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2021/05/01改稿
削除した部分は書籍版に寄せたうえで順次復旧していきます。
ご迷惑おかけいたします。
「…まだ走るな」
「なぜだ」
「村の者たちがまだ見送っておる」
「…ちっ」
舌打ちしつつも大柄のほう……僧名をホズルという男は、鉄棍を握る指に力を込めて、苛立たしく地を突いた。小柄だが横幅のあるいまひとりの男、ノールは砂埃除けの口覆いを引き上げて、そのまま抑揚のない声を紡いだ。
「辺土を繋いでいた神統ねの枝が砕け落ちたのだ。麻のごとく乱れた辺土の人心をそう易々と束ね直すことはできぬ」
先代辺土伯アッバスの死から数カ月。
辺土最大の神『バアルリトリガ』を基枝に束ねられていた辺土200余の神々、10万の民草が人族から切り離されるという大事は、ただでさえ混乱の中にあった人央を、人族国を大いに揺らがせていた。
《僧院》の人解僧たちが近頃こぞって辺土へと渡ったのも、猶予ならぬと事態を重く見たからだ。
「…辺土鎮護に合力せよとこの村までやられたが、大樹神のお導きであったのやもしれん。…まさかかような時にあの預言の手掛かりに触れることになろうとはの」
「愚民どもの再教化などと、いまさらだろ」
「我らにはもういくばくも時は残されてはおらぬ。尸解された大師様は、『荒神』は人間に潜んでいると仰せであったが、まさかその大神が『成りかけ』の皮を被っておろうとは」
「あの女子には感謝せねばな」
ふたりの顔は隠しようもない喜悦に歪んでいる。
「…巨体の異形どもを千切っては投げする《百人力》のつわものが、ただの『成りかけ』じゃと? 修行途中の若僧どももみないったんは『成りかけ』を経るが、そんな段階で無双の金剛力を発する者など儂はついぞ聞いたこともないわ」
「小沙弥の弔いがてらこの村を選んだが、やつめ『荒神』に殺られたか」
聖印を切って、ノールはちらりと後ろを振り返る。
ゆるやかな起伏を乗り越えたことで道の向こうにあった村の姿が見えなくなっている。にわかにふたりの繰り足が速くなる。
足音も起らない。
土煙もほとんど立たない。僧院武術が身につけさせる歩法は独特のものである。その移動速度は、通りかかる者がいたならば目を剝くほどに早い。まさに風のごとくである。
「まずはバーニャ村へ。見つからねば『墓』とやらを探すか」
「あの女子の話がまことであるならな」
「異形どもの巣喰う森の中に、のうのうと惚れた女の墓を掘るか。まともな神経じゃねえな!」
かかと笑いかけたホズルが、不意に気配を感じたように、天を見上げる。
ノールが弾むように足繰りを畳んで急制動する。
「…ッ」
「止まれッ」
ふたりは頭上を警戒するように腰だめに身構える。天を仰いだ彼らの眼が、空の青さを映してゆっくりと見開かれていく。
突然、目に見えぬ何かが全天を覆って、大気がびりびりと震え出した。
総毛がよだつほどの危機感に襲われた彼らは、神なくして神紋を顕すに至った人解僧の力を解放して、『2齢』の隈取を顕現させていた。
神に仕える身でありながら、ふたりの口元から洩れたのは呪詛であった。
***
「…数、マタ増エタ」
「そうか、それはよかった」
「フォス支族、モット数イタ。少ナイ」
「まだ生き残りはいよう。しっかりとすべてを保護するのだ」
『守護者』ウルバンは、傅く仔らに応えながら、何度も頷いた。まるで子らにかまう爺のような姿であった。
おのれの前に並べられた供え物も腹をすかせた幼子らに下げ渡し、「年越しまで待つ必要もないようだ」と取るに足らぬ会話のように、足元に胡坐をかく支族の長たちに語り掛けた。
「湖沼地東岸の新領に道を切り開き、後から来るものたちへの標を建てよ。フォスの6氏族は合わせて万に近い数がいた。生き残り追いすがるものたちはまだいよう。このフォス支国にはまだまだ民が必要なのだ」
「兵士、置イテアル」
「仮道、繋イダ。難民、タクサン、ヤッテ来ル」
6氏族の長たちが、地面に落書きされた巨大な地図をにらみながら、ウルバンの言葉に耳を傾けている。
この地図はウルバンが描かせたものだ。実際に木の枝で描きつけるのはウルバンに仕える巫女……ラニという名の若い雌である。亡きアダルの末の妹で、『二齢』の加護を持つラニは、目を病んでいたがウルバンの発する念話をよく聞き分けた。
地図には元人族の土地であった3村、50ユルド四方ほどのフォス支国本拠地から、湖沼地帯東岸をめぐるように獲得した新領が『面』として描かれている。その内に配置された丸石と直線は、むろんその地の土地神の墓所と帰依の流れを追ったものである。それは同時に《集》の形成が進んでいることも如実に表していた。
ラニがウルバンの声なき念話を聞き、はじかれたように歩き出した。
その姿が地面の地図上を歩き、その版図最北の場所にまで線を伸ばした。
フォス支国の勢力伸長を恐れ、土地神もろとも逃散した弱小種族どもの土地……無主なれば事実上彼らの勢力圏には違いない……その空白地に伸ばされた線。
「…古道の口までを確実に支配するのだ。逃げた種族の土地には砦を築け。繋いだ道には歩哨を立てよ。逃げ来る仔らを守るのだ」
人族の地に進出した彼らは絶大なる暴力を敵に恐れられていたが、戦いが続けばいずれはそれもすり減らされて尻貧に陥るだろう。ゆえに北限の種族本願地へと繋がる古道との連絡を確保するのは彼らの死活問題だった。
ウルバンから示された明るい見通しに、居合わせた長と縁者たちが子供のように無邪気に喜びを表した。
その様を見守りながら、ウルバンは満足そうに目を細めた。彼は紛れもなくこの巨大な亜人たちを我が子のごとく慈しんでいるのだろう。
そのとき。
はっと、ウルバンがその長い首を伸ばすようにもたげた。濁った眼が向けられたのは南の空であった。
その数拍遅れに。
ズズゥゥン…
遠く、まさにそれは彼方に鳴り響いた遠雷のごとく。
突然風が吹いた。その突風は一瞬のことであったが、奇妙なことにそれは北でも南でも、西でも東でもない方から吹き付けた。
伸び盛りの瘤芋のつる草が、押し付けられるように地面に張り付いた。騒いでいた豚人たちも、とっさに頭を抱えるようにしてうずくまった。
風は、あろうことが真上から吹き付けたのだ。
(…雲が)
ウルバンは何かの天意を読み取ろうとするように、起こった事々をつぶさに見続けた。霧が湧き立ち、ややして拳のように大きい氷礫が地面を叩きだした。うずくまるばかりの豚人たちを甲羅の影にかばいながら、ウルバンは急低下した気温に白い息を吐き、悪態をついた。
気が付けばまるで森の深部に紛れ込んだかのような白濁した景色が広がり、家族の無事を確認しようとする仔らの叫ぶ声がおぼろのなかを交錯した。
「底が抜けたか」
諦観したようにつぶやいた旧世の『守護者』が、苔むした巌のごとき身体を傾げてうっそりと動き出す。立ち上がったウルバンの巨躯はやはり甚だしく、その影に覆われたものたちが不安げに見上げてくる。
呼ばわる仔らに指示しつつ、その身は靄の中に実態を失っていく。
(生きよ)
もはや声にすらならぬ想いは、ひとり盲目の巫女ラニにのみ届いていた。
追いすがろうとしたその小さな手が空を切り、ラニはまろぶように転がった。
「神様」豚人の少女がキイキイと泣いた。
***
辺土のいたるところで、大勢のものたちが等しく天変を迎えていた。
涸れ川を挟んでフォス支国と対峙している人族の陣構えが、氷礫に打たれて見る間にほどけた。盾をかざしても無事では済まず怪我人までが出た。
「何事だ」
「いきなり空が!」
隈取を顕わにした『加護持ち』たちが、降り注ぐ氷礫に身をさらしてテペ村の防壁上に集まった。四方を見渡していた彼らが、やがて南の空の異変に気付いて指さし始める。
村の女たちが。
木陰に逃げた子供らが。
武器を投げだした男たちが。
***
同じころ、谷の国でも。
「神様!」
集会所から走り出たカイもまた、その光景を目にしていた。
やや高い位置にある谷の縁であったからか、あるいはカイ自身の谷の神様の特恵であったのか、その眼には人族が治める途方もなく広大な大地がよりよく見えていた。1000ユルドの彼方にある州都バルタヴィアの街並みさえもがこのときカイには見えた気がした。
上から吹いた風が、ざわざわとバレン杉の森を揺らした。
大木の太い枝を揺らすなど相当の突風であった。
(…気を引き締めよ)
谷の神様がはっきりと警告した。
人族の国で何か悪いことが起こった。『守護者』としての経験の浅いカイにもそのぐらいのことは分かった。そもそも教えられたばかりのことでもあった。
「天が落ちた」
より優れた王が立てば、空が高くなる。
単純な話だった。その空を支えていた王という柱が倒れれば、空という名の屋根は落ちてくる。
王が死んだのだとカイは直感した。
それも先代の辺土伯と同じく、何の準備もないままの突然の死。だからこそこんなにも急に変事が広がった。
次々にカイの周りに眷属たちが集まってきた。彼らがよこしてくる帰依という名の熱気が背を包んで、取り乱しかけていた気持ちが静まっていく。
「人族に何かが起こった。調べなきゃ」
「おいらも見てきてやろうか」
ネヴィンの声に、カイは頼むとつぶやいた。
次々と点呼がなされ、周囲のものたちの無事がすみやかに確認されていく。そしてあらかたの安否が確認されたところで、カイはそわそわとし出した。
種族の王が倒れたのだ。むろんのことその王を戴いていた人族集落、ラグ村に影響が出ていないはずもない。白姫様の顔が思い浮かんだのは、ご当主様との別れ際に言われた縁組の話があったからだろう。いてもたってもいられず駆けだそうとしたカイを、呼び止めたものがある。
振り返れば、谷の王であるカイに向かって膝をつくものたちの姿がある。
おのれの乱した呼吸が、うっすらと白く色づいた。谷の国では感じたこともなかった冬の冷気にぎょっとする。
谷の国の外縁に景色をけぶらせていた靄が、谷の熱気にすぐさま払われて散り散りになっていく。谷の国の空はすぐにその持ち前の澄明さを取り戻していた。
「なにごとだ」
ポレックが前に出た。王様が軽々しく配下と接するのはよくないことと最近教えられた。眷属が増えたのだから気を付けてほしいと願われたから、ぐっと言葉を飲み込んだ。
物見の兵士に連れられてきたのは、客人たちだった。
後ろに控えつつもにわかに起こった天変に視線を巡らせているものたち……見たこともない姿形をした新たな種族だった。
大きな耳を扇のように広げた狐……大耳族。
そして長い毛を棘のようにして垂らした狸……棘狸族。
「王様、従ウ」
谷の国に属すことを願う新たな種族が現れたのだ。
そして時を同じくして谷底の小屋では。
昏々と眠り続けているばかりであった王の妻、人族の女エルサが目を開いていた。