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2021/02/05改稿
北辺三千遊土の広大な土地が、神々の連環を失って麻のように乱れた。
大辺土の独立を企図し、自ら王神を宣した辺土伯侯バルター・アッバスの横死……それがすべての始まりであったことは紛れもない。
その冬、辺土は激変に見舞われていた。
冬の嵐が吹き荒れ続けた。
いくつもの湖沼が凍りついた。あまりの寒さに木々が裂け、手立ての十分でなかった畜舎でたくさんの家畜が凍死した。
そして辺土のいたるところに雪解け水の川が現れはじめる春先になっても、野草の芽吹きは驚くほど少なかった。あばたになった土色の大地を無邪気に駆け回る子供らとは対照的に、大人たちは落ちかかる不吉な影にひそひそとささやき合った。今年は何かが違う。何か悪いことが起こるに違いない。
村々を率いる領主らは近隣との行き来がかなうようになってから、たびたび話し合いの席に出向くようになった。耕地を鋤き起こすよりも先に、村の兵士らの調練が始まり、湿気った革防具が天日に干され、矢が作り増やされた。
辺土に生きる人族たちの抱く模糊とした不安は、大地から雪の名残りが消えたころに現実のものとなってようやく現れることとなる。
雪解けを待っていたかのように、亜人種の大規模な侵攻が始まったのである。
「ボフォイ家の先触れが! 火急の報せとのこと!」
「通せ! 道を空けよ!」
騎乗のまま村の門を潜った使者の男が、鞍から転げ落ちてよたよたと走り出す。その足元の土は雪解け水を多く吸って、歩を進めるたびに泥を跳ね飛ばした。
ラグ村領主モロク・ヴェジンは、もたらされた書状に目を見張ると、ただちに村の男たちを招集した。
豚人族の大侵攻。
バーニャ村の西方10ユルド付近に、豚人族の軍勢が出現したのだという。その数はおよそ3000。辺土東域の安定が破られかねない、まさに一大事だった。
ラグ村勢は、当主ヴェジンに率いられ、領主会同の場に進発した。
その数は80余。灰猿人との攻防の痛手が癒える間もなく、子供のような新兵まで掻き集めてもそれだけしか集められなかったのだ。
男たちの留守を守るのは腕まくりした女衆と少数の老兵のみである。一応『加護持ち』であるジョゼが居残っているとはいえ、例年のごとく灰猿人族の襲来を受ければかなり危うい。その危険を押してなおモロク家が戦力を吐き出さざるを得ないほどに、豚人族3000という大軍勢は東域すべてに及ぶ脅威と見做されたのだ。
まさに非常の事態であったからなのだろう。生きて帰ったら添うてやってもいいと、結婚の申し出に応じた女が大勢出た。村という集団の生存本能が、生き延びていくために新しい子を産み増やそうとしたのかもしれない。村人の婚姻を管理する《女会》は、保留となっていた届けの多くに許可を大盤振る舞いした。そのおかげで兵士たちの出立では、そこかしこで男女の愁嘆場が生み出されたようである。
カイの班では、マンソがそれにあたっていたようで、首筋に残った『痕』をむず痒そうにさすっている。むろんそういうことに縁のない男どもからはしつこく突かれ続けて、辟易とした仏頂面を明後日のほうへと向けて歩いていた。
「…くそ、オレらだって」
「ちくしょうこいつらばっか」
やっかまれているのはもちろんマンソばかりではない。
遠く州都から村へと帰った班長のカイもまた、村での扱いが激変していた。
寸法の合っていない革鎧を着せられたカイは、手足に当てたその他の防具類の具合を確かめるように歩きながら腕を回したりしている。
その明らかに雑兵用のものでない、上等な戦士然とした出で立ちは、ほかの班の者たちからも無遠慮な視線を向けられていた。
「…カイなんて領主家入りだとか噂されてんだろ。見ろよあの革鎧」
「城館のお蔵から出したやつだろ、あれだって」
「カイがどこぞのお貴族様みてえじゃねえか」
その革鎧などはモロク家から下賜されたものであり、カイの周りで起きた大きな変化のひとつであった。使われることなく死蔵されていた領主家伝来の武具類が、この『成りかけ』に惜しみなく与えられるようになったのである。特別扱いも極まったと言えただろう。
先頭を行くご当主様からの呼び出しを受けて、その当人がさっと駆け出していく。年季の入った防具は、走るたびに跳ねてがしゃがしゃと音を立てる。重さも相当なものになっているのだろうが、『成りかけ』のカイにとってはたいした不便にもなっていないようである。
「後は任せたぞ、マンソ」
「おう、任された」
『勝ち組』同士でやり取りがなされ、その他班員がぶつくさと悪態をついた。
物が与えられるようになったということは、すなわち『身内扱い』になったという証しであり、ご当主様のカイへの態度も非常に近しいものとなっている。姫の誰かと添うのではないかとも噂されていた。
集団の先頭は長子オルハが務めている。目のよい『加護持ち』が集団の先頭で哨戒する意味合いもあったが、この場合は『後継はおのれである』というオルハの無言の主張であると見たほうがよいであろう。当主ヴェジンと距離の近くなった『成りかけ』の存在を彼もひどく意識しているのである。
「なかなかの武者振りではないか。カイ」
「動きにくいです」
「まあ半分は格好付けよ。『加護持ち』は目立つことで皆を守るのが仕事だからな」
足元の道はひどくぬかるんでいる。
雪に埋もれている間もしぶとく生き抜いている草が、今年はほとんどが根腐れしたように黄色くなって現れていた。それらが半ば混ざりこむようにして雪解けの泥土となってしまっている。
そこから少しばかり声を潜めたご当主様に、カイは顔を上げた。
足音に掻き消されぬよう、耳を澄ませた。
「…本当に、村は大事無いのだな?」
発された問いに、カイもまた平たい声で応えた。
「信じる信じないは自由だ。オレはそう判断している」
「そうか」
そこからは敬語などはなしになっている。内々でカイはすでにしてラグ村の一領民などという立ち位置ではなくなっている。
「変わらずオレを受け入れる決断をしてくれたことには感謝している。それにここまで育てられた恩も忘れていない。…だから、可能な限りは皆を守る。村に対してオレが悪意をもってはいないことだけは信じてほしい」
「信じよう」
当主ヴェジンが村を留守に出来た裏には、カイのもたらした亜人世界の情報があった。灰猿人族の襲来はないだろうとのカイの見立てを、ヴェジンは信じたのである。
実際に灰猿人族は、新王をめぐる支配権闘争で南北ふたつに割れて争っており、いまは人族にちょっかいを出すゆとりはなくなっている。南部氏族連合『大首領派』は後ろ盾となっている谷の国に、逐次使者を送って連携を密にしようと努力していたから、想像以上にカイはそちら方面の情報を把握していた。
むろん亜人たちの情報を必要以上に開示して、彼らの不利になるようなことはするつもりもない。カイは端的にしか説明しなかったし、ご当主様も無理には求めなかった。守護者であるということの意味合いを、ヴェジンも、おそらくは当人のカイでさえも正確には分かっていなかった。ゆえに、両者の係わり合いかたに適度な距離感が生まれたのは、ある意味幸運であったのかもしれない。
モロク家は守護者カイを、辺土東域に現れた新しい諸侯のひとつとして遇すると決めた。当主とその子等ふたりもそれを承認している。
「ならばおまえの武を当てにさせてもうらうぞ」
「分かった」
「あと、兜はちゃんと被れ。ほかの領主どもに顔がバレる」
ご当主様はずいぶんと下のほうにあるカイの顔を見て、にっと小さく笑ったのだった。
東域領主らの会同は、バーニャ村の南東5ユルドの丘陵地帯で行われた。
12の小領主らが集まったことで生まれた人族の軍勢は、1800余。ほとんどの村が根こそぎ出兵してきたので、それだけの数となったのだ。うち『加護持ち』戦士は21柱。
辺土に侵入した豚人族は、まだ追いついていない後続の集結を待っているらしく、人族領の明確な国境となる大森林の際の辺りに仮の拠点を設けているのが確認されている。木々が多く伐採され、煮炊きの煙も盛んに上がっているという。
実はバーニャ村を境に西方でも中央部の小領主らが会同を行っており、1000ほどの軍勢が形成されているとの報告も入っていた。が、そちらとの連絡はまったく取れていない。むろん辺土伯家によってまとめられていた人族の帰依の連環が断たれて、それぞれの地域でそれぞれのしがらみが小集団をまとめ上げてしまったからである。どうもそちらの集団は辺土伯家の係累が影響力を及ぼしているようで、完全に独立してしまっている東域連合軍にかなり隔意を持っているらしかった。
その中央域連合軍が、先手を取ろうと先に動きだした。強力な豚人族に対するのならば、せめてこちらと合流してから当たったほうがよいのは歴然としているのだが、どうもあちらには別の考えがあるようだった。
「別々に当るぐらいならば、われらも素早く続いて、なし崩しに両軍合同の形にしてしまえばいい」
実は東域領主らの会同でも誰が頭を取るかでひと揉めあり、兵を一番率いてきたヘクタル村の領主タラム侯と、ラグ村を含む4村と血を結ぶ有力家、ボフォイ侯が主導権を争い始めた。より内陸にあり亜人種の襲撃にもあってはいなかったへクタル村は支村もあわせると領民の数が東域最大で、タラム侯は肉付きのよい400人もの兵士を率いていたが、ボフォイ侯は戦い慣れた精兵が多いこと、モロク侯ヴェジンをはじめとした8柱もの『加護持ち』と血縁を結んでいることを盾に、主導権を強引にもぎ取った。
3000もの亜人の大群に、少数の軍勢が各個に当たるのはあまりに馬鹿げていたから、東域連合軍も程なく会同の場から出発した。
「中央のやつらはかなりの『加護持ち』を連れてきたようだぞ。どこかの塞市領主が分家も引連れて合流したらしい」
「…てことは『五齢』がケツ持ちしてるってことか。ならば多少は遣り合えるかもしれん」
「馬鹿を言うな! 去年、たった200ばかりの豚人族相手に、オレらはどれだけの兵を死なせたんだ! 3倍以上の兵と先代の辺土伯様までがそこにおられたのだぞ!」
「豚人族が入り込むのは東域が主だ。あいつらもしかして豚人族の恐ろしさを知らないなんてことはなかろうな」
「ありうるな」
「いちおう伝令を走らせとけ」
対豚人族戦に慣れた東域領主らは、遮蔽物が何もないのっぱらで野戦になることを恐れていた。
ここに来るまでの間にほとんどの領主が同一の結論に至っていたのだろう。ボフォイ侯の口から改めて命ぜられても、誰ひとりとして反論することはなかった。
「どうせ最初に狙われるのはあの村だ。中央のやつらを引き入れつつわれらもあの村に拠って、堅牢な壁をもってやつらと武器を交えたほうがいい。去年もそれで何とか撃退したのだしな」
辺土の村は防壁によって堅く守られている。
東域連合軍は、一路バーニャ村へと向ったのだった。