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2021/03/03改稿
この年、各地で多くの赤子が『死産』した。
それは土地の守り神より下された一種の兆しであり、多くの場合それは酷い天災を伴うものだった。
すでに例年にない厳しい冬を過ごし、大雪という『負債』を抱えたままであった辺土では、春を迎え恐れていた雪解け水の氾濫が各地で起こった。
涸れ川の多くが氾濫し、低地にあった耕作地もほとんどが押し流されてしまった。辺土の農耕を支えていた貧弱な灌漑水路も泥濘に埋没し、連鎖的に広範囲の農地が窒息した。
追い討ちするように、淀み腐った水から肌のあわ立つ風土病が湧き出した。
無事であった農地でもツイバミ虫が異常発生し、村人たちが灰汁壺を持って走り回る騒ぎとなった。
ある村では、井戸の水に腐毒が混ざり、別の村では深井戸以外の水源が涸れてしまった。代々守り続けてきた苦葡萄がにわかに立ち枯れて、世話番の一家が責め殺された村もあった。
人が口を開けば、出てくるのは悪い噂ばかりであった。
「…隣の村じゃ、麦がまったくだめだったらしい」
「…東の外れのほうじゃ、食い詰めて村そのものが棄てられたそうだ」
「土地神様の恩寵が減ったんだ。みんな言ってる…」
土地の恵みは神の恩寵の賜物。
常日頃から土地神の恩寵に浴していると自覚している辺土の民にとって、不作はその恩寵の不足によるものという認識がごく一般的であった。
そうして学がないなりの直截さで、恩寵の不足を領主の不徳、努力不足があったのではないかという結論へと彼らは速やかにたどり着く。あまりに短絡的ではあったものの、その考えはおおよそのところで正しかった。
春となり人々の往来が村々をめぐり始めると、各村での作柄の格差が誰の目にも明らかとなり始める。隣の村の青さを見て、おのが村の立ち位置を知ることになったのである。
《二齢》領主の村が、最も不作だった。種蒔きした作物によって生育状態はまちまちであったが、麦類はあまり育つことなくしおたれて、何とか収穫に繋がりそうなのは黍類のみという酷い有様だった。
その一方《三齢》領主の土地では、ばらつきはあれど農地にはほどほどの緑が茂っていた。黍類と根菜類がかろうじての水準。麦はわずかな風で倒れてしまうぐらいにやせ細って、領民たちにその収穫をおおいに危ぶまれていた。
そして辺土では有力とされる《四齢》領主の土地では……麦も平年ほどではないにせよある程度の生育をみせていた。土の養分を奪う豆類も、収穫が可能かどうかは別として葉を伸ばしつつある。
東域にある《四齢》領主が治める村は片手で数えるほどしかない。その十分な作柄はその他大勢からとても羨まれたのはいうまでもない。
動揺する辺土の民たちを安撫するためか、例年よりも多くの渡り僧が村々に現れた。彼らは《大樹》の教えとともに民衆の救済には強い御柱が……強き王の力が必要であると……人族の土地神の力をひとつに結集せねばならないと盛んに説いた。
土地が痩せたのは王の愛が届かなくなったためであり、辺土宗主たるバルター家の混乱にそっぽを向く辺土領主たちの忘恩がこの不作を招いたのだと、彼らは辻々で叫び煽り立てた。窮乏する村ほどその騒憂の広がりは速く、為政にも差し障りが出始めた弱り目の領主たちは、相次いで近傍の強い神を持つ領主に救援を求めた。
渡り僧らのそうした不穏な動きは、あるいは《大僧院》とも関係の深いバルター辺土伯家の働きかけによるものであったのかもしれない。だが多くの地域で実際に引き起こされたのは、王神などという見たこともない神の愛ではなく、目に見える現世利益を掴んでいる有力領主への合流、小領主たちの合従連衡への流れであった。
東域ではバーニャ村防衛戦を契機に、テペ村のテンペル家、ラグ村のモロク家など『四齢』領主家を血族とするボフォイ家の閥と、最大の領民数と実りの豊かさを示した内陸のタラム家とその援助を欲する周辺の村々が結集した閥にまとまりつつあった。
そしていまひとつ、3000の民を抱えて人族領を食い破り、勃興しつつある豚人族勢力……フォス支国。彼らはバーニャ村の東にあった小村を次々に飲み込み、ついにテンぺル家分家の治める支村、アクテペ村の領境にまで進出を果たしていた。
直系領のバーニャ村以外は『二齢』の土地ばかりだが、東部勢が目的を果たせぬまま解散した後に電光石火東進し、襲われた村の救援の使者が近隣に達するよりも早く次々に村を襲ったのだ。
その支配領域は、バーニャ村以東の4村。
人族であれば最大で2000の領民を食べさせていかれるだけの土地がすでに豚人族の手に落ちていたのだ。
***
「…父上、それは」
「…義父殿からの文だ。いくさの準備だ」
オルハの問いに、ヴェジンは読み終わった羊皮紙を投げて寄越した。
それはクワイナゼ家から送られてきた出兵を促す文だった。
危機意識から自然発生した先回の連合とは違う、東域唯一の《五齢》領主家を名乗るボフォイ村領主クワイナゼ侯の、侯主導の《会盟》を行うという一文がそのなかにはあった。
「新兵の補充がまだ進んでいません。いますぐだと、すべて出しても80ほどしか…」
「境界地に近い村はどこも余力がない。ラグの東にあった村で残っているところはもっとひどいのだ。小勢であってもそれは恥ずべきことではない」
「それでも伍隊を密にするためには最低でも100は必要です」
「…流れてきた他村の者たちから少しは集められぬか」
「…それが」
言いよどむオルハに、ヴェジンが察したように眉間を揉んだ。
他村の者たち……それはむろん、豚人族に土地を奪われた亡村の住人たちである。
先の戦から男たちが帰還してより一旬巡が過ぎた頃、ぽつりぽつりとラグ村をおとなう者たちが現れ出した。
豚人族に奪われた4村の元領民たちである。生まれた土地を追われ、近隣の有力村に助けを求めた彼らであったが、受け入れる側も糧穀の備蓄が無尽蔵にあるわけではない。やむにやまれぬ命の選別が始まり、体力のある男で単身者……余計に養わねばならない老人子供を帯同しない者が優先的に取られていった。次善とされたのは同様条件の女の単身者だった。
受け入れに特段の条件を設けなかったラグ村は、彼らにとって救いの神であったろう。老人子供にさえ期待してしまうほどにラグ村は人口の減少にあえいでいたわけだが、その自己都合による『温情措置』が余計な難民まで引き寄せてしまって、ラグ村はいま大混乱のただなかにあるのだった。
ラグ村の人口はここ半月ほどで4割ほども増えていた。
「…めぼしい男手はほとんど見当たらぬのです」
ヴェジンは手振りだけで理解したことを示した。
ひとりでは生きていけぬ老人子供を最後まで世話しているのは、たいていが母であり娘である。
村はいま、女で溢れ返っていたのである。
人は食い物だけで生活が成り立つわけではない。着の身着のまま逃げてきた人々には何もかもが足らなかった。
村の実質的な経営をしている《女会》はてんやわんやであった。厳しい環境で生き抜くための物資の出納管理……いわゆる『財布の紐』を握っているのも現実主義的な女たちであり、難民たちの衣、食、住を調えるのもまた彼女たちの差配によるものとなっていた。
「難民って、ちょっと女ばっかじゃない」
そんな悲鳴が、対応に右往左往する女たちから上がった。
受け入れた難民、そのなかでも一人前と勘定できる者たちのほとんどが女で占められていたのである。
働き手となりうる女は、村の規則で城館内の女宿舎に詰め込まれる。働き口や寝床の割り当てなど混乱も多かったが、そちらはまだどうとでもなる問題だった。
《女会》の頭を悩ませたのは、彼女たちの連れてきた扶養を必要とする家族……老人や幼い子らだった。
家族連れならば本来は長屋を充てるのが理にかなっていたのだが、そもそも長屋暮らしは村の女たちにとっては憧れのものであり、婚姻して子を生すという義務を負う代わりに与えられる特権にも等しかったから、村の者たちから強い反発が起こった。先日の婚姻の大量許可で新婚夫婦が多く出たこともあって、築年数やら立地やらの差で取り合いも起っている。そこに縁もゆかりもなかった難民たちまでが参加しては、空き屋が埋まるどころか入居の順番待ちさえもが起こりかねなかった。
ゆえに、窮余の手としてそれ以外の隙間という隙間、雨風の吹き込まないところならばどこへでもというノリで、城館内の廊下や玄関大広間、はては食糧庫にまで人が溢れるありさまとなっていた。
《女会》の長たる正夫人カロリナをはじめとした幹部連は、一室で顔を見合わせながら深いため息をついていた。
「…いつまでもこの状態を続けるわけにはいきません」
「この村まで何十ユルドも歩けたのですから、年寄りの男だって使えぬということはないはずです。農作業の補助や館での下僕働きに回して働かせるべきです。食い扶持は自分で稼がせて、男どもの兵舎に押し込みましょう」
「子供はいっそのこと当主様を仮親に、城育て扱いにしてしまっては。廃村のエルグ村、エダ村の親を亡くした子供たちもほとんどが成人しました。乳母役に慣れたのもまだおりますし、子供を預けさせられれば母親も独り身扱いにして女宿舎に受け入れさせられます」
「兵舎と女宿舎がまた手狭になってしまうわ」
「ならばカロリナ様、もっと『許可』を出してしまいましょう。男の甲斐性の基準を緩めて……許さなかった『重婚』も再検討して長屋に移らせれば」
「結婚に手を上げている娘もまだ大勢います。長屋に移れるのなら相手を選ばないという勢いの娘もおりますから…」
「こうなると村の男どもにはいよいよ奮ってもらわないと」
「長屋は今後増やしていくとして……多人数の娘を養う甲斐性のある男には、応分に背負ってもらいましょう」
《女会》の要職にある者はみな既婚しているうえに歳もいっている。婚姻話を物のように扱う年寄りの物言いに、その場の唯一の未婚女性であるジョゼが、不満そうに頬を膨らませている。
何か言いたげに指を絡めて弄んでいる娘のさまを、生暖かく眺めていたカロリナが、ふと思いついたように口にした。
「そういえばあなたにも縁談があるのだけれども。ジョゼ」
きょとんとした娘の白い面に困惑が浮かぶのを見て、カロリナは少しだけ首を竦めてから居住まいを正した。
「あんなことがあったばかりでしばらくは自由にさせてあげたかったのだけれども……当主ヴェジンからの命なので拒絶は許しません。…あなた、あの『なりかけ』と添いなさい」
「………?」
「聞こえなかったのですか。『なりかけ』と添いなさい」
「お、お母さま!」
「お父さまの意思です、あの男をモロク家にからめとります」
「…わたしは」
「あなたに拒否権はありません。よいですね、わたしはちゃんと言いましたよ」
母に強く見つめられて、ジョゼはとりとめもない言葉を唾と一緒に飲み込んだ。次第に赤らんでいくその顔が、彼女の心中をあらわにしていた。
「いつからなのですか。…はぁ、まさかあなたの相手が、宴に連れて行ったあのカイとか言う若い男になるとは思いもしませんでした」
浮かせかけた腰を椅子に落として、ジョゼは茹で上がった顔を両手で覆った。ざわざわとし始める幹部連らを鎮めさせて、カロリナはおかしそうにテーブルに頬杖を突いたのだった。