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2021/05/11改稿
最初は、声も上げられなかった。
そもそも喉を震わせるほどの大量の空気が肺にはなかったのである。次に彼女が行ったのは、生存本能の赴くままに酸素をむさぼること……肺にかなう限りに空気を満たすことだった。
しばらく使われることのなかった喉が悲鳴を上げた。
がさがさと音を立てながら空気を吸い込み、吐く時には盛大に咳き込んだ。
だから彼女が永い眠りから目を覚ましたことに気付いた周囲の娘たちが、彼女のものとして聞いた音はこんこんと咳き込む病人の苦鳴だった。
いきなり間近に近づけられた見知らぬ顔に瞬きする。
そしてその生けるもの特有の反応……恐れと戸惑いを読み取って、小人族の娘アルゥエは笑顔をはじけさせ、子供のように何度も飛び跳ねたのだった。
「エルサ様が目を覚ましました!」
幼さを残したその小顔の少女がおのれの名を呼んだことで、エルサは無意識に込もっていた身体の力を抜いた。脱力して身を預けた彼女が「水が飲みたい」と遠慮なく要望できたのは、そこが記憶の最後に残っている村の女宿舎の診療室のなかだと勘違いしたからだ。
すぐに思いついた仲のよかった友達の名を告げて知らせてもらおうとして……実際には突然訪れた激痛に声を上げることもできず、看病する少女の服を掴んだまま元のようにぱたりと横たわってしまう。
あっ、あっ、と赤ん坊のような声しか出なかった。
ようやく逃れたと思っていたのに、あの男に全身膾にされた痛みがぶり返してきてしまった。そう彼女は思った。両手に掻き抱いたおのれの身体にはもうじくじくと体液の染みこんだ包帯もなければ、臭いのきつい薬草を塗りつけた湿布も張られていないというのに。
考えればすぐに気付いたことなのに、エルサは全身を苛む痛みから逃れるために編み出したつたない手法……ぎゅっと目を瞑って布団をかぶり、酸欠手前まで息を詰めるという効果があるのかどうかも定かではないことを行い……それでも去らない激烈な痛みにしばらく抗った後に静かに敗北したのだった。
毛布の中で静かになったエルサにおろおろするアルゥエに、歩み寄った鹿人族の少女ニルンが、遠慮も何もなく覆い隠す毛布を引っぺがした。
深く静かな呼吸を繰り返しているエルサの手足に、見覚えのない痣が無数に浮かび上がっているのを見て、ニルンは表情を険しくする。
「…こんな痣、あった?」
「…なかったです」
まるでひどい折檻を受けた子供のように、全身に浮かび上がった内出血。
黒々としたその痣が痛みを呼んでいるのか、エルサは身体をまさぐるように苦しんでいる。
すぐに用意されていた毒の中和薬が水差しから口内へと注ぎ込まれ、飢えたエルサはそれを素直に飲んだ。アルゥエは症状を中毒に由来するものだと勘違いしただけであったが、対症療法としてそれは唯一無二の正しいやり方だった。
胸の奥より発するその痛みは、おのれを守ろうとする神の加護が返って憑代を傷付けている自家撞着のようなものであり、ほんらいならばただのカルシウム塊でしかない『神石』がわずかながらに内毒を浸潤させたのが原因であったのだ。
痣の広がりが治まり、呼吸の落ち着きだしたエルサはそのまま眠りについた。
ほっとしたのも束の間、アルゥエたちは自身に求められているだろう大切なことを思い出して、一斉に小屋を飛び出した。
「ニルンが報せる、ですッ」
「ああ! ずるい! ニルンずるいぃ!」
「本気で走り出したら鹿人族に追いつけるやつはいない、ですッ!」
どれだけ遅れようとも必死に追ってくる小人族の少女を無慈悲に置き去りにして、ニルンはその持てる力を最大限に発揮した。谷の切り立った崖など彼女にかかれば畑の畦ほどの取るに足らない障害でしかない。
「ニルンのばかぁ!」
「勝ったです」
谷の縁を越えると、そこには長老らと話しこんでいるカイの姿があった。
「神様ぁ!」
カイは背後から迫りくる野獣のごとき気配に、神速で反応した。
素早く身構えるや、ほとんど残像でしかない襲撃者を片手で的確に鷲掴む。顔面を掴まれた鹿人族の少女はその手の内で強引に減速させられ、ぽいっと地面に棄てられた。
なんだニルンか。そんなことを言いながらカイが手を払うようにしたのは、きっと抜け毛を気にしたからに違いない。
「何かあったのか」
「…急に言いたくなくなったです」
横でそのやり取りを見ていた鹿人族の長老ノイゼンが、大きすぎる角によたよたとしながらカイに取りすがり、思いのほか真剣に自族の姫の待遇改善を要請した。
「鹿人族女の毛深さは、寒い夜に夫を暖めるための愛でできておるのですじゃ。換毛期の抜け毛は見て見ぬ振りをするのが最低限の男女の礼儀…」
「…そうなのか」
きっと分かっていないカイに、ニルンは少しだけため息をついたのだった。
「エルサ様が目を覚ましたです」
エルサがなにゆえに目を覚ましたのか。
その枕元に坐ったカイには、その原因がひと目で分かった。
(呪い…)
ラグ村防衛戦の折にモロク家の兄妹が土地神の墓を暴かれ、呪いを受けたという。
この世界の神のありようは、人に宿っては『隈取』となって顕れる。それはありていには皮下組織の色素変化に由来するものであり、言い方を変えれば内出血時にできる痣であるともいえる。
墓所を汚されることで生まれる呪いもまた神に由来するものならば、それはやはり痣となってしかるべきなのである。
(…土侯の墓が暴かれたか)
命を救うためにおのれが彼女に食べさせた『神石』は、殺した巡察使のものだった。
あのとき下衆野郎を殺しつつ『神石』を取り出したカイは、早くエルサに食べさせねば、できるだけ鮮度のよいうちに食べさせねばとずっと念じていたように思う。
もしかしたらオレは無意識のままに土侯家の神を逃すまいと念じてしまい、神までをも彼女に継承させてしまったのではないか。神の後継者となってしまったがゆえに中毒が重篤化したのではないかと推測していた。
そして案の定。
「カイ…」
「おはよう、エルサ」
受けた呪いによる痣は消えぬものの、開かれたその眼から強く表れた意志の光が、奥底の神威が見守っていた者たちの魂を揺さぶった。
握っていたカイの手が力強く握り返される。それも常人ならば悲鳴を上げかねない力強さで。
ずっと看病していたふたりは、少し気圧されたように腰砕けに坐り込んでいる。アルゥエのほうは分からないが、同じ『加護持ち』であるニルンには神威が伝わったのだろう、おそらく本人の自覚もないままに隈取がうっすらと現れている。
そうして介助されるままに上体を起こし、アルゥエ特製の薬草茶を渡されたエルサは、そのカップの暖かさに瞬きしたあと、それを一度も口に運ばないうちに手のなかで割ってしまう。小人族お手製の木をくり貫いたそれは、けっしてやわなものではなかったが、加減を知らない『加護持ち』の怪力に耐えられなかったのだろう。自称『五齢神紋』が実際いかほどのものかは知れないが、握力が何倍にもなっているのは間違いなかった。
さらには熱湯も気にしなかった。一瞬は熱かっただろうが、表面的な軽い火傷ぐらいならば『加護持ち』は瞬きするぐらいの速さで回復してしまう。
慌てたアルゥエに手を拭かれながら、きょとんとしていたのがその証拠であった。
「そう。わたしは死んだことになったんだ」
傷を治すために巡察使の『神石』の髄を食べさせたところまではエルサも覚えていた。教えねばならなかったのはその後についてだった。
覆っていたはずの包帯もなく滑らかになった手足を確かめて、「痣が残っちゃった」と漏らしたのは、青にえた痣を後遺症の一種だと勘違いしたのだろう。呪いの苦痛が続いているのだろうにエルサは平静を装って、おのれが寝ていた間のことをいろいろと聞きたがった。そのあいだもカイと繋いだ手は離そうとしなかった。カイ以外に見知った者がいないこと、部屋さえも最後に見た《女宿舎》の診療室とは違っていたことも、彼女を不安にさせていたのだろう。
そうしておのれが何カ月にもわたって寝続けていた事実が告げられる段となって、ようやくある事実に思い至ったエルサは、真っ青になって緊急の身嗜みタイムを要求したのだった。
「うわあ!」
小屋を出たエルサは、外に広がる豊かな緑……見渡す限りの美しい景色とそれらをすべて包み込む巨大な『谷』に、歓声を上げた。よたよたとおぼつかない足取りで駆けだした先には、『谷』の三分の一を占めている半月湖の水面がきらきらと輝いていた。深い地層で磨き抜かれた湧水が溢れ出るその湖は井戸水よりも透明で、基本水源の乏しい辺土の民にとっては天国のような景色だった。
看護人が人ではない亜人の少女たちであったことで、覚悟はついていたのだろう。エルサは恐れていたほどの忌避感もなく状況を受け入れてくれた。
透き通った水を手に掬って笑うエルサに、伝えておくべきことを伝えていく。
傷は治ったが意識を失ったままだったので僧院送りになったこと。
死を待つばかりであった彼女をカイが攫ったこと。
村ではできなかった中毒者への治療が谷では可能だったこと。
そして付き従っているアルゥエ、ニルンのふたりが、献身的な看護で命を救ってくれたことなどを話した。
感激したエルサはふたりを抱きしめて「ありがとう」とお礼を言った。そして「同じ夫に仕える妻ならば当たり前」と返されて、そのすぐあとに小屋の裏にカイを連れ込んでぎゅうぎゅうと耳を引っ張ってきた。
「浮気者」
「成り行きだったんだ。仕方がなかった」
「ちゃんと責任取れるの?」
エルサはどうも、村の《女会》には申請を済ませていたらしく、カイに手を出させた時点で正式に『婚約』の状態になっていたのだという。ゆえにその死の瀬戸際に、普段ならけっして入ることの許されぬ《女宿舎》に呼び入れられ、言葉を交わすことも可能となっていたのだ。
そして彼女の言う『責任』とは。
争い続きで男が早死にする苛酷な環境で、人口を維持するだけの子供を作るためにも必要な措置……一方を多とする重婚が認められていたからである。ひとりの女が多数の男をはべらせることも一応は可能とされていたが、それは制度上の男女平等を担保するための一文に過ぎず、実際は一夫多妻を奨励する法であった。
むろん生活力は厳しく吟味される。一夫多妻を維持することができる甲斐性を男は証明する必要があるのだ。
「…うそ。カイがここの領主様?」
ただの村人の出であるとはいえ、『成りかけ』として頭角を現しつつあったカイには、たしかに多妻を成立させる可能性がなきもしにあらずだった。男手としての何倍もの労働力と、兵士としてのある程度の地位を手に入れれば、《女会》を納得させることもけっして無理なことではなかった。
それがいまでは『成りかけ』どころか『ご領主様』……土地持ちのお貴族さまなのだという。むろん土地神持ちの貴族ともなれば、《女会》の承認など容易く取れてしまう。
『谷』は見渡す限りに緑濃く、山林檎をはじめとした木の実山菜がたわわに実る、溢れるような豊かさに満ちていた。なにより湖という無限の水利さえも独占しているようだった。
基本広大な荒地でしかない辺土では、『水利権』は恐ろしいほどの価値を持つ。
ラグ村の農地にまで引き込まれた水路も、元をたどれば水源を抱える他領から分け与えられているものであり、その使用にはいくばくかの謝礼がやり取りされている。
ウソかホントか、妻を自称する異種族の少女ふたりから、カイがひとつの国の王様なのだという情報まで入れられたものだから、エルサがそれを事実として飲み込むまでさらに時間が必要となった。
「…甲斐性は、十分なのね」
ようやく納得してもらったカイは、エルサの唇を強引にふさいだ。
黄色い悲鳴を上げつつも顔を覆った指の隙間からガン見しているふたりを気にもせず、カイは焦がれた恋人を求め、エルサはそれを受け入れた。
しばらくして物陰から草まみれになって出てきたふたりは、しっかりと手を繋ぎあっていたのだった。