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2021/02/18改稿
『…調停の対価に、おまえたちの命は見逃してやろう』
その言いぐさにかあっとカイの心身が熱くなった。
生き方にまだ迷いがあるとはいえ、カイは人族として生まれここまで大きくなった。この世界にも『遺伝子』があるならば、カイの血肉はまさしく人族の祖先の形質を転写して生まれ出でたものだった。
「…人族を愚弄するか」
崩壊から寸でで逃れていたローダ侯が、崩れた防壁の縁で兵士に背を支えられながら吐き捨てた。その足元には崩落に巻き込まれた大勢の人間が悲痛なうめき声をあげている。
そもそもこの異形の『守護者』に、まともな調停など行う気があったのかどうか。人族の亡骸を豚のエサにすると言ってはばからないのだ、最初から対等の相手とはみなされていなかったと見るほうが正しかろう。だから命を見逃すだけで十分な対価になると言い切ってしまえる。
『…さあ答えるのだ。是か、非か』
この仲裁で人族が得するものなど何もない。
是か非かと問われれば非しかないのだが、傲慢なこの『守護者』は、おのれの言い出した取引が成立するものと信じ切っているようである。
ローダ侯は憤りにわなわなと身を震わせながらも、すぐには口を開かなかった。何度も大きく息を吸い込みながら、自らの高ぶりを抑え込もうとしている。なるほど、辺土伯家に近しい有力領主家を率いる男は随分と思慮深い質らしい。
敵意をあらわにしてしまっている兵士たちを手振りでなだめながら、ローダ侯はいまなおめまぐるしく思案を続けているふうの目を『守護者』に向けて、手にした大剣を下ろし居住まいをただした。
「協議したい。時が欲しい」
人族の側はむろん一枚岩ではない。
その方針を定めるのには領主らによる議論が必要であり、ローダ侯の要求はしごく妥当であった。
結果の先延ばしに過ぎぬと難色を示した『守護者』ウルバンであったが、依然として豚人族戦士エゲリの『神石』をヴェジンが確保していることは変わらず、下手な真似をすれば『神石』を割ることぐらいはしかねない東部領主らの険悪な様子を見て、ようやくあきらめたように一定の猶予を受け入れたのだった。
与えられた時間は、明日の日の出まで。
『守護者』ウルバンはまた白い霧を吐いて霞の中に消えていった。
そして人族のあわただしい鳩首会議が始まったのだった。
豚人族らが約束どおり後退したのを見届けて、人族は急ぎ集まった。
ローダ侯が声を掛けるまでもなく、地域の別なくすべての領主らが、東部勢の本陣となる粉挽き小屋に顔をそろえた。
場所がそこになったのは、人族唯一の交渉材料、敵戦士の『神石』を持つヴェジンが東部勢のひとりであったこと、ボフォイ侯がいらぬ我を張ったりなどが影響した成り行きである。
その集まりには、村の城館にこもっていたバーニャ村領主、ピニェロイ侯サリエまでもが供をいくらか引連れてやって来た。
豚人族の求めに応じれば、ピニェロイ家が王より与えられた封建領主としての権利は喪失する。当事者として看過するわけにはいかなかったのだろう。
当然のように議論は紛糾した。これ以上無意味な人死にを出して疲弊するわけにはいかない東部領主の多くは、対亜人戦の戦訓に従い巣穴に籠るがごとき防御戦に徹するべきだと主張した。肉の壁ではなく石の壁こそが種族格差の理不尽に対する唯一のすべだと彼らはよく分かっていた。
バーニャ村からは最寄りとなる東方のテペ村、あるいは南方にやや下った内陸部のタラム領ヘクタル村、やや距離があるものの東域最大の人口と堅牢な防備を誇るボフォイ家の本拠ボフォイ村などが候補に挙げられた。
その一方、ローダ侯以下中央の領主たちは、辺土東域の守りに殉じるという気概もなくなっていたようで、ほとんどの領主らが即刻の撤退を口にし、卑怯者、臆病者よと東部勢からさんざんに悪口を投げつけられていた。実際に倒された『加護持ち』領主もなく、兵数も漸減して900ほどと一定の戦力を保っていたのだが、もはや彼らは当てにはできそうにない空気である。
「…辺土伯様の軍勢は当てにはできないのか」
ボフォイ侯クワイナゼが声を上げ、複数の東部領主たちがそれに乗った。
帰依のつながりは失われたものの、辺土伯家は人族の北伐から数百年、大辺土二百余家を束ねてきた王家の代理人、北方諸侯の宗家である。
これからもそうあるべく望んでいるというのなら、いま縁が切れているといえども東部領主らの輿望を裏切るわけにはいくまい。そのぐらいの政治的都合を読める程度には彼らもまた為政者であった。
「…その辺土伯様の差し向けられたなけなしの軍勢こそが、我らだったわけだがな」
自嘲気味にそう答えて、ローダ侯は沈鬱げに首を振る。
「混乱しているのは東だけではないのだ」
広大な辺土の外縁は多種多様な亜人種の勢力圏に接している。東部で起こりつつある破局がその他の土地で起こっていても何らおかしくはなかった。
弱り目の人族は、いまが叩き時なのだ。
おそらくは辺土伯家の恩顧に報いねばならない中央領主らも、本当は関係の薄い東部になど兵を割きたくはないのだろう。むうっとボフォイ侯が口をつぐむと、それ以上言い募ろうとする東部領主はいなかった。
「麻のように辺土は乱れ始めている。これを収めるにはかつての強い辺土伯家が必要なのだ。すぐにとは言わぬ。いずれで構わぬ。東部の諸卿には正しき人族王国の民として王家に帰依を捧げなおしてもらいたい」
深々と頭を下げたローダ侯を、中央領主らが気遣いやめさせようとする。伯家に準ずる格式ある塞市領主が辞を低くするにも限度があったろう。
ローダ侯に近しい領主のひとりが、空気を換えるように元の論議に皆を引き戻した。すでに日は暮れて小屋の外は夜を迎えている。無駄にしていい時はあまり残されてはいなかった。
「…それでは東部諸卿は疾く引き払われよ。我らはいったん本領へと帰還する。勇敢なる辺土の防人たちに、神のご加護があらんことを。諸卿らの健闘を願う」
人族の協議は決した。
『守護者』ウルバンとの約束の刻限まで、もう数刻しか残されてはいない。その空白の時間を最大限利用して、人族は安全に撤退するのだ。
「人族は、バーニャ村の放棄を決定する」
決が取られ、厳しい面持ちになった領主たちが小屋を出ていく。
その脇でただひとり、呆気にとられたように立ち尽くす少女のみが彼らを見送る形となった。その少女とは、バーニャ村の領主サリエだった。
誰も彼も、一瞥さえも彼女に向けようとはしなかった。
「待って! 村を見捨てるのですか!」
ともにいた側仕えに肩をゆすられて、サリエは慌てて去りゆく者たちを追った。
ひとりひとりを捕まえては、必死に取りすがり情に訴える。そしてほとんど相手にもされずに振り払われ、これ見よがしに厄除けの印を切られた。
なかにはかつて親戚付き合いした仲の近隣領主もあったが、彼らはサリエから逃げるように去っていった。
「どなたか! だれか!」
必死の呼びかけに誰ひとり顧みようとしない。頼りになる者がひとりもいない恐ろしさ。
サリエは迷子の子供のように、号泣した。
泣きながら、サリエはついに理解したのだった。
(父さま、ごめんなさい)
村は、人族から棄てられたのだ。
ともにいた側仕えたちまでもが、頼るに足らない情けない領主を、ぼんやりと乾いた眼差しで見つめていた。領民は領主と切っても切れぬ、一蓮托生の関係にある。サリエに代替わりしたピニェロイ家は、この冬すでに極限の窮乏を、無辜の領民たちに強いていた。
力なき領主というのは、それだけで罪なのだ。
弱き主の土地は、てきめんに衰えるのだ。
待望した春だというのに、村の土地は表面が風で剥がされ、砂のようになっていた。井戸の水位も下がり切って、農地にまくどころか領民の口を潤すのにも足らなかった。これからどのようにしてみなを食べさせていくのか、その道筋さえもサリエには見えていなかった。
(わたしには、やっぱり無理だった)
我慢していたつらさが涙となって溢れ続けた。
領主会合の格式にあわせようと急ぎ身に着けた法衣を疎ましく思い、サリエは脱ぎ捨てた。乱暴に扱ったせいで止めていたボタンが千切れ、足元に転がった。まだ父が生きていた頃に、おのれが気に入ってねだった買い物だった。
森の奥でしか採れないコーク材から彫り出した、かわいらしいどんぐりの形をしたボタンで、そのとき村を訪れていた猫の商人は「小人族の一品だ」と教えてくれた。
大森林の境界域にあるバーニャ村には、時折猫の亜人がささやかな物売りに訪れることがあった。人族は基本亜人種を恐れ毛嫌いしたが、人懐っこい猫人のみはたくみに人族との距離を縮め、商売に出入りする者があった。亜人世界に近い境界域ではそれほど珍しいことでもなかった。
サリエは亡くした父を思いボタンを拾い上げた。
父が死に、バーニャ村が近隣の同族から憎まれるようになってから、村を訪れるのはおかしなことに亜人種の猫たちだけになっていた。ここ数ヶ月ほどはその往来もなぜか多くなり、食糧事情に厳しかった村は、亜人種の食料まで買いあさるようになっていた。
奇妙な親しみさえ抱くようになっていたそのフルーと名乗る猫人商人は人族語も巧みで、訪れるたびにサリエはわざわざ城館まで招き入れ、無聊を慰める珍しい旅の話などをよくねだったりした。
「拙らは『谷』に、小人族の細工物を仕入れに向うんでさぁ」
付近の森に、新しい路が出来たのだという。
森の中にある古い谷に、最近になって新しい神様が立たれた。その御威光を慕って土地なしの弱き種族が群れ集い、そこに『国』が興りつつあるのだと猫人商人は楽しげに目を細めたのだった。
「来るもの拒まぬのおやさしい神様で」
サリエの心にさざなみが広がった。