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2021/02/08改稿
カイの姿が見えなくなっていることにヴェジンは気付いていた。
そしてその少し後に村の門を脅かしていた破壊の音が途絶え、豚人兵らの怒号と味方側の歓声が沸き始めると、あの『守護者』がなにかをしたのだろうと分かって、背筋にぞくりとしたものが這い上がった。
明らかに並ではない神の加護。
身体能力に圧倒する豚人族の軍勢に、たとえ『加護持ち』であったとて単身向かっていける剛の者がどれほどいたことだろう。強力な亜人種との土地争いに場数を踏んでいる辺土領主たちであればなおさら、おのが力の届く程度をよくわきまえている。亜人に比してひ弱な人族とは……『加護持ち』であってもその優位のほどは知れているのだ。
現に、こいつだってそうだ。
『齢数』の同じ神を宿しているというのに……日々倦むことなく鍛錬を続けているというのに、種族が劣るというだけで力で完全に上回られてしまっている。
(しかも、まさかの武技使いか)
強みと頼んでいたおのれの武技をもってすら、おいそれとは通用しない。醜き異形の種族だとて豚人族は人族に比肩し得る知性を備えている。優れた武器を作り出し、体系だった武術をもいくつも編み出しているという。
そんな仕合巧者な亜人戦士に戦場で出会うのは、辺土領主にとってこれ以上はない災難のひとつであった。
(祖霊よ! わが戦いを見届けたもう!)
『鉄の牡牛』のふたつ名を持つヴェジンをして、勝ちをもぎ取るためには命を賭すしかないと決意させた。紛れもない強敵だった。
神格は同等の『四齢』。
そしてその恩寵の差は人族と豚人族との間にある、抜きがたい種族格差の中に色濃く現れる。岩さえも掴み砕くヴェジンの力をもってしてもなお上回ることの出来ない恐るべき怪力が、脂肪にくるまれた丸太のような腕から苦もなくひねり出されてくる。
現にいまこのとき、鍛えに鍛えたおのれの肉の鎧をただの握力のみで破壊しようとしている。
その馬の蹄のように硬く黒ずんだ指が、ヴェジンの喉首に万力のごとくめり込み、容赦なく気道をふさいでくる。
『加護持ち』となって長らく覚えたことのない痛みが皮下を駆け巡る。それはおそらく激痛と言っても差し支えなかったろう。喉の肉を鷲掴みに千切り取られるのではないかと恐怖するおのれを振り払う。白熱した何かに思考が焼かれていく。
まだ、まだだ。
鍛錬を欠かさず苛め抜いてきたおのれの身体は、この豚人戦士の恐るべき力にもきっと対抗しうる。喉首をさらした代価に腹にねじ込んだ短剣は、渾身の力で豚人戦士の皮膚を縦に切り上げつつある。鼓動のたびに噴き出してくる血の量がそのまま勝利の予感となって迫ってくる。
だが豚人戦士は雄たけびを上げつつ更なる力を振り絞って来た。ほとんど無尽蔵ではないかと思えるほどの力が加わり、喉の肉が完全に潰された。気道ごと破壊されてヴェジンはとうとう手段を選べなくなった。無理な体勢からおのれの巨体を持ち上げていく敵の力に畏敬の念さえ抱いた。
未練を棄て、短剣を引き抜いた。
そして片手でそれを敵の手に下から突きたてた。深く刺さらぬまま、何度も何度も狂ったように刺し続けた。ようやく指骨の間に通った短剣を、梃子の要領で全力で抉った。指が離れた隙間にもう一方の手の指を滑り込ませ、小指を掴んでそのまま折りにいく。半ば蹄のように変形した豚人族の指は、存外に掛かりがよかった。
容赦なく指を折った。
身体が自由を得て、浮いていた足がすとんと地面の感触を取り戻した。
反射的に呼吸しようとして、絶息する。ヴェジンの喉は5本の指で鷲掴まれた形に変形していた。常人であるならば完全に致命傷だった。
だがヴェジンは心折られない。『加護持ち』の肉体再生力はすさまじい。酸欠に陥りながらもヴェジンは身を投げるように転がって、豚人戦士から距離をとった。吸うも吐くもままならず、顔面を鬱血させたまま相手を睨みつけて、時間を稼ぐように相手に向って真っ赤な唾を吐きつけた。
「****」
何事かをつぶやきながら、豚人戦士は腹の傷からはみ出しかかったはらわたをなんでもないように指で突っ込み、指先についた血を舐めた。
そして見る間に出血が少なくなっていく。
「鉄牛! 助太刀するか」
「構わぬのならば押し包むぞ」
ボフォイ侯クワイナゼが大剣を引き抜き、テペ侯が毛皮の房飾りのついた槍を払った。声の出せないヴェジンは口を笑いの形に歪ませ、歯をむき出した。
ただ涎だけが顎を伝った。
酸素に飢え次第に大きくなっていく身震いに耐え続けたヴェジンであったが、庇うように添えられていたその手が喉からゆっくりと離れていく。血まみれであるもののずいぶんとましな状態へと復したヴェジンの喉がそこに現れ、試すように上下した。
窒息死に至るぎりぎりのところで『ラグダラトゥカ』の恩寵が憑代を救った。肺にため込まれていた空気が、大量の血を伴って口から吐き出された。数度咳き込んで、ようやくヴェジンはしゃがれ声でいらえを返した。
「手出し、無用」
あまりにも分かりやすい意地の張り方に、クワイナゼが一笑して手にしていた大剣をヴェジンに放って寄越した。
豚人戦士はもはやヴェジンに脅威を覚えぬのか、静かになってしまった村の門を見、まわりを囲んでいる人族の動きを探るように視線をめぐらせた。村へと飛び込んだ彼の手下たちはほとんどが仕留められたのだろう、混乱は遠ざかり、人族らの動きは落ち着きを取り戻しつつあった。
激しく攻められている北面では、いま防壁上で豚人族の新手が勢いを取り戻しつつあったが、連携が取れぬままに遊兵となっていた東部勢が続々と集結して穴をふさぎつつある。孤立無援となったおのれの状況を読み取ったのか、豚人戦士は闘争ではなく脱出へと意思を向けた。そして力比べで格付けを済ませた相手……ヴェジンのいる側を最初の脱出の路に選んだ。
腹腔にまで届いていた深い傷はすでに出血が止まっている。度外れた再生力を誇るのはヴェジンと変わらない。
無手の豚人戦士と、大剣を構えたヴェジン。『加護持ち』同士の戦いにおいて、鉄の武器を持つヴェジンの側が優位にあるわけだが、おそらくこの一時のみ両者ともその条理を信じていなかった。
素早い足裁きを見せ突進したのは豚人戦士のほうだった。その目が向けられるのは壁上へと続く石段であり、それはヴェジンの右後方にあった。
ヴェジンの鍛え上げられた両腕がしなり、子供ひとり分はあるだろう重い大剣を巻き込むように繰り出した。あまりにも大雑把に、そして鋭く割られた空気がやや遅れて風鳴りとなった。前のめりになった頭を斜め上から叩くような斬撃に、豚人戦士は横合いから打ち払うように左腕をかざした。
大剣と生身の腕。
普通であれば問答無用で生身の腕が押し負けて大怪我を負ったことだろう。だが『加護持ち』の守りの恩寵によって強化されたその体皮は優れた革鎧のように剣を受け止めて滑らせた。そして大剣の軌道すら外へとはじき出してしまった。
むしろヴェジンの身体自体が大剣によってそちら側へと泳ぎそうになったそのとき。すでにヴェジンは剣を捨て無手に戻っていた。
豚人戦士の左腕がガードを空けた。最初から剣での攻撃に頼ってなどいなかったヴェジンは、剣を手放すなり身を低くして敵の懐へともぐりこんでいた。人族においては並ぶものも少ない巨漢であるヴェジンが、まるで小兵のような戦い方をせざるを得ない。その大きな身体が極限まで畳まれて、腕のガードをかいくぐって下方から伸び上がる。タックルだ。
懐へと入り込まれた豚人戦士は、嫌がるように片足を引いて半身となり、残していた右腕で強烈な肘打ちをヴェジンの背中に落とした。
が、その背中への強打はヴェジンのたわむように盛り上がった巨大な僧帽筋によってどすんと受け止められる。頭と左肩を押し付けるようにぶつかったヴェジンは、踏み出した左足を起点に全身から搾り出された力を一点へと掻き集めていた。
狙いはただひとつ。
塞がり始めている腹の傷跡。
指をまっすぐにそろえた貫き手が豚人戦士の堅牢な体皮に穿たれた傷へと突き込まれた。『加護持ち』といえど硬い体皮の下にあるのはただ生暖かく柔らかな肉と内臓のみ。
身をよじる豚人戦士に、ヴェジンは左腕一本でしがみつく。右腕は腹腔に肩までねじ込んでいる。あまりにも巨大な腹はヴェジンの長い猿臂をして心臓にまで容易に届かし得ない。
ヴェジンは完全にうろたえ切った豚人戦士の足を掛け、仰向けに引き倒した。その勢いで腕がいったん腹の中から抜けた。
「あれが傭兵流の真髄よ」
クワイナゼが笑った。
戦場で死なないための武術。
どこまでも生き汚く足掻くための技。
ヴェジンの引き抜かれた腕には、豚人戦士のはらわたが握られたままであった。ずるりと引きずり出された内臓を、血まみれのヴェジンが手放さぬよう手首に巻き取ってさらに引っ張った。
「はらわたを引き出されると、どんな強い生き物でも脱力する」
「うはぁ」
『臓盗術』という。
強力な亜人種を制圧するために編み出された傭兵流の技であり、右に引けば左半身が、左に引けばその反対が強く脱力するという。
そうしておのれよりも強者であったものを制圧下に置き、確実に仕留める。
何かを哀願するかのように叫び続ける豚人戦士であったが、亜人種間で当たり前の意志の疎通が人族には通じない。
ヴェジンも苦痛を長引かせる意図はなかった。
ついにひときわ深く右腕が差し込まれ、そしてややした後に子供の頭ほどもあるごつごつした『神石』をつかみ出した。血にぬめったその石を取り返そうと豚人戦士の腕が伸びたが、その指はただ何もない宙を掻いたのみだった。『神石』を奪われた豚人はもはや神の護りを持たず、クワイナゼの手振りで放たれた壁上からの矢であっさりと針ねずみとなったのだった。
『加護持ち』の死は、いくさの趨勢を決することが多い。
人族の上げる歓声に北面の占有を争っていた豚人兵らが気付き、次々に偉大な戦士の死を報せるように分厚い喉を鳴らして吠えだした。撤退の合図だった。
この日のバーニャ村防衛戦の趨勢が決した瞬間であった。