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2021/02/11改稿
豚人族の攻勢は嘘のように止んだ。
バーニャ村を脅かしていた1000を越える豚人兵たちが、正門攻略の失敗と戦士エゲリの死で、戦意を阻喪したのだ。
方々で撤退を知らせる嘶くような咆哮が交わされ、豚人族が退いていく。抜け目なく倒れた仲間と、壁外に落ちた人族の死体を一緒くたに引きずって戻っていくのは、死体を食料にするつもりなのだろう。大食で悪食な対豚人族戦ではよく見かける景色であった。
分かってはいても、それに追撃をかけるような余力など人族の側には残されてはいない。大勢がその場でへたり込んで、彼らの成すことをただ見守っただけだった。
「勝ったぞ!」
そう叫んだのは壁上にあった中央領主のひとりだったろうか。
その半ばカラ元気の勝鬨に応ずるものは少なかったが、ややして村の正門がある東面のほうから、今度こそ虚勢ではない心の底からの歓声が湧き立った。
東面には東部勢の兵士たちが胸壁に取り付くように壁の外を見やっている。湧き立つ彼らが見ているのは、累々と横たわる豚人兵たちの亡骸をかき分けるようにして戻ってくる小柄な革鎧の戦士だった。
「カイーッ」
「すげえ! すげえぞ!」
「おめえにゃかなわねぇよ!」
「ラグ村は『鉄牛』だけじゃねえのかよ!」
血まみれの鉄矛を肩に担ぎながらのんびりと戻ってくるカイに、ラグ村だけでなくほかの村の兵士たちからも盛んに声がかけられている。
強きことは善きことという辺土の分かりやすい気風が、彼らを子供のように無邪気に騒がせるのだ。カイが手を振るだけで、またわぁっと皆が騒いだ。
そしていくさの英雄として騒がれていたのはカイだけではなかった。
そのころ、いまひとつの場所でひときわ大きく歓声が上がり、今回の最大の武勲者とされる男の名が叫ばれた。
「鉄牛ッ!」
「ラグ村の『鉄の牡牛』がやったぞ!」
「豚の『四齢』を食った!」
見事豚人戦士を討ち果たし、その誉れとなる『神石』を掲げたモロク侯ヴェジンは、ボフォイ侯クワイナゼに促されるままに防壁上へと登り、敵に向け勝者の名乗りを行った。
『四齢』の『加護持ち』ともなると、それは確実に主戦級。弱小の種族であれば、王を名乗っていてさえおかしくはない上位神の前段ともいえる存在となる。豚人族3000の集団がいかに巨大であろうと、『四齢』以上の土地神などおそらくは両手で数えるほどしかいまいと断言できる。この勝利はそれだけの大殊勲であったのだ。
「我が名はモロク・ヴェジン! この『神石』が勝利の証である!」
ヴェジンの胴間声は、よく響いた。
障害物のほとんどない荒涼たる景色の広がる辺土では、ことのほか遠くまで届いたことだろう。現に静まり返っていた豚人族の戦陣から、不満げな鳴き声が風に乗って伝わってくる。
そして黒々としたその塊りから、沁み出るように小集団が溢れてきた。
故人となった戦士の血族たちなのだろう……ヴェジンの掲げる『神石』に吸い寄せられるように駆けてくる。家伝の土地神に対する妄執は、すべての種族に等しくあるのだろう。
「返セ!」
その者たちを止めようとするものたちはあった。
だが彼らは止まらなかった。バーニャ村から放たれる矢にも恐れなかった。
それも無理なきこと、『四齢』の戦士エゲリは、大フォス六氏族のうちのひとつ、クブル氏という大きな氏族の本尊神であったのだ。
「返セ!」
「我ラノ『神』、返セ!」
異形の亜人たちが、聞き取り難い引き攣れた声で人語を叫んだ。
豚人族が先ほどまで見せていた統制がまったく利かなくなり、ただひたすらに村へ……その防壁上にある奪われた『神』を求めて百を超える影が近づいてくる。
その魂をなくした亡者のごとき前進は、慌てて対応し始めた人族の雨あられのごとき矢でも止まらなかった。むき身で矢を受けつつも構わず壁に取り付き、這い上がろうとしてくる豚人たちに、すっかりと油断していた北面上の人族はたやすく混乱に飲み込まれた。
中央勢などは特に豚人種という大型亜人種の厄介さを知ったばかりだ。そんな難敵と間を置かず再戦となって、射てども役に立たない弱弓を放り捨てて逃げ道を探し始める。その守りの綻びを危惧して東部勢が叫ぶと、「おまえたちがやればいい!」とまた勝手なことを叫んだ。
同じ雑兵でも、東部勢は横隊を組んで巧みに難敵を狩ることができる。その練度の違いを見てしまったがために、もう心は折れてしまっている。
中央の領主らが顔を赤くして叱咤しようと、もはや彼らを押しとどめることなど無理であった。
そうする間にも防壁の足元にたどり着いた豚人たちが、打ち捨てられていた梯子を押し掛けて続々と這い登ってくる。
「返セ!」
「土地神返セ!」
豚人族らは糖蜜に群がる蟻の群れのようだった。その目はモロク侯ヴェジンの持つ『神石』しか見てはいない。
奇しくも対豚人戦の第二波を食らったような格好であったが、混乱する中央勢に比べ、東部勢は落ち着いたものである。
それはなぜか。
「食え、モロク侯よ」
この物狂いに等しい第二波の本質を、彼らは知っていたからである。
義父であるクワイナゼに促され、ヴェジンもまた『神石』を握る手に力を込めた。ごつごつと硬いその『神石』は、握力だけで握りつぶせるようなものではない。手っ取り早くは、足元の石材に叩きつけ、割ってしまうことだった。
この狂乱は、元を断てば解けてしまう夢のようなもの。
勝者としての権利を正しく行使して、敗者の一生を通した経験値という血肉を食らってしまえばよいのだ。
だがその動きに、待ったが掛かった。
『待て!』
落雷のごとく轟いた一喝。
ひどくくぐもった、しかしはっきりと聞き取れるその大音声は、人の発するものではなかった。
いつの間にか、巨大な影が水路の窪地から這い上がるように姿を現している。
その姿をややおぼろにさせているのは、まとわり付く霧のようなものの残滓であるのか。
大きさだけで巨大な豚人族のさらに倍以上は大きい。そのずんぐりとした四肢が持ち上げる巨体はまさに小山、その圧倒的な量感の体表を六角形の甲殻が覆っている。屋根瓦のように連なる甲殻の隙間からは、着床して根を張ったのだろう雑多な木々が藪のようになり、そのうっそりとした歩みに揺すられる。
もたげられた扁平な頭には齢を刻むように深い皺が垂れ下がり、ぎょろりとした白目がちの目がやぶにらみのように人族らを見ていた。
突如現れた巨大な異形。その脚が水路の土手を崩しながら防壁へと近づいてくる。
(あのデカブツ、どこから出てきた)
鉄矛を肩に担いだカイもまた、ひと仕事を終えて壁上へと戻っている。班の仲間たちに迎えられながらも、予感に背中を押されるように北面へと移動を開始している。
『待つのだ、人族』
その異形は見かけとは裏腹に高い知性を備えているのだろう。発する人族語に聞き取りを難しくするような不明朗さは感じられない。その白濁したその両目はもはやこの世界の何ものも映してはいないのかもしれない。
そうして群れ集まる豚人たちを掻き分けるようにヴェジンたちの足下へと至った異形は、ごつごつした突起に覆われた首をぬうっと伸ばして、顔を近づけてきた。
『神まで奪うは、させぬ』
その言いようで、異形が豚人族に与するものであることが明白となる。
攻め寄せていた豚人兵たちが、その異形を見て「神様」と、親を慕う幼子のように我先に集まってきて騒ぎ出した。盛んに自らたちの正しさを言い募り、先代長エゲリの生前の善行や残した仔の多さ、氏族での日々の行いの正しさなどを並べて、手をこすり合わせるように祈り出した。敵中であるのに武器さえも投げ出すものまであった。
その様をちらりと見ただけで、異形はヴェジンを見上げるようにした。
防壁の高さとヴェジンの上背あっての構図で、相対する両者の大きさは比較も馬鹿々々しいほどに異形の方が勝っている。
異形はヴェジンを見据えて、腹に響く低い声で語り出した。
唖然としたままのほかの人族などまるで眼中にないかのように。
流浪する豚人族3000匹の困難な旅路。
冬の葉のごとく日々失われていく老いたるものと弱き仔ら。
土地を追われたものたちの理不尽な窮乏と、過分に過ぎる土地を占有して繫栄する人族の強欲、それらの理非を問うように論難する。
そして異形は言うのだ。
人族は分け与えるべきだと。
驚くままに聞き入っていたヴェジンとクワイナゼは、我に返って警戒するように身構えた。何を言い出すのかと思ったら、勝者の当然の権利である『神石』の所有権に、まったく縁もゆかりもない異形が待ったをかけようというのだ。
当然ながらそれは不当であり、人族側の怒りを掻き立てた。
「…構うな、喰らってしまえ」
なにを言われようと肝心の『神石』は人族側の手にある。クワイナゼが得物である大剣を構えるように前に出て、ヴェジンが勝者の権利を行使するのを守ろうとする。ヴェジンも手早く足元に叩きつけて石を割る構えを見せた。
が、そのときであった。
「…ッ!」
「鉄牛!」
ヴェジンが突如苦悶した。
『神石』を叩きつけようとしたところで、目に見えぬ得体の知れぬものに手首を掴み取られたように、動きを縛られてしまったのだ。
突然の呪縛に驚きつつも、『鉄の牡牛』の剛力はその理不尽に拮抗しようとあがいた。全身の筋肉がめりめりと膨れ上がり、肉が赤く染め上げらていく。
ややして『加護持ち』としての怪力が呪縛に打ち勝ち、ついには腕もゆっくりと動いたものの、それで硬い『神石』が割れるほどの力を生むことはかなわない。足元の石材に『神石』を押し付けた状態で、ヴェジンはそれ以上身動きが取れなくなった。
異形の白濁した目が、赤味を帯びていた。視覚器官として役に立たずとも、血流の色は現れるのだろう。
『流浪の豚人らに土地を分け与えよ』
異形の巨体からは、熱気として感じられるほどの膨大な霊力が噴き出している。ヴェジンを押さえつけているなんらかの力は、その霊力を使った『魔法』のようなものなのかもしれない。
ヴェジンを無形の力で圧伏しつつ、異形は名乗りを上げた。
『守護者ウルバン』、と。
それは北の地に住まう古き神の名だった。
『守護者』は調停を行うと宣した。
この人族と豚人族との間に起こった不幸な争いを仲裁し、両者が無駄な血を流すことなく剣を引けるよう自らが立会人になろう……そうウルバンはのたまわった。
このとき人族側の領主たちがさほど驚きもせず事態を受け入れられたのは、州都での冬至の宴……そこで起こった悪神騒ぎのさなかに、同様の存在に出くわしていたからだろう。その張本人たるカイが実は背後の雑兵の中に紛れているのだが、むろんモロク家の面々以外にその事実を知るものはいない。
豚人族を含めた多くの亜人種が、その原初的な感性から『神』と崇める強大で触れ得ざる存在……人族が『荒神』と昔語りする旧世から生き残る化物たち……それらの一部が『守護者』なるものたちなのだと辺土領主たちは一定の認識を持つに至っている。
境界域では亜人種相手に交易するものまでいるのだ、理解の下地はあったのだ。
その者たちが、再び人族の前に現れた。
人族という種の退潮が兆し始めているこの時に彼らが姿を現し始めたことに、人々は避けがたく不吉の影を幻視していた。
あるものは無言で聖印を切り、あるものは祖霊に加護を祈った。
『代表しうる者はだれか』
『守護者』ウルバンは、言葉を投げて人族の出方を見守っていた。
その眼差しは主に『神石』を持つヴェジンに向けられていたが、その相手が拒絶するように首を振ったことで、惑うように視線が左右した。この場の人族を取りまとめるべき者を察しかねているようだった。
そして言葉少なな人族は申し合わせるように目配せして……間の悪いことに二人の『代表』が名乗りを上げてしまう。
東部領主らの領袖を自認するボフォイ侯クワイナゼ。
いまひとりは中央勢をまとめていた塞市領主、ローダ侯。
愚かにも種族集団の指揮系統が統一されていないことを露呈させてしまったわけだが、冷や汗をかきつつも両者は譲らない。
クワイナゼは大きな口を引き結んでじろりとそちらをねめつけ、ローダ侯もまた雄偉な鉤鼻をそらして視線を見返した。
『我が相手はどちらであるか』
問いに空気が張り詰める。
10を数えるほどの痛い時間が沈黙のままに過ぎ、ボフォイ侯とローダ侯の無言の綱引きは決着した。
結局引き下がったのはボフォイ侯のほうであった。兵士の数で勝り、率いる『加護持ち』の数でも勝っていた東部勢であったが、集団の上に立つ者としての覚悟が勝敗を決したのだろう。ローダ侯の背後に透けて見える辺土伯家の権威を、少しでもおもんばかってしまったボフォイ侯の負けであった。
東部領主たちから舌打ちが聞かれた。
「どうやらわたしのようだ」
面子をほどこしたローダ侯が笑み、下がったボフォイ侯が暗い眼差しをその背中へと向けた。
人族勢の主と認められたローダ侯は、さらに一歩前へと踏み出して、その『五齢』の隈取を顕わにした。
「我が名はローダ・モルグという」
『五齢か。…まあよかろう』
「守護者ウルバンよ、それでは調停の内容をうかがおう」
『では…』
守護者ウルバンから漂う、水の腐敗したような臭いが近づいた。
それが鼻息の臭いだと気づいた幾人かが、わずかに顔をしかめた。
人族の些細な動きなど気にも留めずに、ウルバンは条件を列挙していく。
いわく、3000の豚人族が暮らしていくための土地を分け与えよ。
対象はこのバーニャ村とその周辺。3000の民が食べていけるだけの十分な土地。
次に人族が討ち取った戦士エゲリの『神石』。それの無条件の返還。
戦いで倒れた豚人族兵士の死体を暴くことも許可しない。むろんその『神石』も渡さない。
逆に人族の死体は、持ち帰らぬのならば置いていっても構わない。埋めてもいいがすぐに暴くことになる。むろん食料にする。
あまりの言い草に交渉代表となっていたローダ侯が絶句した。
おそらく『守護者』ウルバンは、力に劣る人族の木っ端領主など対等の交渉相手とは考えていないのだろう。
ようは要求するものはすべて差し出せ、そしてあとは文句を言わずさっさと出て行け、そういう内容であった。最後にここに溜め込まれている人族の糧食はすべて供出しろと結んだのは、ある意味徹底していて気持ちいいほどだった。
まさに言いたい放題。
絶句する人族の中で、最初にわれに返ったのはやはりローダ侯だった。
ローダ侯は怒りのあまりこめかみを指でさすりながら、震える唇を開いた。
「馬鹿々々しい。何が調停だ…」
ローダ侯が吐き捨てようとした言葉に、堪え切れぬというようにウルバンの哄笑がかぶさった。
真面目に聞き入っていた人族を馬鹿にするようなその態度に、そこに居合わせた『加護持ち』らが感情を爆発させたわずか一瞬のあと。
嫌な予感にカイが手近な仲間の襟首をつかんで後ろに飛びのいた。その直後だった。
(なッ!)
壁の石積みがきしきしと悲鳴を上げた。
確固たる足場と信じていた防壁が……組み締まっていたその石積みが、子供の積み木のように隙間だらけになり、一気に崩れ出したのである。
崩れ方はまさに地滑りのごとしであった。差し渡し50ユルほどの防壁が、一瞬にしてがれきの山と化したのである。反応できなかった者は『加護持ち』でさえも石材と一緒に飲み込んでしまったことだろう。かろうじて難を逃れたカイの足下には、半身をがれきに埋めてうめいている大勢の兵士たちの姿があった。
その間もうつろに響く『守護者』の嘲笑に、無関係を決め込んでいたカイさえも一瞬理性を失いそうになった。
なにが『調停』だ。
これじゃあ破落戸の強請り集りじゃねえか!
『…調停の対価に、おまえたちの命は見逃してやろう』
そしてウルバンは、ていたんとそう言い放ったのだった。