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2021/06/01改稿
ただ事でないことはだれの目にも明らかだった。
寒冷な北方辺土の貴重な恵みの季節、夏の始まりを待つばかりであった空気が一変していた。
鳥肌立つような急激な気温の低下。
吐く息の白さに愕然としていたふたりの僧侶は、言葉も交わさぬままに我先に見晴らしの利く高地を求め、涸れ川の岸に剥きだした大岩の頂に素早くよじ登った。
そうして見渡した天変後の大地。
「おい」
「まさか……ありえぬ」
地表の広くに現れた朝もやのような霧。
温みのあった日差しが陰った空には低く雲が垂れ込める。
ホズル坊の捧げ上げるようにした手のひらに舞い落ちる、白いきらめき。
「雪が」
空から舞い降り始めたそれは季節外れの雪であった。
もともと寒冷な辺土では見慣れた景色ではあったが、いまこのときそれが降り始めるのはあまりに致命的だった。
ただでさえ不作が案じられていた辺土の農作が破綻しかねない。
ノール坊が筋張った腕を伸ばして指さした先には、人族と豚人族が……土地を争い対峙していた涸れ川の両岸で、呆然と空を見上げていた。
まだそれぞれが、この天変のもたらす災厄の深刻さに気づいてはいない。日差しに青々と色づいていた作物が、雪片にけぶり出した景色の中に黒ずんで見える。この冷気が一時のものならばまだしも、数日続くようであればそのことごとくが全滅するであろう。
そしてふたりの僧侶たちが、そろって目を転じた目的地たる西方には。
「いったい、なにが起こっているのだ」
向かう先に見える10ユルドは先にあるバーニャ村は、ほの明るい日差しに包まれている。まるで福音のごとく光の降り注ぐその村の頭上には、目に沁みるような鮮やかな空の青がある。
ふたりの僧侶らがそれを目にしたように、いずれ近隣に生きるものたちにもその奇跡の光景は衝撃をもって迎えられるに違いない。それほどまでの在りようの差だった。
まさか、とノール坊がつぶやいた。
その村には彼らが気にかけているラグ村の《百人力》がいるとされている。『成りかけ』の皮をかぶって周囲をたばかっていた怪しき『加護持ち』……おそらくは預言に現れていた『荒神』がその村に関与し、ひそかに祝福を与えているのではないか……そんな想像が働いたのだ。
村に顕れた神の奇跡。
その輝きこそが預言に現れる彼の神の大いなる力の力の在りようを証立てている。
「ゆこう」
「もはや猶予ならん」
ふたりの僧侶は村へと走り出した。
バーニャ村。
豚人族に蹂躙されたものと思われていた村が、奇跡的に人族のものとして維持されていた事実は、その後村外の農地で村人たちが作業をしているところを目撃されたことで、徐々に知られるようになったようである。
そしてその村の青々とした実りの濃さが普通ではないと噂が広がると、不作に苦しむ周囲の村々が騒ぎ始めた。
滅びかけた村がなぜ。
『2齢』村に過ぎぬピニェロイ家の土地がなぜ。
近隣の食い詰めた者たちが群れを成して詰めかけるまでほとんど間はなかったという。そして彼らがどれほど必死に門を叩いても、村人たちがそれに応えることはなかった。
一度見捨てられた村人たちは、同胞から見捨てられた恨みをけっして忘れてなどいなかったのだ。
村の周りでは実りの多さを狙っての盗っ人が出るようで、さほどの広さはないものの農地を丸太の柵で囲い込み、警備に勇ましげな女たちが武器を抱えて歩いている。
警告であるのだろう、街道筋に打ち込まれた丸太杭に、むごたらしい死体が掲げられている。その罪をつまびらかにする札を読むに、その者たちは村に忍び込んで抵抗した村人を幾人か殺したらしい。食い詰め者というか、同情するにもあたらない盗賊の類だった。
近づくふたりはすぐに誰何されたが、その身なりで渡り僧と分かると、丁重に村内へと迎え入れられた。広大な辺土をたゆまず歩き続けた先達たちの功徳のたまものであったろう。
先の豚どもとの戦い以降、大勢の人死にが出たその村は、死者を送り出すために弔いできる者の来訪を待ちかねていたらしい。
この求めは断れない。
打ち壊されて屋根もなくなっている拝所で求められるままに抹香を焚き、ひとしきり聖句を唱え上げた彼らは、それらの義務と一対と言っていい供応も受けねばならず、塩を濃い目にした白湯が出され、倹しいながらも食事まで供される。2刻ほどの時を空費せねばならなかった。
そうしてようやく当初の目的……村の領主への面会を希望したふたりであったが、その期待は空振りに終わることとなる。
「伏せっておられる?」
供応役の顔役女は、主人であるサリエ……まだ20にもならない娘だという当代領主が、体調を崩して伏せっているのだと申し訳なさそうに説明した。
村に立て続いている危機の数を考えれば致し方はないものの、ふたりは引き下がるわけにはいかなかった。
快癒の勤行をしたいと願って断られ、ならばとモロク家からの頼まれごとまで口実にしてみたが、表情を消した顔役は首を縦に振らない。ついにしびれを切らしたふたりが強引に領主の間へ通し通り、伏せっているはずの女領主が不在なことを突き止めると、とうとう顔役は陥落した。
「…森に入られている?」
「はい。この村にとてもよくしてくださるお方のもとに……お坊様!?」
盛大な舌打ちを残してふたりは駆けだしていた。
村の北面、数百年前の北伐の時代から人族の行く手を阻み続けている丈高い古木の森をのぞむ防壁に上がり、ホズル坊がぴゅうと指笛を吹いた。どこからともなく飛んできた白頭鷲に、手早くしたためられた書状が括り付けられる。その鳥が飛び立った脇では、胸壁の上に胡坐をかいたノール坊が、僧院に伝わる秘術で瞑想し行くべき道を探っている。
彼らには安閑とするゆとりなどはない。
「北の森のあちら方に、陽炎立ち上る地が見えた」
「距離は」
「おおよそ30ユルドほどか。深部というほどには深くはないわ」
おそらく辺土が冷え込まねば見出せなかったのやもしれない。雪がちらつくほどに冷え込んだ恩寵薄き北方辺土で、陽炎が立つなどそれはよほどの気温差があるということである。
すでに村に入って2刻以上が過ぎている。目を転ずれば、村の奇跡を発見した周辺の者たちが、遠巻きに集まりつつある。
この村ひとつのみ神の奇跡が降り注ぐように光に包まれているのだ。どれほどの愚者であっても気づかぬはずもなかった。
遠からずこの村は騒ぎに巻き込まれるだろう。防壁のほとんどが崩れてしまっているこの村が、押し寄せる群衆にどこまで抗えるのかは知れない。まあ背教者どもの村など彼らには知ったことではなかった。
「『荒神』は人間にあるのではなかったのか」
「大師様から伺ったときは、真実そうであったのだろうよ」
「しかしこの村を覆うすさまじき恩寵の量、いかな大神とは言え尋常ではないぞ。何齢の頂にある神なのだ」
「国が揺れておるいま、これほどの力ある土地神を野に放っておくわけにはいかぬ。《僧会》の大師様方が気にかけていたわけよ」
「報せは送った。あとは大僧正様がご判断されるだろう」
崩れた瓦礫を滑るように降りて、ふたりは村外に築かれた農地の防柵を軽々と飛び越える。それを唖然と見送った村人たちが騒ぎ始めたが、振り返ることもしない。
村を囲むように集まりつつある亡者ども……藁にもすがろうという隣村の領民たちも、村から駆け出してくるふたりの僧を見て目を丸くしている。僧院武術の達者であるふたりの健脚は、人混みを風のように縫って突き抜けていく。
そしてすぐに無人の野となった荒野をひたすらに駆け、やがて森の端へと至った。亜人の領域とされる森の暗がりは所々に霧をたたえていたが、二人の目指す方角に進むほどにその兆候はなくなり、空気も急速に温みを強くしていく。
そうしてすぐに踏み分け路という以上に太い道を発見した。往来する巨大な鎧鼠と荷馬車の列を並走するように追い越し、にゃあにゃあと騒ぐ猫人族たちを置き去りにする。
「じじいは亜人語が使えるか」
「亜人語なぞ音形を整えれば通ずると聞いたが。王都のお偉方どもも異形どもを飼うのに使うらしい。まあなんとかなるわ」
「『荒神』はなぜ森の中になど……依り代は人族ではないのか? なぜ亜人どもが」
「それもすぐにわかろうて」
やがて森の中は昇り斜面となり、行く先々でいろいろな亜人種と遭遇する。
なかには警備中と思しきものたちの姿もあり、鹿人種、人族の子供と見間違いそうな小人族などが、ふたりの姿を見て慌てて打ちかかってきた。
わざわざ相手するまでもない。特殊な歩法に長けたふたりの速さに追随できるものはいない。そのうち昇り斜面も急となり、道が九十九折れになるなかふたりはまっすぐに土手を駆けあがった。
そしてほとんど飛び上がるようにしてたどり着いた場所。
広場というにはさほどではないものの、草木を狩り込み庭園のように手入れされたそこは、大勢が集うには適した場所だった。
そこには数十は下らない亜人種たちがいた。驚くべきことにやはり単種ではない。小人族、鹿人族、大耳を垂らした珍しい種に、大きな馬の種族までが混ざり合ってそこにいた。
近くには人族の様式ではない土壁を張った大きな建物があり、その入り口に立っていたやはり警備の兵が、突然現れたふたりを見て慌てて駆け寄ってきている。
ノールとホズルは、人族と比べてもあまり大型でない亜人種らを、喫緊の敵とは認めなかった。警戒しつつも狭い広場を駆け抜け、そしてついにその先にある断崖絶壁、隠されてきた『守護者』の『谷』をその目にしてしまう。
断崖に立ったふたりを、はるか下から昇ってくる風が撫ぜた。
その温い風は同時に谷底にある豊富な実り……花や果実の馥郁たる香りと、爽やかな水と緑の香りを含んでいた。それらに鼻をくすぐられて、ふたりは意識もせずに喉を上下させた。
人族の支配する土地は、概して豊かであった。
しかしその豊かさを余すところなく日々の糧と交換してきたために、人がそうした野放図な青々しい香り、自然そのものの香りに接することはほとんどなかったと言っていい。
「おまえたち、誰!」
存外に聞きやすい人族の言葉に、ふたりは振り返る。
突き付けられる彼ら亜人種たちに見合った小さい槍を見て、厳しくなりかけた眼差しをすぐに意志の力でほどいた。
勝つか負けるかではない。
彼らは預言の『荒神』を、人族の祭る廟堂へと勧進せねばならないのだ。
静かに膝をつき、禿頭の人族ふたりは草っ原に額を擦り付けたのだった。