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2021/06/08改稿
ここにおわす神は、尋常なるものではない。
断崖から熱気のごとく立ち上る膨大な神気が、背を向けてさえ心胆を寒からしめる。崖下におそらくはその墓所があるのだろうと察しはしても、無断で立ち入る気にはならない。周りの亜人たちもそれをなさば怒り狂うだろうと分かる。
神域。
対岸の緑がかすむ広さ……差し渡し数百ユルほどのこの巨大な縦穴は、紛れもなく預言の『荒神』の座所なのだ。
「待て」
「抵抗はいたさぬ…こらッ」
頭を下げはしたものの、人族と亜人種たちの確執の歴史は生易しいものではない。槍を構えた小人族、鹿人族らが襲い掛かってくる。
『二齢』の隈取を顕したノールとホズルは、簡単には傷を受けぬと言えどもやられっぱなしで耐えられるものではない。掴んだり払ったりして避け続けて、それでも足らぬとなってついには逃げまわった。
「ここの神憑きに会いたいのだ」
「聞けッ」
谷の底にはほとんど人気は感じぬものの、その崖縁全体にはおそらくは数百を下らない幾種もの亜人たちがひしめいている。続々と集まりつつあるそれらに、無抵抗を決めたふたりがいつまでも無事でいられるはずもなかった。
蹴られ、殴られ、槍で突かれたふたりは、ややして襤褸屑のように地べたに投げ出された。そこまでしても手を出さなかった彼らに、亜人たちもようやく平静さを取り戻し始める。
よたよたと、また平伏するていを取るふたりの人族に、その場にいた鹿人族の長老ノイゼン老が、巨大化して重たげな角を揺らしながら進み出た。
「人族が、何用で参った」
歳振りたものたちが知恵に長ずるのはよくあることである。
聞き取るのに難のない人族語にノールとホズルは顔を上げ、ただ「この土地の神憑きに会わせて欲しい」と願いを口にした。そしてノイゼンの「我らが王に謁見を願うか」との応えに、預言の『荒神』がすでに彼ら亜人種から王と傅かれる立場にあることを知る。
(すでに『国造り』までも)
交渉事はすべてこちらに預けてくるホズルの目配せで、ノールは謁見を望むかの問いに是と答えた。
亜人種たちがざわついた。人族の側から交渉を持ちかけられることがよほど驚きであったと見える。代表の鹿人族長老の背後で人垣が割れたので、すわ『荒神』の登場かとふたりは背筋を伸ばしたのだが…。
「お坊様方なのですか」
亜人たちの後ろから現れたのは、人族の娘だった。
辺土の民に多い明るい栗色の髪を伸ばしたその娘の頭には、子供が作ったような花冠が載っている。丁寧に服の裾を折るようにしてかがんだ娘は、距離の近くなったノールの見上げる眼差しを受けて、辺土の民たちがよくやるように返しの聖印を切った。
マヌの教えを知るものの所作だった。
「なぜこのようなところにまでいらしたのですか」
「…そなたは?」
問いに答える前に疑問を口にしてしまったノールに、娘は目を見開いてから「ああ」と肩をすくめた。面識もなかったはずなのになぜか娘に親しみを覚えていたノールは、彼女の答えで合点した。
「わたしの名はエルサと言います。この谷の主、『谷の王カイ』の妻です」
「…ッ」
「…なっ」
親しみの正体は、村を出がけに会った少女の面影が不思議と重なっていたからだった。
《百人力》のカイ。
そのカイが葬ったという死した恋人。エルサ。
村にやってきた巡察使に無体され、大怪我を負わされたという不幸な娘が、死ぬどころか目の前で傷ひとつなく元気にしている。
そして『目』のよいノールは、その娘からもただならぬ力があふれ出していることにも気づいてしまう。
(…この娘も『加護持ち』か。《百人力》が与えたのか)
その体に薄く残るあおにえた痣に目が行くものの、『荒神』の……『谷の王』カイの妻である娘に不快を与えぬよう、すぐに伏し目する。ゆえにその娘に続いて現れたもうひとりの娘、バーニャ村領主、ピニェロイ・サリエに気付くのがやや遅れてしまう。
寄せ集めのような亜人種たちの集団に、こともなげに加わっている人族の娘たち。ピニェロイ・サリエもまた妻のひとりであるというところから、やはりラグ村の《百人力》……人族の出であるカイという男が『荒神』の代でであると強く確信する。胸をなでおろす間もなく、ノールはまた深々と平伏すると、改めて『谷の王』カイへの謁見を願い出たのだった。
「そうでしたか」
カイ王は不在だった。
新たに臣従した種族たちの求めに応じて、急遽鎮撫に向かったのだという。わずかに数刻前のことであった。
おそらくはふたりも見た突然の天変地異……この世の多くのものたちを守り続けていた人族の大屋根が落ちた時に、同じくカイ王にも動かねばならない理由が生じたのだろう。
ラグ村の娘、エルサは最初の妻として、亜人たちから『正妃』として扱われていた。ゆえに不在の王に代わり、彼女が『謁見』の主体となった。
《僧会》の命を受け辺土へとやってきた僧侶であること、訪れたラグ村で領主家から依頼を受けたこと……そして依頼内容である伝言、《百人力》カイへの帰村命令を伝えたのだった。
モロク家当主の正夫人、カロリナの名で発されたその命令の内容に、正妃エルサは目を丸くして、不安げに隣に立つピニェロイ・サリエを見た。かつて所属した村の領主家が出した命令と聞いて、恐れる気持ちが湧いたのであろう。
が、今の彼女は他国の王の妻であり、比べるまでもなく立場が逆転している。黙って頷くサリエに、エルサはほっと小さくため息をついて、ようやく先の短い応えを口にしたのだった。
「…白姫様が」
「おそらくモロク家も知ったのでしょう。強い男を手放さぬよう縁組に動いたのでしょう」
「きっと妻の多さに驚かれるでしょうね」
大勢の亜人たちの中で、たったふたりだけの人族同士、共感しあう部分も多いのだろう。妻同士の軽い戯言に、エルサは苦笑した。
実はエルサとサリエのほかにも、カイ王の妻と名乗る亜人の娘がいた。エルサの左側に立つ童のような背丈の少女アルゥエ様と、腕組して胸をそらしている気位の高そうなニルン様……人族にはほとんど見たものもない鹿人族なる種族の姫であるらしい。
ラグ村で夫となる男の帰りを待っている白い姫君のことを思い出して、ノールはそっと肩をすくめた。女たちは戯言のように笑い合っているが、すでに4人の妻がいると聞いたらどんな顔をするやら。ああ、この元恋人の正妃様については、『死んでいなかった』だけなのだが。
「王がお帰りになられたら伝えましょう」
そのような返答をされても、ふたりは立ち去るわけにはいかない。
具体的にカイ王、あるいはその代理の者がラグ村に向かうのはいつになるのか、使者となったからには最低でもそのぐらいは持ち帰らねばならぬし、そもそもそれらを口実にしているに過ぎない彼らには引く気など微塵もなかった。
ともかくカイ王と会う。ただその一念で。
正式な回答をするまで、バーニャ村にとどまっても構わないと提案を受けたが、ふたりは意にも介さなかった。
「…微力ながら、お力添えできるやもしれませぬ」
「われらは修行により力を得た人解僧である。王がお困りであるならば協力するもやぶさかではない」
「…しかし王様は森の奥地に」
「いずこなりとも。余所者である我らがご領を通る許しをいただきたく」
「伏して願い奉る」
すぐにでも後を追わねばならない。
先の天変と預言の『荒神』の動きが無関係であるはずもない。きっと何かの大事が森の深部で起ころうとしている。見届けよ、と我が神が突き動かす。
正妃エルサは困惑を隠さず、鹿人族の長老ノイゼンも人族の立ち入りにはっきりと難色を示した。立ち会っていた汗馬族の女長、レイメイもまた盛大に鼻を鳴らした。
周りに集まった亜人たちは、ほとんどが否であると騒いだ。王の出征に付き従いたかったのは彼らも同じだった。ただ性別が雌であるからとか、歳若であるからとか四の五の言われて居残りにされた者が多かった。カイ王は眷属みなから深く慕われていた。
「…おまえたち、『加護持ち』なのです?」
困惑する夫人方のなかで、ただひとり口を開いたのは鹿人族の姫、ニルンだった。
「なら連れていくです」
言い出したニルンを、小人族の夫人アルゥエ様が取りすがった。
しかし続けられた言葉に、その澄んだ瞳が悔しげに細められた。
「なかの神様がささやいてくるです。ニルンは神様のところに行くです」
「ニルン!」
「ニルンも『加護持ち』です。きっと手助け、できるです」
神のお告げと言われては、口をつぐむしかない。第二夫人アルゥエは常人だった。
第三夫人ニルンは「くるです」と背中を向け、ふたりはすぐさま立ち上がったのだった。