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2021/05/23改稿
谷の王とその兵士らが吠えた。指笛が吹き鳴らされたのは、後方に残った友軍への行動の合図だった。
「いけぇぇ! やれぇぇ!」
群り寄ってすべての一撃をカイに集めようとする豚人たち。
かつておのれたちを圧倒的力で束ねた大戦士、万を数えたフォス支族の力の象徴たる英雄、『六頭将』アドゥラ大族長にも比すほどの大神が、人の姿を取って恐るべき殺意をたたきつけてくる。豚人兵らは歯軋りし泡を吐きながら死を撒き散らす大神に突貫した。
人族の、それもまだ子供ぐらいしかない小兵のカイは、四方からあまたの斬撃を向けられつつもそのすべてを払い、受け止め、殴り返し、時には奪って持ち主を叩き切り、同じくらいの受け損ねた攻撃を身体にまともに喰らい、その隔絶した人外の防御力によって跳ね返した。むろん痛みからは逃れられないためにそのたびに絶叫して、加害者を怒りに任せて殴り殺した。
カイの体皮の硬さは、もはや生半な鉄も通さぬところにまで達していた。おそらくは『加護持ち』の剛力と針のごとき鋭利な武器でなければその守りを貫くことができなかったに違いない。カイ自身がおのれの身体のあまりの頑丈さに驚いたほどだった。
おのれの作り出した累々たる屍を踏み越えて前へとカイが進み、その分だけ豚人たちが後ずさった。カイのあとから続く猪人らの槍襖がじりりと進み、谷の国の陣地を広げていく。
そこに遅ればせながら近くの森から矢が降り注ぎ出した。後方の弓兵がようやく攻撃態勢に入ったようだった。
その細く小さな矢など豚人らにはほとんど致命的なものではなかった。が、雨あられと降り注ぐ矢が新たな寄せ手の存在を示して、敵の心を折るのに一役買ったのは間違いのないことだった。
交渉役であった小人族族長ポレックは、機微を見て素早く攻勢に出た。守っていたカイの背後から飛び出すと、その水が流れるがごとき歩法で包囲の隙を抜け、またたくまに多くの豚人兵らを戦闘不能に陥らせた。関節の腱を切り裂いて回るその小兵ならではの流麗な戦いぶりは、小人族の武威が侮れぬものであることを同胞眷属らに示すこととなった。負けてなるものかと奮起したほかの護衛らも動き出す。鹿人族筆頭兵士のレジクはカイの戦いに飛び込もうとする豚人兵をその優れた後ろ脚で蹴りつけ、空中に踊るままにもう一匹の豚人兵の片眼をスリングで打ち抜いた。小さき人馬兵である掌馬族族長、その筆頭兵士フアニーはそろりと手近な物陰に移動し、音の出る不思議な矢を射込んで後方をかく乱した。
そうしてついに猪人槍兵が総がかりでわあっと雪崩れ込んだあたりで、大耳族の邑での戦いはついにその趨勢を決したのだった。一匹、また一匹と逃げ始めると、豚人族の戦列は瞬く間に瓦解し始めた。ついには後方で身を縮めていた傷病兵らを蹴散らすように逃げるものも現れ、豚人族側は大混乱へと陥った。たまたま邑に接近中であった荷車の隊列が、逃げ出した味方に巻き込まれて車を横転させるのが見えた。もはやなにがなんだか分からないのだろう、次々に味方に踏み潰されていく輸送隊の護衛兵が暴れて、同士討ちまで始まった。
長年の遺恨から目を血走らせた猪人族の槍兵らが殺到すると、また乱れたって豚人らが逃げ始める。走り出したら止まれない猪人族がそのまま追撃していったが、脚力では豚人らも引けを取るものではなかった。その追討戦がどこまで続くのか……おそらくは猪人たちの体力の尽きるところまで続くのだろうが、カイは呆れたようにその背中を見送るのみだった。
そうしてカイは邑の中心にある墓所を前にし、血を流しながらよろよろと歩いてきた大耳族族長アラライを迎えた。その後ろでは味方の勝ち鬨を聞きつけて、森に伏せていた獣型の眷属らが溢れるように姿を現しつつある。そのなかには歓喜に包まれ互いに抱き合う大耳族の族人たちの姿も見えていた。
「王よ!」
毛深い目元を涙で濡らしながら、アラライはカイの前に身を投げ出した。
足元に縋るアラライに手を差し伸べたカイは、その身中に馴染みのあるぬくもりが広がっていくのを感じた。それがアラライからの『帰依』であるのだとしたら、先に寄越されていたはずの帰依は生半なもので、いまようやくにして『本物』が寄越されたということなのだろうか。
そんなことを考える。
まあ後でも先でもかまわない。この神と神とのつながり、従属の連環となる『帰依』というものは、感覚的なつながりを『加護持ち』同士が共有するために相手をたばかることのできるようなものではない。
そしていったん繋がると、まるで古くからの馴染みででもあるかのような親しみが心に溢れるようになる。主従であり、眷属であり、家族でもある。そのように親しみある相手に隔意など抱こうはずもなく、相手も同じ心持ちであるというのならそれは確実に信じるに値するものである。
アラライに対して感じるようになった親しみを、もう一方の請願者、棘狸族族長クルルからも感じられるようになった。大耳族の故地を取り戻してみせたことで、棘狸族もカイを信じたのだろう。
新たに得た力がふつふつと湧き立ってくるのを感じながら、ふと何かに気付いてカイは『アクラミディカ』の墓石に目をやった。すこし横に歩けばその立方体の裏側が見える。
そこに刻まれていた文字がまるで生き物のようにうごめき、そして形を変えていくのが見えた。
形を失う前のものは完全には読めなかった。おそらくはアラライが谷の国に帰順する前に、主従の関係を結んでいた神の名が刻まれていたのだろう。その文字が書き変わり、いま目の前には谷の神様の名が刻まれることとなった。
疑いようのない正式な主従関係がそこにはあった。
(…喜んでるのか)
胸のうちで谷の神様がふるふると身もだえしている。
近頃急速に帰依を増やしている谷の神様は、確実にその神威を増しつつある。依り代の先代が死んでから打ち捨てられていた時がどれほどの長きにわたっていたのかは分からないが、神様にとっても他神を下してその神力を増していく感覚は喜悦を誘うのだろう。
親を知らないカイは、神様がそうして喜んでくれるだけで無性に嬉しくなった。そうか、喜んでくれるのか。
人知れず地に足がつかないふわふわした気持ちを持て余していたカイであったが、不意に鳩尾のあたりの襟をつかんで、ぎゅっと揉み絞った。カイの眼差しが虚空を見つめ上げる。
その肉眼では決してとらえられることのない……意識下に瞬いたまばゆい光が、カイの脳髄を叩いた。
鼓膜を直接指で擦られるようながさついた雑音と、ちらちらと目くるめくいくつかの心象。
それがこの世界の高次に座するものたちの思念の流れであることをカイは知っている。よくよく意識を凝らしていけば、雑音としか感じられない『帯域』のそれも、理解可能な情報として析出することができる。
紛れもなくそれは『守護者』たちの思念であった。
驚きに打たれたカイは、すぐさま意識の内圧を高めてその会話の中に混ざろうとする。そんなカイの侵入に、いち早く気づいたなにものかが、落雷のごとき思念の塊をカイ目掛けて叩き付けてきた。
脳髄そのものを揺すられるような衝撃にうずくまりそうになりながらも、思念の圧力を上げて外部からの干渉を撥ね退けたカイは、その思念がどこから放たれたものなのかを知った。
(くそじじい!)
ちらちらとその断片が見えた。
『守護者』ウルバン……千年期越えの大怪異が激しい苛立ちを込めてカイをねめつけていた。やつは大耳族の邑で起こっていた一部始終をその目でしかと見続けていたのだとカイは即座に理解した。
個の意識が混ざり合うこの思念世界で、心の動きを完全に隠し切ることは恐らく難しいのだろう。古くからの住人であるはずのウルバンですら、その魂のなかで泡のように生まれてくる感情を御し切れてはいなかった。
大耳族の土地を奪われたことを、ウルバンははらわたが煮えくり返るほど怒り狂っていた。時が許せば直接赴いて、生意気な新参者をひき潰して眷属たちの餌にしてやりたいと願っていた。
ウルバンは『守護者』としても最古参の部類であり、実力経験ともにまだおのれの及ぶところではないと思っているカイにとって、その怒りは厄介極まりないものであった。
年長者の敵意に対して若者ならではの反骨神を高ぶらせたカイであったが、おい、と頭を叩かれるような感覚とともに身近に馴染みのある気配を感じて、冷静さを取り戻した。
ネヴィンがそこにいる。
あの空の底が抜けたときから、様子を見てきてやるとどこかへ行ってしまっていた谷の客人が目の前に立っているのだ。何だよ、何かあったのかと問おうとするカイを、雑な手振りで制して。
ネヴィンは苦り切ったように吐き捨てた。
「ジジイがやらかしやがった」
その言いよう。
ジジイとは無論ウルバンのことだろう。飛び交う『守護者』たちの思念にもウルバンへの苛立ちが多く含まれていた。
ネヴィンが川の小魚を手でつかむように、あるひとつの思念の断片を捕まえて、魔法の手管でカイに見せるように共有した。
白い、霧に覆われた既視感のある風景。木々が多く見えることからそれが森のなかのことであることはすぐに見て取れた。
「…『守護者』たちに招集がかかった。ここいらの同輩が集まってくる」
立ち込める霧に沈む、細い踏み分け道。
両側には見上げることしかできない途方もない大木が壁のようにそそり立ち、道行く小さきものたちが蟻のようにその根方の道を這い進む。対比するものが巨木であるために小さく見えるが、続々と続くその蟻の列は、無数の豚人族だった。
よく見れば皆走っていた。
生きるか死ぬかの瀬戸際に追い込まれたものたちが、他者を押しのけるようにしてわれ先と進んでいる。倒れるものは踏みつぶされ、押しのけられたものは霧に沈む森の中に転げ落ちた。
キイキイと泣き叫んでいるのは親を見失った仔らか。
「…霧が濃い。どこの『深部』だ」
「豚たちが『古道』と呼んでる秘密の踏み分け道だ」
ため息のような思念の揺らぎ。
「全部土地を失った流浪のフォス支族だ。ジジイは道がもう持たないと分かって生き残り全部を攫いに動いた」
「それじゃああれ全部が、フォス支国とかいうのに加わるのか」
「…豚の国の一大支族、フォス支族は万にも近い数がいた。ジジイはケツ持ちするフォス支族の生き残りを賭けてる。神なしの大森林を挟んで種族の屋根は繋がらねー。分国しちまったらもう自分らで柱を立てて屋根をかけるしかねーし、屋台を支えるには領民が大勢必要になる」
「数が必要って…」
「土地神を盗って急に支配地を増やしても、それぞれの土地にはそれぞれに適正な数の『民』がなきゃ、あんまし意味がねーんだ。土地神の力ってのは祭祀でもあるんだ。一定以上の民に祭り上げられてようやくいっぱしの神威を持つようになる」
カイは次々与えられる情報に泡を食いながらも、それを強引に飲み下していく。消化不良は自覚しつつも時は待ってはくれない。
人族でも、領民の多い村の領主は有力とされている。大街の主は神格が上がり、寒村の主は神威を衰えさせる。よくある光景であり、モロク家でもオルハやジョゼの神があまり力強さを見せない理由でもある。その2神は廃村された土地の神なのだ。
つまりは卵が先か鶏が先かで、強い領主が神の恩寵を強くするように、大勢の領民も神の神威を上げる要素であるということなのか。
豚人族3000匹は脅威だが、勢いに任せて土地を広げると、単位当たりの人口密度が当然希薄化する。ゆえに新興のフォス支国がさらなる急成長を遂げるためには、子を産み育てるなどではなく難民を吸収した方が速いということになる。だからウルバンは、逃げ遅れている難民たちを強引に回収に動いたのだ。
「…そうして焦って動いて、厄介な奴らまで引きずってきちまった」
映像が展開される。
深部のさらに深く……もはや乳のように濃く白濁した霧のなかを、逃げ惑う大勢の生き物の姿。それらが豚人族の最後尾であるのか。長く伸ばされた縄を手掛かりに視界の利かぬ霧中を逃げ続ける彼らを、追っている何かがある。
鍋の中の乳を攪拌するように霧を渦巻かせるなにかが跳ねるように疾駆する。
遠く地平を見晴るかせる『望遠鏡』のようなその景色は、『守護者』の誰かから寄越されているのだろう。
「…途上のやつらはまだ混沌の一部みてーなもんだ。生き物には毒でしかねー高き世界との親和性が異常に高けーんだ。いいか、谷の……ここいら一帯の土地はもともと世界にいくつかある一等守りの薄い、低き場所のひとつだ。土地は痩せこけて神威もギリギリ、人族の大屋根が落ちたとたんにこうやって深部の一部みてーに霧に飲まれちまう。ここはいま外界と内界がすげー近づいちまってる……大霊河に片足踏み入れたみてーな危うい場所になってる」
カイはぶわりと、全身に鳥肌が立つのを覚えた。
大霊河。
死者の魂が帰る場所。輪廻する魂が還りゆく光輝の河。
はるか頭上に見上げていたあの場所に、気づかず近づいていたのか。
人族という強大な種族が支えていた大屋根がなくなり、空が落ちてきた。その意味するところをカイは理解した。
これは比喩でも何でもない、地上世界を包み守っていた大気そのものが消失して、高空にあった諸々が物理的に地表へと落ちてきたのだ。
普通空には、何千メートルもの高空に、惑星の水循環システムを成り立たせているひとつの相、揮発して白い煙となった水蒸気の滞留する層がある。
カイは村の外を覆っている白い帳を見やる。
森の『深部』のような、深い深い乳のような霧。
そして高さを失った空。
ならばあれは霧というべきではない。
(上空の水蒸気……雲か)
いまここは、雲の中にいるに等しいのだ。