136
2021/03/01改稿
「鼎の魔法は、大いなる委ねにより生み出される」
語られる言葉と同時に多くのイメージが脳裡に花開き、瞬くように淡く消えていく。『守護者』らの語らいはずいぶんと多元的で、一時に多くの情報が行き来する。
圧縮率の高いその思念のやり取りの中で、重要性の高い断片が思考領域に残されていく。
鼎。
そして利他の心。
明らかに高次存在である『守護者』らの思念干渉に、カイの中で惰眠をむさぼっていた谷の神様が不意に目覚めたかのようにその存在をもたげた。
とっさに胸に手をやったカイであったが、おのれの『神石』に宿る神は憑代の気持ちになどまったく忖度しない。ほの暗い愉悦に小さく震えて、ぶつくさとつぶやいている。
(足掻くか、いまだ)
いままでになく谷の神様のありようをはっきりと感じた。
それもまた『鼎の魔法』の効果であったのか。
「…カイ、目を凝らして上を見てみろー」
ネヴィンの促しに素直に従って、カイは頭上を見上げた。
視覚もまた尋常ではないほどに鋭敏化していることは理解していた。とたんに目に染み入るように、夜空の無数の燐光が星々のごとく迫りくる。見事な夜景だと感嘆するのも束の間、ほどなくネヴィンが意図したのだろう異質な何かに気付くこととなる。
「…外の、神様」
「ははは、よく見とけー」
州都バルタヴィアでの、儀式の始まりで見た光景を思い出した。
姿形の定かならぬ異形の神々が、まるで夏の夜の窓縁に張り付く羽虫のように夜空を埋め尽くしていた。まるで天球が目に見えぬガラスで覆われてでもいるかのようだった。
「…あ、ああ」
「谷の神の特恵と鼎の魔法で、おまえはいま天眼が開いている。高きに上らなきゃひらかねー特別な『目』なんだぞー」
それらのうごめく神々は、可視化したといっても半透明で、その背後の燐光……大霊河が透かし見えている。
その無辺の夜空を、不意に何かが横切った。目にした瞬間にカイはぞわりと全身の毛が逆立つのを感じた。一瞬で全天を覆うように間切ったそれは……星々の大海を遊弋するおぞましい何か……闇色の触手を地平のかなたにまで引き摺る得体の知れない影であった。
畏怖に打たれたままそれが行き過ぎるのを見守ったカイは、同じく目を剥いていたネヴィンのつぶやきにはっと我に返った。
「…いまのはすげえ『大神』だったぞ。やべーな」
落ち着かなげに顔をこすったネヴィンは、共感を求めるようにカイの背中を小突いてくる。ほかの『守護者』らもその『存在』に気付くや、嘆声を発している。
(大ホテンの巡幸よ)
ドープが洩らした。
大ホテン。
それは高きにあるおそるべき超神のひと柱なのだという。
カイはまるで、おのれが水底の小さな泡ぶくのなかで息を潜めている『ミジンコ』にでもなったかのような錯覚を覚えた。きっとあの超神が気まぐれを起こしただけで、この世界は消し飛んでしまうのだろうと確信する。
「おいらたちのこの『世界』は、あの目に見えない薄皮一枚で護られてるに過ぎねー。ウソかホントか、あの薄皮は『創世神』様の護りの魔法だと昔から言われてる」
「…薄皮」
「…そしてあの護りの魔法は、だいたい千年周期で弱まる時期がやってくる」
護りの魔法の境界にうごめいている無数の神々。
彼らがなにゆえにあそこにたかっているのか……あまり想像したくはないが理由は透けて見える。地を這うしかない矮小な肉ある生物たちは純然たる『餌』でしかなく、やつらがその『捕食者』、腹を空かして来るべき時を待ち構えている野犬の群れのようなものなのだ。
そして想像して、ぶるりと体が震えた。
あれらひとつひとつが……数限りない泡沫のような神々が、総じて『悪神』化しうるものたちなのだという想像に全身の毛が逆立っていく。
あの受肉した悪意のかたまりが果て無き群れとなって地表を蹂躙する様を想像して、おぞましさに身震いした。世界はきっと地獄と化すのだろう。
地表の生物が一掃される『千年期』とは、そういうことなのだ。
「分かったろ。…神々の大いなる試しの時を越えるには並大抵じゃない『力』が必要になる。この世界にはぐくまれた命らは、強きを目指さなきゃならねーんだ」
古き時代に、古種らがたどり着いた答えが、この魔法だった。
『鼎の魔法』
ただでは届かぬ高みに、多くの種族が我を殺し『鼎』の脚となることで、選した英王を捧げ上げる。種族の枠さえも超えた利他の『世界魔法』で、旧世界は強大な御柱……『大王』を得ようとしたのである。その隔絶した力を頭上に戴いて、知恵ある古種らは『千年期』の災厄を乗り越えようとしたのだ。
そしてその結果は、カイがいま見ているとおり。
その試みは目的を達することなく潰え、わずかな『守護者』たちを後世に生き延びさせただけに終わってしまった。ひとつの時代が砕け散っていくさまを見届けたその生き残りたち……その一部が、いまここに会同している。
「強い個体は、『千年期』……世界が神々に噛み砕かれ、塵芥となって攪拌されてもいくらかは生き残る。前の前の時代にもそういう古いやつらがいたそうだ。そいつらから伝えられた生き残りの知恵が、おいらたちに『鼎の魔法』を生み出させた」
ネヴィンが見ていた。
あのウルバンが、首を下げて目線を合わせてきた。
大狗が、緑の異形が、新参者のカイを見ていた。
「おいらたちもその先例に倣うことにした。愛していた世界のすべてが神々に食われて糞尿にされた。その撒き散らされた汚わいを苗床に魑魅魍魎のごとく湧き出した新たな時代の子ら……新来の命が『種族』となっていくさまを見守り続けた。そして見込みのありそうだと踏んだものたちに、おいらたちは『鼎』の知恵を渡していった。それが生き残ったおいらたちの義務だと信じていた。なかなかそれと分かるほどに知恵を持てねーやつらが多かったけど、そのなかのいくらかはマシな感じに人がましくなっていった」
その『いくらか』には、当然人族も含まれていたのだろう。
が、しかし。この世界にはびこるあまたの種族に、『鼎の魔法』を振るうものたちがいるという話はとんと聞いたことがない。世界のいたるところで常に殺し合いが起き、命が雑草のごとく刈り取られていく時代に、他種と手を取り合おうなどと言い出す者はおそらく馬鹿者扱いされるだろう。
結局『鼎の魔法』はこの時代には馴染まなかった。そういうことなのだろう。
「そうしてカイ。おまえたち人族の膨張が始まったんだ」
人族の祖先たちは、教えられた『鼎の魔法』をどのように解したことだろう。人族は周辺にはびこる異形らを次々に駆逐し、その地の土地神を奪っていった。
手を取り合うべき他種勢力の勢力圏をみずからが奪い独占して、単独の種族による『鼎』を実現しようとしたのか。
(帰依……か)
神々の連環。
辺土という広大な土地を、辺土伯と大神『バアルリトリガ』が扇の要として支配し、辺土二百余柱から帰依の力を吸い上げていた。
その辺土伯の突然の死によって、連環は砕かれ、土地の支配は原初のそれへと戻されてしまった。結果として春の芽吹きは遅れに遅れ、根腐れした草木が深い雪の中から現れた。まだ春を迎えて間もないというのに、すでにして今年の収穫が予想以上に悪くなることを皆が予想してしまっている。
まるで人族の繁栄を支えてきたなにかが……『魔法』のようなもの急に解けてしまったかのような感覚があった。
『神統ね』
『守護者』らは人族の魔法をそう言った。
土地神がほかの土地神を下すことで結ばれる『帰依』という隷属関係は、元もとこの世界に存在する仕様に類するものである。その『帰依』の連環で形成される土地神連帯の系統樹そのものに、なんらかの独自魔法が潜んでいたのかもしれない。
ふと、村の辻に立った渡り僧が、年寄り相手にするお決まりの説法を思い出した。親に連れられてうんざりするほど聞かされた子供もいただろう。親のいなかったカイは、することもなくぽつんと立ったまま聞いていた。
拝所にこもる香木の煙と、坊さんの説話。
村の拝所に飾られている絵姿には、マヌ神が『光る木』として真ん中に描かれていた。マヌとは《木》を意味する言葉なのだ。
「…豚人族もまた、新たな種族魔法を編み出した。丈夫で強き仔をなし易くするための育みの魔法……『優性魔法』とわしは名づけた」
思索に沈みかけたカイが、ウルバンの『声』に顔を上げた。
強い想いが言葉とともにカイの耳朶を打つ。
「悪しきものたちに脅かされ続ける荒れ果てた北地で、あれらが種として顕れたのは遅かった。あれらは厳しい生存競争を生き抜くために泥と糞尿をすすって子をなし、したたかにはびこった。先住のひと種族を平らげた後に知性に目覚め、それからはひたすらに子が強くあらんことを願い続けた。願いは『魔法』となって、あやつらを瞬く間に強族へと押し上げた。見よあのたくましき身体を。小兵の『加護持ち』など一兵卒で退け得る雄偉なる肉の鎧を。…現れるのがあと百年早ければ、覇族たる人族の牙城にも迫れたやも知れぬ」
ウルバンはカイを見、他の『守護者』らを見た。
「あれら不幸なフォス支族を失うは、豚人族にとって片腕をもがれるに等しい痛手となる。わしはあやつらの出した答えを見届けねばならん。大食らいのあやつらには相応の土地がいる。農作できる実りある広い土地が必要なのだ……ゆえに人族の土地をいくらか渡したいと考える」
「…ウル」
カイが声を上げようとするのをさえぎって、言葉が続けられる。
「人族は余りにも多くの土地を分不相応に独り占めにした。その土地の広さはもはや無駄としかいえぬほどに過大! むろん手伝うてくれとまでは言わぬ。みなには静観しか求めぬ! 豚人族が一派、フォス支族のものどもならば放っておいても、落ち目の人族ごとき蹴散らして自らの手で土地を奪ってみせるだろう! 辺土とか言う荒地の四半でもあれば…」
「おいッ!」
「…新参は黙っておれ」
「勝手に人族の土地を…」
「くちばしを挟むな小僧! きさまは何を理由にわしを止める! 『守護者』として、谷の神の後継として、納得できる正当な理由を示すがいいッ!」
「……ッ」
ガツンと頭を殴られたような気がした。
自縄自縛とはこのことだった。つい先ほど人族の仔であることを否定し、おのれを谷の国の王であると決めたばかりのカイである。
人族の土地が侵されると聞いて条件反射的に怒りを発露させても、それはもはや筋の通ることではなかった。
カイの暴走を警戒するように、その腕をネヴィンが捕まえている。ぎゅっと食い込む指の力に、諫止しようというネヴィンの想いが伝わってくる。
豚人族3000は、辺土の人族にとってあまりに強大な敵である。たとえウルバンの手出しがなくとも、その数が暴れまわれば辺土東域は瞬く間に蹂躙されてしまうだろう。
カイの『守護者』受け入れを決議したように、ウルバンの提議した豚人族による人族領の切り取りは輪談により協議された。
赤票3。白票3。
迷わず赤玉を投じたカイであったが、賛否はあわやの同数となった。
引き分けの結果に安堵したカイであったが、その思い違いを正すように首を振ってみせたネヴィンに身を強張らせた。
「…同票の場合は、場の最先任が決を採る」
輪談に参加したカイを含めた6人の『守護者』のなかで、最古参は濁った眼を細めた異形だった。
甲羅族大戦士ウルバンは、その灰色の目を笑みに歪めたのであった。