいつ『穢神』を斬りやがった)
意識が近しく繋がったままのネヴィンから、驚きのさざ波が伝わってくる。
触ることのできない神のなれの果てと教えたのに、普通に切り結んだカイに衝撃を受けたようだった。
(…そういえば前に『悪神』も切り刻んでたなー。アレはものを切る『呪』か…)
(****!)
(**ッ)
意識野で、なぜか『守護者』たちの議論が始まった。
知ったふうなことを口にしたネヴィンの意識が、たくさんの光に追いまくられて遁走した。知っているのなら教えろ。いま教えろと、ほかの『守護者』たちが群がってゆく。ただ頭の中に光が瞬いていただけなのに、そんな機微をはっきりと感じる不思議。
彼らが何を驚いているのかピンと来ていないカイは、ネヴィンを取り逃がした同僚らの照会に、「切る魔法だ」と揺るぎなく肯定したのだった。