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2021/02/08改稿
高い防壁から飛んだ革鎧の戦士の姿は、押し寄せる豚人族の波間に小石のように飲み込まれた。
人族のなかにあってさえ小柄であったカイである。モロク侯ヴェジンをも上回る巨体ぞろいの、豚人族の肉の波に巻き込まれては、その華奢な骨肉などあっけなくひき肉にされるのがオチであったろう。
声を失った班仲間たちの目は、矢を射ることも忘れて押し寄せる豚人族の濁流を見、その一部が渦巻くように穴をうがちだすのをとらえていた。
カイだ。
手にしていた武器は土豪モロク家に伝えられる伝来の鉄矛であり、あまりに古いものだから先に取り付けられている刃が目打ち鋲のあたりで欠けてしまっている。錆び付いているものの矛の柄は太く、恐ろしいまでに重い。
武器庫を見て回って、カイが選んだのがその武器だった。刃が欠けているのになぜそれを選んだのかと聞かれて、彼が返した答えは「丈夫そうだから」だった。
子供の腕ほどもある鍛造の柄は、錆び付いてなおその武器としての硬さを十全に備えていた。カイはその怪力に任せて鉄矛を振り回したのだ。目方だけで10倍以上になりそうな豚人兵らが、その鉄矛に二つ折りにされて渦中から吹き飛ばされていく。一回転して円形に穿たれた空き地の中心に、矛を構えたカイの姿が現れている。遅れてやってきた血と胃液の雨が、お仕着せの革鎧をばたばたと染め上げていく。
滴る体液で視界が悪くなったのか、ずれた兜を気にするふうに直していたカイであったが、開いた空き地を再び埋めるべく生きた豚人兵らが群り寄ると、仕方ないというように繰り返して振り回しだす。
「あいつ、すげえ」
「カイッ! 突き棒だ」
そのすぐそばでは、バーニャ村の門を突き破ろうと、切り出したバレン杉の幹を荒縄で引き摺る一団がある。その巨大な破城槌が人族の拠り所である村の安全を脅かしていた。
身体が千切れてはらわたを撒き散らしている豚人兵らを掻き分けるように突っ込んだカイは、門に狙いを定めた破城槌を横合いから突いた。
ボクンッと木鐸を叩くような音がして、前寄りの半数ほどの豚人兵が、足並みを乱して麦畑の斜面へと雪崩れ落ちていく。大木の重量は豚人たちをもってしても過大であるようで、傾いだ破城槌の後部は数匹の豚人兵を持ち上げてしまっている。
強烈な一撃を見舞ったカイであったが、それを阻止せんと盾兵が間に割り込んでくる。破城槌を矢から守るように大きな盾を屋根のようにかざしていた兵らである。多数で一気に押しつぶすように迫ってきた彼らに、鉄矛を横に振り回す余地が奪われる。カイは中央にいた一匹をしたたかに突いて弾き飛ばしたが、その間に鉄張りの盾に左右から殴りつけられた。
守護者だとてむろん無敵であるわけではない。敵手よりも身体能力で大きく上回っているのみで、一対多となればおのずと対応しきれない攻撃を喰らうことになる。ただし『加護持ち』らが持つ神の護り、鉄のごとき体皮の硬さがそれらをなお受けきってしまう理不尽は存在した。
カイを押し込んで叩きのめそうとする盾兵らを「邪魔」と叫んで殴りつけ、縁を掴んで引き倒す。カイという小さな肉の器に潜む神の理不尽は、体格で圧倒的優位にある豚人たちをもってしても簡単に覆しうるものではなかった。
顔面にいいのを入れられて、カイは数歩たたらを踏んだ。つつっと垂れてきた鼻血を兜のなかで舐め取りつつ、呼気とともに笑いを吐き出した。荒い息が不思議と引き攣れたような笑い声となる。
(オレはまだまだいけるぞ!)
鎧武者と死闘したときのことをおぼろに思い出した。
あのときはもう無我夢中で、おのれがただ殺し続けていたという記憶しか残ってはいない。
やつを倒したあと、カイは氏族の神を奪い返さんと襲い掛かってきた豚人兵らと乱闘となり、気付いたときにはその無数の躯の上に立っていた。小さな人族の子供相手にあのときの豚人たちは100匹以上の犠牲を強いられ、なおかつ勝つこともできなかった。
カイは戦場を見た。水路のくぼみに落とされた破城槌は見捨てられ、その兵たちが背中を見せて逃げ出している。それらの撤退を護るように盾兵らがカイの攻撃に備えて身を寄せ合っている。足元に散らかっているすでに死んだか戦えなくなっている豚人兵らはだいたい十数匹ほどか。
手にした鉄矛は期待通りの頑丈さを証明している。これならばどれだけ敵を叩こうと折れたりはしないだろう。きっとカイの体力が続く限り、頼もしい攻撃力を維持してくれるだろう。
カイは血溜りを蹴立てて駆け出した。春になって雪の下から現れた草は黄色く腐っていて、不用意に踏むとずるりと足をとる。一度それで転びそうになったが、すぐに立て直して突進する。
その傲慢なまでの猪突に、豚人兵らが慌てて後退しようとして崩れ立った。鉄矛を叩きつけられて、盾兵らが数匹がかりでもなお押し込まれる。一撃で変形して防具としての機能を奪われた鉄張りの盾が、最後の抵抗とばかりにカイに投げつけられる。そしてついに、バーニャ村の門へと集中しようとしていた別働の先遣隊は壊走を始めたのだった。わずかひとりの、小柄な『加護持ち』戦士の出現によって局所の攻防が覆されたのだ。
カイは壊走する兵士らを追うことはなかった。彼らの逃げた先には、門を破った後に突撃する算段であったのだろう、身を低くして待ち構える大部隊が戦陣を張っていた。
カイとその軍勢との間で睨み合いがあり、向こう側で数匹の『加護持ち』たちが前へと出て来た。カイという神の理不尽に抗うには、あちらも同様のものにすがる必要があったのだ。
威圧する必要を感じ、カイは顔を覆っている兜に手をかけかけた。おのが神の格を示し、身の程知らずな相手の戦意を折るために。
だがそこでカイの手は止まる。
果たしてそれでよいのか。守護者たる谷の神が、人族の中に紛れて亜人に抗している……その姿をあれらに見せてもよいのか、と気の迷いを覚える。
そうしてカイは、兜から手を離した。
(『守護者』としてどう振舞うかはお前の自由だ)
人生を激変させつつあるおのれの進むべき道の先に、小さいが頼りになる『先達』の背中がある。
「…八翅は約定に従って大戦士を差し出した。おいらは氏族の最後の戦士だった」
古き種族、八翅に名を連ねる鱗翅族最後の生き残りにして、『守護者』を名乗った大戦士、ネヴィンは言った。
大雪の中、カイの強情に負けて抱えるように連れ攫われた先達守護者は、厳冬のなか東の大森林の中にぽっかりと口を開けた……ふくらかな春のごとき熱気が湯気となってたゆとう谷の様を見て、驚きに目を見張った。その力ある神を継いだ無知なカイに、先達守護者としての助言を口にしたのだった。
大雪を寄せ付けぬ谷の熱気のせいで、その縁に作られつつある眷属たちの村までが豊かな春の恩恵を受けて活気付いていた。いつの間にかバレン杉の隙間を縫うように畑まで広げられており、種類も定かでない作物が緑を茂らせていた。小人族や鹿人族ばかりではない、見たこともない新たな種族もその外働きに加わっていたのにはカイも驚いていた。
(強い力を持つ神は縋られる。先達の『鼎の守護者』たちはみな抜きん出たつわものたちだった。弱きには縋られ、強きには畏れられた)
『鼎の守護者』
それは千年期を超えたはるか昔のこと。
いまはなきあまたの古種族が覇を競った時代、殺し合いの絶えなかったその古き世界に、賢明なる古種の王らが会同し、手を取り合うことに成功した稀有な時代があったのだという。
むやみに殺さない、土地を求めない。奪わず、奪わせない。種族の知性が高まりを見せたその輝かしい歴史の一地層において……共生を実現した各種族は、大いなる義務として選りすぐりの大戦士を守人として差し出した。
この厳しい世界に秩序をもたらすために。
彼らの手をつなぎ合わさせ、共和のもととなった尊い知恵を、『鼎 (かなえ)』と言った。
そしてその『鼎』を護る者が『守護者』の始まりであり、さまざまな理由で滅びの路をたどった古種のよすがとして、『千年期跨ぎ』の力ある孤神が各地に残った。
(…おまえの威に縋ってあれら弱き民は集まったんだろうけど、おまえは新代の人族だ。だから鼎の約定にも縛られなくていい)
かつて至高の知恵と讃えられた『鼎』を信じる種族のほとんどは絶えた。
そしてその知恵の伝導もままならぬまま数百年、『守護者』たちもさすがに古天の夢からはもう覚めていると、悲しげにネヴィンは言った。
古き叡智はこの時代には根付かなかった。まだ幻を追うものもいるけれども……おまえはおまえの心の中にある『善きこと』に従って生きればいい。
そして人族の力ある列神の一柱として生きるのならば、そのときは躊躇わずあの者たちとの『鼎』を断ち切れ、と言った。
(お前の心のありようは『善きもの』だとおいらは信じる。この世界の命のあり方に寛容なおまえは不思議と『守護者』の心に近い。人族として生きても、あの弱きものたちの光として生きても、おまえならきっと間違わない)
先達守護者が言ったその言葉の意味を、まだカイは量りかねている。
兜を取ることをやめたカイは、じりじりと迫りくる豚人族兵士たちを待ち構える。
カイの武威をもってすれば、この一局面のみのささやかな勝利程度なら飾れるのかもしれない。しかしその勝利は等質等量の敗北として敵の豚人族を痛めつけることとなる。
一方に害を押し付ける……そのやりようは人族の神のひと柱としてならよくても、はたして『守護者』としてはどうなのか。
(…このまま人族として振舞って、谷に集まった眷属たちを捨てるのか)
カイは呼吸を切るように硬く口を閉ざす。
谷の神たるカイに帰依を寄越し、自ら眷族となった彼らにはもはや捨てがたい愛着がある。形作られつつある谷の国はすでにおのれの半身とさえいえる。
古い時代の伝承によって引き寄せられ、縁を結んだ谷の国の民たちは、カイが『守護者』であったからこそその下に連なったのである。
おのれが人族の『加護持ち』として振舞えば、その絆はきっと霧散してしまう性質のものなのだろうと察する。それは嫌だと思う。
(なら、オレはここでどう振舞うべきなのか)
生まれ故郷であるラグ村にも深い愛着があった。かなうかぎり彼等を助けたいと思う。しかし村の戦力として完全に勘定されてしまっては、谷を本拠としたいおのれの行動を縛られることになりかねない。いずれはどちらを選ぶか、という難しい選択を強要されるだろう。
幸いモロク侯ヴェジンは思慮深い男であった。おのれを上回る高位の神を宿した彼を、慎重に取り扱いつつも村の安全のために最大限に利用しようとしている。そして同時に、ひどく警戒もしている。それはヴェジンの向けてくる眼差しが、常にどこか張り詰めたように硬いことから察せられた。
カイの個人的想いはどうあれ、領主としての権利を横領されるのではないかという不安は妥当なものであった。
気配に気づいて、カイは空へと目をやった。
無意識に動いた身体が、鉄矛を操って飛び込んできたものを打ち払った。
(…槍?)
カイが脅威の対象であると理解したのだろう。
その攻撃を皮切りに、敵の戦陣の後背から大量の投げ槍が降り注いできた。投槍器で投げつけられるそれは普通の矢よりも格段に重く殺傷能力も高い。
カイはその場に落ちていた豚人族の鉄盾を拾い上げていくつかの槍をいなすと、その手ごたえから『加護持ち』ならば持ちこたえられると見て一気に駆け出した。
それにあわせて豚人戦士が2匹押し出してきた。
先頭でやってきたのは『三齢』の戦士だった。カイは鉄矛を握る手に力を込めた。