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2021/05/18改稿
森深くの場所に好天の日はそもそも少ない。
カイがその深部近くへと足を運んだ経験は、あの死闘の相手となった真理探究官の調査行と、灰猿人族からの願いを聞く形で向った『悪神』討伐の際の、わずかな日数のことでしかない。
「…ここはもう『深部』なのか?」
カイの問いかけに、アラライが身震いして毛についた雫を飛ばした。
同じようにまつげに付いた水滴を袖で拭いながら、いぶかしむように辺りを見回すカイ。かつて見た大森林の『深部』の記憶と直面する『今』を照らし合わせ、そのような感想をのぼせたのだ。
「深部、違ウ」
毛深い眉間に皺を寄せて、不快感を示したアラライによると、この『悪天』はたまたまのことで、本来ここいらの彼らの土地は、痩せてはいるものの最低限の実りは分け与えてくれる慈悲深い森であり、不吉な霧が漂うことなど一度としてなかったという。
何かがあったのだとすればここ一日ぐらいの間のこと。
その変化の起点となった瞬間に思い当たることがありすぎて、カイはそれ以上問うことはしなかった。アラライは種族が代々守り続けてきた土地の価値が毀損されたと感じたようで、ぶつくさと一帯の実りの多さ……山林檎や森苺の群生地がこれだけある、狩りの獲物となる小さき獣が多棲して、芋の採れる日当たりのよい土地もあるのだと言い募った。
視界をふさぐ、深い霧。
覇族とまで言われた人族の天の屋根が落ちたことで、自ら支える力のない森の小族たちの空までもがともに落ちたのだろう。人族の空の高さに軒を借りるように多くの弱き亜人種らが自覚もなく暮らしていたのだ。
霧というよりも乳色の水底のようなその白い帳は、木々を雨のごとく濡らし、地面をぬかるませている。
土地を取り返してくれと大耳族は希望するが、こんな体たらくとなった土地に果たしてふたたび根付くことができるのか。『谷の国』にアラライたちは服属したが、天の屋根の高さは今もって回復する兆しはない。人族の大屋根は落ちたままなのだ、水浸しで日差しもなくなれば草木は根ぐされしてしまうし、穴倉だという彼らの棲家もただでは済まないだろう。
王の出征だと意気高く谷を出発した兵士らも、いつしか会話が途切れ、無言でぬかるみ路を歩くようになった。彼らの鬱々とした気分も伝わってくる。
その霧が、進む先でわずかに薄れ始めたのか、景色が再び光を取り戻し始める。
そのわずかに晴れた先に、目的の場所はあった。
「我ラノ土地! 見ロ! 霧、ナイ!」
行く手を指し示して、アラライは喜色をはじけさせた。
大耳族の村があるその開けた場所は、たしかに貴重な日の光を浴びるのに格好の場所であった。バレン杉の巨木が梢を濃くして日差しを遮ってしまう森の奥深くで、その草に覆われた原っぱはいかにも特別な土地として映る。
土地の中心付近には苔にうずもれるようにして四角い見慣れた岩塊があり、それがアラライの神、『アクラミディカ』の墓所と分かる。その墓所に近い恩寵の最も多い土地はかつて耕地であったのか、踏み荒らされてはいるものの畝の跡が見える。
その中心の耕地を取り巻くように焼き払われた黒いのっばらが広がっている。所々に見える穴は、大耳族の穴居の跡だろうか。
「我ラノ邑、ナイ…」
伏せる族人たちから殺しきれない嗚咽が漏れる。
数日前まではあったのかもしれないかつての邑の姿を思っての悲しみなのだろう。
邑跡の大半が、すでに粗造りの柵で覆われている。その内部は大勢の豚人族で溢れかえり、アラライの言う「我らの土地」という言葉が虚しさを帯びる。
広場の各所に残る丈高い木々には物見台のようなものが据えられており、かつては大耳族の兵士が警戒に当たっていたのだろうその場所に、いまは豚人兵が身体を畳んで窮屈そうに張り付いている。手に持ち食いついている肉らしきものは、小動物にしては大きい。もしかしたら逃げ遅れて殺された大耳族の成れ果てであるのか。
カイはひとつ息を整えると、深く打ち込まれ本来ならば立ち木と変わらない強度を持つであろう柵の丸太を、こともなげに左右に押し広げるようにした。
丸太を止めていた太い蔦がぶちぶちと千切れていく。
カイと選ばれた筆頭戦士たち……各種族の『加護持ち』である族長と直掩の猪人族の槍兵の一団は、草を踏みしめて歩き出した。森から出たという以上に日差しを強く感じて、カイはその広場の明るさが豚人族の天の高さからくるものなのだと自然と理解した。
かつて大耳族のものであった邑は、いま豚人族のしろしめす土地としての屋根の下にあるのだった。
「止マレ」
森のなかからなにはばかることなく堂々と歩き出てきたカイとその家臣たちに、誰何の声が掛けられた。
物見の木にいる兵士が盛んに仲間に合図している。カイたちの前に立ちふさがったのは、最寄りにいた兵士たちなのだろう。数匹の豚人兵が武器を手にじろりと侵入者たちをねめつけた。
カイたち谷の国側も身なりは粗末なものである。小人族製の立派なフードつきの外套を身につけているのはカイだけであり、その他護衛たちは、それぞれにばらばらな即興の雨対策……草束を編んだ蓑のようなものや、名も知らぬ大きな葉を巻きつけただけの者もいる。豚人族に伍せる身体能力を持つ猪人のみは30人ほどいるが、彼らは半裸のままで雨など気にもしていない。
カイの前を歩いていた小人族の長ポレックが、さっと進み出て豚人兵らの前に立ちはだかった。
「貴公らに問う」
亜人種の言葉を操るのに長けたポレックは、流暢に豚人らと会話し始める。引き攣れるような彼ら特有の音階に半ば聞き取れなかったが、先に打合せしておいたバーニャ村をゴネ盗ったときの屁理屈を捏ね倒しているのだろうとは察せられる。
カイはすでにその隈取を露わにしている。恫喝しているのに舐められたら意味がないからだ。
カイが谷の国の王であることはさすがに察したのだろう、及び腰になる豚人兵らは数で対抗しようと仲間らを呼び寄せる。ぞろぞろと兵士らが集まってきて、カイらの人数に倍する数になった。
そしてようやく口の聞けそうな相手が登場した。おそらくはこの砦の長だろう『二齢』の戦士だった。
戦士はブビルと名乗った。
「これは何事であるのか! この邑は大耳族の邑であったはずである!」
決めたとおりの詰問。
そして予想にはずれない相手の主張。
「コノ土地、我ラノモノ!」
「大耳族は谷の国に帰順している。この土地は谷の王のものである!」
「大耳族、逃ゲタ! ソレダケ!」
「ココ大耳族ノ土地! 出テ行ケ!」
黙っているようにと命じていたのに、アラライが短慮にも叫び出してしまう。
同じ『二齢』同士であるならば、体格の圧差でかなう相手ではないというのに、アラライは闇雲に豚人族につきかかろうとする。
その首根っこをカイは掴んで、「話し中だ!」と一喝して後ろに放り投げた。憎悪に目がくらんでいたアラライであったが、地面に転がったあとに突き刺さったカイの無言の眼差しに言葉を失い、しお垂れへたり込んでしまった。カイとアラライ、両者のあいだの神格にはあまりに隔たりが大きかったのだ。
「谷の国と貴国は、先日人族の村の領有をめぐり争議した。そしてその土地の神と添うた依り主と絆結んだ谷の国の王が権利を認められた! この邑もまた然り! 大耳族と土地の神の依り代、族長アラライは谷の国の王に臣従した! ゆえにこの土地は、正しくは谷の国に帰するものである!」
「…ソ、ソレハ」
「貴国は谷の国の権利をいわれもなく踏みにじるのか」
「邑取ッタ、我ラ先。言イ掛カリ」
ポレックとブビルとの会話が続く。
むろんこの小さな拠点を任された程度の者に、土地の帰属をどうこうするような権限はないだろう。もとよりそんなことは期待もしていない。土地神を押さえているカイたちには『名』があり、土地を押さえる豚人側には『実』がある。半分しか持たぬ同士が言い合いをしても埒があかないのならば、強引にでも相手の『実』を奪い、『名実』をこちらがそろえてしまえば議論の余地もなくなろうというものだった。
この場で潰すか。
その判断を下すべくカイは冷徹に敵の戦力を値踏みした。
取り囲む二十数匹の兵士らの向うには、遠巻きにこちらを見守る兵士らが同数ほど見える。その奥には飴色になめされた皮製の天幕がいくつも並び、煮炊きする者の姿も見える。湯気を立てる大鍋からヘラのようなもので持ち上げられたのは、白いなにか……食い物であるならば粥のようなものであろうか。それを目当てに各自椀を持って、多くの豚人たちが列を作っていた。
(怪我人が多いな)
腕や頭などに血止めを巻いた兵士が多い。
そう気付くと、その近くで坐り込んでいる多くの者たちが多かれ少なかれ怪我を負っているのが分かった。
湿気のせいで臭いは遠いが、馴染みのある血脂の生臭いにおいが満ちているのだろう。
(…こいつら、なぜ疲弊している)
立ちはだかる豚人兵らの眼差しには、カイという得体の知れない大神への恐れと同じくらいに、泥のように積もった疲労の色がある。厳しいいくさ場で命のやり取りに連日駆り出され続けている兵士が見せるような、疲労困憊で感情も磨耗させた濁った眼差し。
天幕のなかにもいるとして、総数およそ100ほどか。
ならば暴れるか。
『加護持ち』はいま目の前にいるこいつだけ。カイのなかで決意が固まっていく。
死という名の危険な水位が急速に増していくことに敏感に反応した戦士ブビルが突如として動いた。手に垂らしていた手斧を振り上げざまに突っかけて来た。当れば御の字の牽制をかけて、そのまま体当たりで小兵ぞろいの侵入者たちを諸共吹き飛ばすつもりであったのか。
が、カイの軽く握ったこぶしがその一撃を払いのける。
武器ごと片腕を持っていかれてよろめくブビルに、うち懐に飛び込んだカイが拳をめり込ませる。血と胃液を噴出しつつなおも掴みかかってくる相手に、カイは短く息を詰め、もう片方の手を喉首に掛けて槍でも振り回すように豚人戦士の巨体を空中で一回転させた。
人族の細腕ではとてもなしえるとは思えない異常な光景であった。
頭から叩きつけられた戦士ブビルは、骨の折れ砕ける異音をとともに地面を弾み、さらに一転する。
居並んでいた豚人兵らもわずかにだが反応しようとしていた。しかしそれよりもわずかに早く、小兵ながらも種族の筆頭たるカイの護衛たちが踊り出した。
比較小さいとはいえれっきとした『加護持ち』たちである。わずかのうちに4匹の豚人兵が倒れ、先制に成功した戦士たちに遅れまいと、猪人族の槍兵らが王の両翼に進み出て意気を上げる。天にかざした槍を前方に一振りして、出来上がったのは槍衾の斜陣だった。
谷の王カイへと獲物を駆り立てる死の咢である。
カイは、悠然と歩を前に進めた。
それは王がこの場での決着を決意した証であった。