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2021/05/23改稿
大森林の『深部』には常に深い霧が立ち込めている。
気温や湿度などの条件によって現れるその『霧』という現象を、カイは前世知識などによらずとも体験的に知っていた。
が、それが一日中、四六時中にわたってわだかまり、数年どころか数百年以上もその状態を維持しているという『深部』の景色は、世の理に背く不可思議なものとしてしか認識されていなかった。
脈絡が繋がるまでは。
(そういうことか)
おそらくは前世知識があったればこそ……基礎的な知識があればこその単純な着想。
厳密には惑星ですらないこの世界に前世の知識が当てはまるのかどうかも分からない。分からないが、それが『解』なのだとしたらずいぶんとすっきりとする。
現実にそれは風に乗って流れ、日を遮ったり雨を降らせたり、つねに頭上に仰ぎ見るものとして存在するものだった。
(あれは、『雲』か)
同じ『水蒸気』でも発生する場所でそのくくり名が変わることがある。
なるほど空が落ちたのだから、『雲』が地べたを這いずっていても何の不思議もありはしない。
(神なしの大森林……ネヴィンが言っていたけど、たしかに森は深く踏み入るほどに土地神が弱くまばらになる。多分さらに深い場所にある『深部』には土地神がまったくいないのだろう。土地神のいない無主の『深部』にはそもそも空を支える柱がない……年中『雲海』に沈んでるのも理屈か)
その度し難い『深部』の霧の向こうから、あのクソじじいはなにを引き入れた。
豚どもを追い立てているアレはいったいなんなのだ。
「天の落ちたそこは、外神どもの『狩場』になる」
頭上を覆う濃密な霧の層……そのなかに離れ小島のように突き出している大耳族の邑の屋根……そこにはいまだ薄く霞がかかるものの、空の青さが切り取られたように小さく丸く現れている。
呪いのように白一色に塗りつぶされたその場所で、唯一光と色彩にあふれた円錐状のその雲の竪穴は、生き物たちの視線を集めずにはいられない。
大勢の眷属たちが日差しに目を輝かすなか、カイだけはその異変に気付いてしまう。谷の神様の特恵である目の良さゆえか、カイのみが群れ泳ぐ不定形の何かたちをその穴の向こうにとらえていた。
(…低い!)
外側の神々。
この世界の成り立ちにはまるで関与せぬ、ただ滅びだけを与えてくるまつろわぬ神々が、いま守りを失いつつある世界を食らわんと迫ってきている。
水底を逃げ惑うか弱き小魚たちは、捕食者たる大魚たちをこのように眺めているのだろうか……脈絡もなくそんなことを思う。円を描くようにゆっくりと空をめぐっているうすら白い神々の姿が、1ユルドもなさそうな低空にまで下りてきている。
その距離の近さゆえに、神々一体一体が途方もない量感を持っているのがよくわかる。小さく見える端神でも『鯨』ほどの大きさがあるのではなかろうか。大きいものなど村ひとつ飲み込みかねない大きさがある。
創世神の守りの皮膜が失われると、あれらが地表にまで達するのか。
血の気が音を立てて引いていく。千年をかけて生み増やされた地表の生きとし生けるものたちが、おそらく抗うこともできぬままやつらの餌にされるのだろう。
「…まだ完全に創世神様の守りがなくなったわけじゃねー。ほつれそうな穴をふさいでいけばまだまだ時間は稼げる」
おそらく落天をそのままにしておけば、皮膜は外神たちに押し付けられるように地上に落とされ、世界へと侵入する破孔とされるだろう。
やり方はわからねども、千年期を生きて潜り抜けてきたネヴィンたちには、経験に基づいた歴とした対応策があるのだろう。もの知らずなおのれが無い知恵を絞っても仕方がないのだから、ここは従うまで……カイが事態を受け入れ、指示を待つように見つめると、ネヴィンは満足したようにうなずいた。
そして、とんでもないことを言い出した。
「おまえが主導するんだ」
「……えっ」
「いいか、当事者たるおまえこそがこの《会崩し》の主役を張るんだ。もう同輩たちは動き出してる。おまえのやるべきことはおいらたちの補助なんかじゃねーぞ」
「…ちょ」
「千年ぶりの《会崩し》だー。間抜けな顔すんな」
ネヴィンが小突いてくる。
戸惑うカイをからかいつつ、ネヴィンが周囲をきょろきょろと見まわす。
そうして土地神の墓石と霊的に繋がるアラライを見出して、まるで飼っている犬を持ち上げる子供のように、彼を捧げ上げた。
「ここの土地神の代はこいつだなー」
わけのわからないアラライは、手足をばたつかせて抵抗した。
しかし助けを求めるようにカイを見、「あきらめろ」と首を振られると、わきまえてすぐにおとなしくなった。
「おまえ、豚と戦わずに一度逃げただろ」
「…ソレ、仕方ナイ。大耳族、弱イ」
「勇気を見せない種族は、神様に嫌われる。だからこの邑の屋根がこんなにちみっけーんだ」
そういえば正当な領主が村を奪還したっていうのに、屋根の高さに劇的な変化は見られない。もしかしたら奪還前よりも日の光が弱まっているようにも思う。
土地の『加護持ち』と支配権、名と実がともにそろったというのに屋根が低くなるってのは道理に合わない。
きつい指摘に震えあがったアラライが、涙目でカイを見てくる。
見た目にもふもふとはいえ大の大人……それも種族の筆頭戦士であるアラライに甘えられても気持ち悪いだけである。
カイはそちらを見ぬようにして、ネヴィンに確認した。
「いさおしを証立てるのか」
「まあ、そうだなー」
ゆっくりと周りを見渡して、カイはまだ息のある死にかけの豚人兵を肉の山から引きずり出した。それをアラライの前に投げ出した。ネヴィンはアラライを下ろして、顎をしゃくった。
「まあやらねーよりはマシだろ。こいつを殺せ」
もう集落に五体満足な豚人族は残ってはいない。『加護持ち』がいさおしを証立てるには戦士同士、一対一の奉納試合が妥当だが、それができないのなら死にかけでも供物にするしかないだろう。
「アラライ」
カイに目で命ぜられ、アラライは死にかけの豚人兵に牙を立てた。あまり大きくない大耳族の口ではなかなか仕留めきれなかったが、血まみれになりながらも食らいつき続けてようやくその豚人兵を大霊河へと送った。
血まみれのおのれにうんざりしたように棒立ちするアラライに、今度はカイが『神石』を取り出せと促した。
分厚い胸板を嚙みちぎり、体皮の穴からねじ込んだ前脚で掻き出すようにごつごつした『神石』を掘り出した。その『神石』をアラライが天に掲げた。カイが素早く手刀で殻の一部を刎ね、「飲め」と促すと、素直に髄を飲み下した。これで死した豚人兵が、その一生をかけて積み上げてきた経験値がアラライの中へと吸収されたことになる。
すると、にわかに変化が現れた。
集落に降り注ぐ光が強まったのだ。
見れば明らかに屋根が持ち上がったのが分かった。雲の竪穴がぐんとその大きさを増し、青空が押し広げられる。
「…こんなもんかー」
その後ネヴィンが促し、アラライは族人たちにかき集めさせたほかの『神石』を土地神の墓所に供え物とし、嚙み切った指から自身の血を墓石へとなするようにする。
それは以前に見たヴェジンが呪われた墓石にやっていたやり方に似ていた。
その簡単な祭祀が神に通じたのか、ほんのりと土地神の墓が光を帯び、その後にさらに霧が遠のいた。
そしてネヴィンの教導でカイもまた指を噛み切り、おのれの血を墓石へと擦り付けた。大耳族の主人はおのれであり、ここはその縄張りであると臭い付けでもするように。
それによって集落の空の形がまたしても変化する。まるでより高い山へと繋がる尾根のように、谷の国のある南へと霧のない回廊が現れたのだ。
そしてカイ自身も、土地と土地とのつながりが及ぼす恩恵……《集》の副次的な影響なのだろう、谷という本願地にある時に感じる全能感……戦っても負ける気がしないぐらいの霊気の横溢が、だいぶ減じてとはいえ感じられるようになる。
肌を濡らしていた水気が、夏の日差しにあてられたようにじわじわと蒸発しているのが分かる。カイの全身からもくもくと湯気が立ち上り出して、周りの眷属たちが騒ぎだした。おそらく深部の水気を不吉と嫌気する無意識が、乾燥魔法のように作用したのだろうと思う。
意識下で統御されていた霊力の総量が増して、あふれ出した分が燃えるというか、勝手に消費されている感触がある。
「あとはここいら一帯の土地神を、谷の……おまえが統べれば終わりだー」
「…なんで」
「いいから統べてけー。それがおまえの役目だ」
口をはさむ暇もなく、またしても無理やりにひとつのイメージが光とともに脳裏に広げられる。見ようともしていないのに強引に見せられるのはさすがに不愉快だったが、魔法に長けた『守護者』たちには普通のことなのだろうと思うとその怒りも不発となる。
(地図…?)
それはこの一帯に隠れ潜むものたち……低き地に潜むようにして生きながらえる多種多様な小種族たちの生息図か。
高空から撮影した地表図をそのまま切り取ったかのような地図だった。
ネヴィンは苦笑いした。
「これは当事者しかできねーんだ」