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2021/04/11改稿
豚人族の一派とそのケツ持ちである『守護者』ウルバンが、バーニャ村の所属争議を簡単にあきらめたかといえば無論そうではなかった。
むしろ彼らはバーニャ村に異常に固執した。なぜならその村は大森林のかなたにある亜人たちの領域、北限平原にある本国とを繋ぐ『古道』に最も近い村であったからだ
辺土の北の境を成す大森林は生半には生き物を寄せ付けない。土地神の数もまばらとなるその深部を踏み越え得る道となるとその数はぐっと減り、いくつかの主要な『道』があるだけとなる。
カイが灰猿人族の主邑を目指すときに使った道などはまさにそれで、最奥部の濃霧立ち込める迷いの森は、そうした主要道のみが行き来可能な経路となる。付近を領する大族が巨木の枝に目印の布を垂らすなど維持管理せねばたちまちに廃るしかない数少ない踏み分け路のひとつが、谷の国の脇を抜けてバーニャ村へと至る貴重な経路となっていた。
バーニャ村は流浪のフォス支族にとって、本国へのつながりを確固としたものにするために必須の戦略的拠点でもあったのだ。
「村の神が、帰依しただと…」
「まあ、そんなとこだ」
事情を聞かされたとてウルバンも引き下がるわけにはいかない。が、『守護者』としての掟のようなものが彼を自縄自縛した。
『守護者』同士の揉め事となったのだと察した豚人族の指導者、フォス支族6氏の長となるアダルという名の戦士が、あえて名乗りをあげ矢面に立った。
「コノ村、我等欲シイ」
アダルはあの偉大なる大戦士、アドゥラ……カイと死闘した鎧武者の遺児のひとりだった。ただでさえ大型な豚人という種族の中でも抜きん出て大柄な身体は、巌のごとき硬質な筋肉によろわれている。
巨大な鉄の斧を杖のように地に打ち付けて、昂然と胸をそらした。
それは当世に生きるものの生得の権利、強者こそが弱者を喰らうものとの宣戦布告に他ならず、時代の傍観者でしかない『守護者』にそれを阻む権限などなかった。
同じ『守護者』とはいえ、カイはバーニャ村領主ピニェロイ家の寄り親であり、利害対立の当事者でもある。豚人族戦士アダルはカイを『守護者』とわかった上で、不遜にも挑もうというのだった。
「この村の神はオレに帰依した。オレのものを、お前は奪うというのか」
「ソウダ! コノ村ナイ、我ラノ死活」
「…だそうだぞ。どうするピニェロイの娘」
カイの目配せを受けて、サリエは避けがたく立ちはだかったおのれの運命に戦慄した。
先代たる父が死に、裏切りの報復に村の男の大半が死を強要された。耕す者も少ない農地は荒れ果てたまま放置され、干からびるように荒野へと還りつつある。乏しい糧穀を分け合い飢えをしのぐしかない村人たちも力なき者から倒れ、頼りない領主を怨みつつ動かなくなった。
村は存亡の危機に直面していた。意思も能力も示そうとしない無能な領主は、一心同体である土地神までをも弱らせる。
先代までは『三齢』を示していたピニョロイ家当主の隈取は、いまや『二齢』と見分けがつかないぐらいにまで衰えている。『四齢』を見せる豚人族戦士アダルにおそらく敵することもかなうまい。
「…どうかご助力を賜りたく」
サリエは握ったままでいたカイの服の裾を強く引いた。
女としての甘えがあるとはいえ、辺土の村が辺土伯家に助力を頼む構図と変わらない。
王としてカイはその嘆願を受け入れた。
かくして。
豚人族と谷の国との衝突は始まることとなる。
豚人族戦力は総勢3000を数えたが、実情老いた個体や幼い仔も含まれ、純粋に戦力となるのは2000ほどであったようである(メスは庇護対象ではない)。
かたや谷の国の戦力は、谷から率いてきた170に加え、バーニャ村の戦力化しうる男女を合わせても200をやや上回るほどでしかなかった。しかし雑多なその陣営の中に1匹、ひときわ豚人たちの目を引く存在があった。
カイから与えられた豚人族の鉄の斧を片手に、村の防壁上から辺りを睥睨する巨躯がある。それはとても大柄な灰猿人の姿だった。
「猿ガ、ナゼイル」
「ヤツラ谷ノ国、下ッタノカ」
灰猿人族の先代王、ツェンドルであった。
ただでさえ姿形の違う亜人種同士である。個体の判別などおよそ不可能であったろうが、他の灰猿人族とは一風変わったその白い毛並みだけは、豚人たちにわずかながらの情報を与えたらしい。
「猿ノ王種ダ!」
警戒のさざなみが豚人族の間に広がった。
灰猿人族の貴種とされる『最古の一族』が、美しい白い毛並みで見分けられることぐらいは、長年敵対してきた豚人族でも知られていた。
国に居場所を失いカイが引き取るていとなっていたツェンドルは、谷であてがわれた樹上の巣で食っちゃ寝の引きこもり生活を続けているだけの、役立たずの無駄飯食らいだった。気の優しい種族ばかりが集った谷の国では、その図体と怪力だけで歴然とした強者であり、とたんに暴君として振舞い出したツェンドルをカイが繰り返しぼこぼこにした。いまではすっかりと臆病になって巣にこもったままでいるようになったが、その無駄な体力の使い時はいまだろうと無理やりに引きずり出してきたのだ。
はっきりと不満を顔に浮かべるツェンドルであったが、それが豚人たちには戦意旺盛な灰猿人族戦士に映ったようだった。
「小僧、よもや東森の灰色猿を…」
「…? ああ、こいつはオレが預かってるだけだ」
「…預かる、だと」
カイはただ事実を素直に答えただけだった。
しかし世知に長けたウルバンは考えてしまった。大切な王族を異国に預けるということが何を意味しているのかを。
戦いに敗れた種族が、廃滅を逃れるために隷下にくだるとき、多くの場合王の仔を人質に差し出して裏切りへの担保とする。そして多くの場合、合わせてその人質に加護を持たせて贈る。この世界でもっとも価値ある者は土地神の加護そのものであるからだ。
そしてツェンドルは、戦いを前にしてその隈取を露わにしていた。
そのとき豚人たちは、カイと谷の国の軍勢の背後に、大森林東域の大族、灰猿人族数万の姿を幻視していた。
個としては豚人にやや劣る。がしかしその恐るべき膂力を備えた猿臂が放つ石飛礫には、豚人も大いに苦しめられてきた。豚人族領の東域を占めていたフォス支族であればこそ、長年の仇敵を侮る気持ちは抱き得なかったろう。
カイという『守護者』がいくら強大な力を持っていたとしても、屈強な豚人族2000が雲霞のごとく襲い掛かればいずれ隙を突いて倒すことができるだろう。『加護持ち』は個としては類まれな強者であったが、無敵というわけでもないことは彼らも知っている。目の前のカイに死を恐れず立ち向かい、数で押しつぶすところまでは宣戦布告したアダルも想像していたことだろう。
衆寡敵せず……その理はたった3000匹しかいない分断されたフォス支族にあっても同じであり、この谷の国の王を退けたとてのちに灰猿人族数万の復讐を受けては支族の存亡も危ういのだ。
それよりも何よりも。
亜人種世界の東部に冠たる大族灰猿人勢力が、カイとの間に王族を差し出すような事態に陥っていたこと、それをどう解すかが問題だった。
それはカイという存在の予想以上の脅威度を指し示すものではないのか。
「…北で儂がかまけておるあいだに、引っ掻き回しよったか」
ウルバンの恨めしげなささやきがカイの耳に届いた。
半ば思念であったのか、アダルはそれに気づかなかった。
「待て! 早まるな!」
ウルバンの制止の声も届かず、戦士アダルはカイの元へと猪突した。
もとより拠点としての守りを失っている村に狂猛な『加護持ち』戦士を躍り込ませるわけにはいかない。カイもまた防壁上から飛び降りて、その突撃に対した。
「アダルよ!」
ウルバンの叫びも耳に入らぬのか、戦士アダルの大斧の一撃が勢いのままに振るわれた。もはやこの流れをなかったことにはできない。
「コノ邑、寄越セ!」
「その胸当てと腰巻、見覚えがあるぞ」
「…ッ!」
カイの問いに、両者がきしらせていた武器の合わせ目が滑った。力を緩めたのはアダルの方だった。その分だけカイは押し込んで、力任せに突き放した。
アダルが目を剝いた。
「奴はとんでもなく強い戦士だった。あのときはオレも殺されかかった」
声を落とすように笑いながら、カイは手にした鉄矛の石突で地を突いた。
モロク家から借り受けたままの先の折れた鉄矛が、カイの背の5割り増しほどの長さであるのが衆目にも明らかになる。その小柄な体格にはあまりにもふさわしくない、数十パイントはあるだろう鉄隗をまたくるりとおもちゃのように手首で回し、身構える。
鉄矛の長柄は、カイなりに多勢に対するための備えであった。村の防備を手勢に任せ、単身敵の軍勢に挑みかかろうと決めていたのだ。正直、連れてきた谷の国の軍勢は、半分も生きて帰れないのではないかと覚悟していた。
勝てそうなら勝つ。負けそうならば全滅する前に逃げ帰る。豚人族との戦いというのは、人族にとって常にそういうものであったから、カイにおかしな迷いなどはなかった。
「おまえの父親はオレが殺した。オレが生き残った」
「ア、アッ」
「やっぱりおまえは奴の仔か。おまえからは嗅いだことのあるうまそうな匂いが漂ってくる。おまえの中にある神様も、オレに一度喰われたのを覚えているんじゃないのか!」
アダルの顔に浮かんだ驚きが、怒りに塗り替えられる。
憤怒がその巨体を赤黒く染め、面に現れた隈取をはっきりと際立たせた。
迸る激情のままに次々に叩き付けられる攻撃を、カイはこゆるぎもせず受け止め、いなし、弾き飛ばす。力強くはあったが無骨な鉄矛を両断するほどの武を戦士アダルはまだ身に備えてはいなかった。
カイがまた、誘うようにどんと鉄矛を地に突いた。
戦士アダルもまた、覚悟を決めたように息を吸うと、ゆっくりと前へと進んだ。
その面に浮かんだ赤黒い隈取を読み取るに、『五齢』か『四齢』ほどに見える。記憶にあるあの鎧武者は確実に『六齢』以上……辺土伯様のそれに近いような禍々しい隈取を顕していた。
(…ずいぶんと衰えたな)
あの時カイを圧倒した鎧武者のそれと比べて、神威は明らかに衰えていた。カイが神髄を喰らった以上に、墓所のある土地を棄てて逃げていることもその力を削いだのであろう。
数当てして、もはやこの息子がおのれに及ぶことはないということは分かっていた。戦士アダルもまた彼我の力の差を理解したのだろう。渾身の力を一撃に込めるべく最大限にねじられた身体が、踏み溜めた脚が解放される一瞬を待っている。カイは敵が望んでいるだろう隙を空けて見せる。
朝日を浴びて斬撃がきらめいた。
互いが渾身の力でぶつけ合った武器が弾かれたとき。のけぞってたたらを踏んだ戦士アダルとは対照的に、カイはやはりほとんど微動だにもしていなかった。
そしてその鉄矛が、戦士アダルの鳩尾を突いたのであった。




