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2021/03/01改稿
バーニャ村は放棄された。
会合の結果を受けて、人族の諸領主家は夜陰のなか撤退を始めていた。
松明は掲げない。数千の隊列が息を殺して村から脱していく。モロク家率いるラグ村の兵らも、引き渡すつもりなどさらさらない糧穀を荷車に満載し、暗がりの中ひそやかに進んでいる。
しばらく最後尾のしんがりを歩いたカイであったが、行きと同じく先行し始めたオルハの背中を見つつそっとヴェジンに並び、ひそと会話を始めた。
「この後はどうするんだ?」
兜をかぶったままのカイの表情は外からは見えない。
いち領民と領主のそれとも思われないざっかけない会話は、むろん周りに聞かれない前提で行われている。ヴェジンもまたそちらを見るでなく口を開く。
「…一度退いて、改めて取り得る道を探すことになろうな。豚どもの3000は重い。まずは数を集めねば話にもならん。ボフォイ侯よりの誘いもある。東部領主家の連携を協議することとなろう」
「…バーニャ村はこのまま捨てるのか」
「豚どもにわれらの土地を寸土でも明け渡すのは断腸の思いだが、壁のなくなった村などもはや守り切れるものではない。土地は一時は失われたとしても、辺土伯家が諸家を束ねればいつかは取り戻せるはずだ……どうした、『守護者』殿」
「…豚人族は仔が多いと聞いた。十分な食い物があればすぐに増える」
「………」
カイの指摘に、ヴェジンが渋面を作る。
豚人族の悪食と多産は、有名な話である。昔豚人族と戦い数匹を奴婢として連れ帰った領主が、瞬く間に多くの子をなして増えた彼らを養いきれず処分したという逸話も残っている。辺土では3歳の子供でも知っている常識である。
さらにはあの異形の『守護者』。
バーニャ村の防壁をあっさりと壊して見せたことから、直接ではなくとも何らかの形で豚人族の南進に手を貸すことは大いにありえる。
「…あのウルバンなるものに、『守護者』どのなら勝てそうか」
ウェジンの問いは、至極当然のものであったろう。
カイは虚勢を張ることもなく「分からない」とだけ言った。ヴェジンはその言葉に、考え込むように顎肉を摘んだ。ラグ村のか弱き兵士たち80余の疲れた後姿を見やって、なにを思うのか。
「…オレはここで分かれる。形だけでもバーニャ村に戻れとでも命じてくれ」
「なにをするつもりだ」
「あの『守護者』を見てくる」
これからなにが起こるとしても、あの謎の『守護者』が何者でどのような力を持っているのかをたしかめておくことはけっして無駄にはならない。カイ自身、『守護者』というものがなんなのかまだあまり分かっていない。
むろんあの見るからに今世のものではない……旧世の怪物相手にひとりでは行かない。谷に戻れば運のよいことに『守護者』の先達が滞在している。
ヴェジンはカイが別行動を取るカモフラージュとして、村に忘れ物をしたと大きくひとりごちてから、カイに取りに戻るように命じて見せた。足を止め、少しだけ見送るようにしたカイを振り返ったヴェジンは、そこにかろく爆弾のような言葉を投げつけたのだった。
「…戻ったら、ジョゼと添え」
「……はぁ?」
「決めた。やはりおまえは是が非にもわが家に絡め取っておかねばな」
「………」
「約束だぞ」
肩をすくめて後方へと駆け出したカイに、ヴェジンが手振りした。
その後ろではご当主の声が大きかったのだろう、大半の兵士らが驚いたようにこちらを振り返っていた。
兜をつけているカイの表情は誰からも見えなかったが、脱兎のごとく駆けていくそのせわしない後姿から、彼のうろたえようは皆に雄弁に伝わっていただろう。
なんでいま!?
当事者であるカイは兜の中で、息を弾ませながら盛大にぼやいたのだった。
バーニャ村から谷までの距離は短い。
豚人族の占めた土地を迂回したとしてもカイであるならば四半刻もかからない。谷の神専用の門柱を潜り、谷縁の広場に降り立ったカイに、まず夜番をしていた鹿人族の兵士が気づき、すぐに何人かが集まってきた。どうやら人族と豚人族の間に起こった戦いが彼らを緊張させていたようだった。
カイの思念による呼びかけで、ネヴィンはすぐに姿を現した。ちょうどポレックも一緒にやってきた。族長の屋敷に居座っていたらしい。
「やっと来たか、カイ」
カイがくることを予想していたかのようなネヴィンのもの言い。
同じ守護者が至近に現れたのだ、お仲間として何か感ずるものがあったのだろう。
夜の谷はむせるような緑の香りに包まれている。谷の神気の濃さは繁茂する植物に強く現れる。命の芽吹きの薄い人族の土地を見てきたばかりであるために、自然と安堵を感じてしまう。石を敷き詰めよく手入れされたこの広場も、端のほうはほとんど種類も分からない雑草に飲み込まれつつある。
ネヴィンは山林檎の実をかじっている。友として谷で自由にさせているのだ、さっそく実をたわわに付けるあの山林檎の木を見つけたのだろう。
「守護者ウルバンってやつを知ってるか」
「甲羅族の出で同じ名のクソじじいはいるな」
やはり知ってはいるようで、「それで?」とネヴィンは返して来た。
カイはバーニャ村で起こったことをかいつまんで説明し、調停者たる『守護者』が特定の種族に肩入れするというは普通にあることなのかと、基本的な『守護者』の在り方について質した。
ネヴィンから聞いていた『守護者』とは、種族間で無用な争いが起こらないよう見張っている監視人のような存在で、《鼎》と呼ばれる古い知恵を守るべく、いまも千年期越えの生き残りたちがそれぞれの土地で活動を続けている……そのような認識だった。そうした不毛な争いを収めることで、社会の生産性が高まることは前世知識としてカイも理解している。
残った林檎の芯を迷わず口に放り込み、嚥下したあと指を舐める。たいしたことでもないというように、ネヴィンは言ったのだった。
「あいつのは『趣味』だからなー」
目を丸くしているカイを促しながら谷の出口である門柱へと向い、「見に行くんだろ」と含み笑いする。
『守護者』についての話を余人のいる場所でする気はないのだと察して、カイもまた歩き出す。護衛のつもりなのだろう、ポレックも追従した。
「人族が興ったのはいまから千年近く前のことだ。《千年期》の大攪拌から新たに生まれた子のひとつがお前の出の『人族』になる。その千年前の昔、この世界は一度滅ぼされている。滅んだのは、おいらたち『守護者』が属していた古い世界だった」
大攪拌。
神々による世界の再構築。鍋で煮立たせるスープを混ぜるように、神々は世界を混ぜこぜにして、原初の混沌へと還元してしまう。その大いなる滅びは、子等が命の輝きを失い、神々の寵愛が薄くなることから始まるのだという。
人族はその1千年以前を旧世と呼び、その生き残りを古き民という。谷の先代もおそらくはそのひとりである。さらにその昔にも同様の時代の繰り返しがあったのかもしれないが、無知な人族の子でしかないカイには知りようもなかった。
《千年期》とは、人族にとって自身の時代が始まる節目という意味でしかなかった。
「『鼎』の知恵が、種族を生き残らせるものだとおいらたちは信じて死ぬほど頑張った。みなで助け合えば『大攪拌』を乗り越えられるに違いないと信じていた。王たちも種の命脈が保たれることを血を吐きながら祈った」
闇夜のなかを駆けながらであっても、念話であるので聞き漏らしはしない。ネヴィンはポレックにまで聞かそうとは思っていないのだろう。
「旧世にも、おまえらみたいに隆盛した種はいくつもあった。それらの有力種族が、神々の恩寵を失って干からびるように弱者に堕ちた。おいらたちは新たに現れた新種らによって駆逐され、土に還されていった。空の支配者だった八翅は人族に駆逐された」
「…ネヴィン」
「そうして種族を守りきれなかった『守護者』たちの多くは、絶望しちまったんだ」
気配を察して、ネヴィンはバレン杉の枝振りのひとつに足を掛けて止まった。カイも別の枝に立ち止まり、ポレックがその横に添った。眼下に現れた豚人族の大集団に目を剥き、その喉が唾を飲み込むのに上下する。
バーニャ村に近い森の中。
人族の土地に攻め入る前に構築したのだろう、木柵を巡らせた立派な陣地がそこにはあった。
種族の戦力がこの地で完全に優越していると確信しているのだろう、彼らはかがり火を煌々と焚いて、分捕ってきたばかりの『食料』を分け合いながら楽しげに歓談していた。
そしてその奥の草むらに、小山のごとき異形が鎮座している。
カイの記憶であるならば、『守護者』ウルバンの寝そべる土地はすでに蜥蜴人族の土地を完全に侵しているはずであった。豚人族の大群と、なにより守護者ウルバンの武威を恐れたのか、湿地帯から感じられる彼らの気配はこちらを遠巻きにしているようである。
「甲羅族の偏屈じじいは、もう『鼎』なんて信じてもいねーしな。北地の豚たちを贔屓にして育ててる。《千年期》越えには半端ない強靭な身体と耐性がいる。豚どもをああいうふうに育つよう導いたのもきっとあの糞じじいだ」
肩入れの正体。
ふたりの守護者が近付いているのに気付いたのだろう、ウルバンが草むらに寝そべらせていた首をもたげた。
その巨体が一瞬のうちに半分ほど気配を失せさせた。身にまとわり付くように漂いだしたうっすらとした霧が、ウルバンの姿を闇のなかに溶かそうとしている。
「じじいは鈍いからな。あれが常套手段だぞ」
言うそばから3人が隠れるバレン杉が揺れだした。
すぐに耐えられるような揺れではなくなった木から、3人は振り落とされるようにして豚人族の大群の前に立たされたのだった。