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2021/02/05改稿
そのものは、何ものでもないままにいつしかそこに湧き出した。
奇怪な黒きわだかまりとして生まれ出たそれは、影の中から染みるようにむくりと立ち上がり、猛り狂う風の中にゆらゆらとその姿を現した。
それには手も足もなかった。
目も耳もなく、およそ生き物ふうの造作もなかった。
その曖昧でおぼろな姿をみせたなにものかは、かすかに『個』の意識だけは持ち合わせていた。突然世界と分け隔てられたちっぽけなおのれという存在に、彼はそのとき圧倒され、呆けているようにも見えた。
(寒イ)
その大地には、凍てついたひどい嵐が吹き荒れていた。
細かな氷粒を含んだ強い風が、大気を切り裂くようにごうごうと猛り狂い、ちっぽけな彼を思いもかけぬ方向へと吹き飛ばそうとする。手も足もない彼は、右に左に、風に吹かれるままに玩ばれた。彼はそれを苦にしたが、ふかふかする冷たい地面にへばりつこうとしても、強い風の力には逆らえなかった。
しばらくそうしてされるがままに転がされていただろうか。
玩ばれるだけであった彼の身体が、あるところで何かに引っかかったように止まり、そこから動かなくなった。
見れば、彼の奇怪な身体から、枯れ枝のように細い『手』が生み出されていた。その手に生えた『鉤爪』が、大地をしっかりと掴んでいた。
たった1本だけ生えたその手で吹き荒れる風にしばらく抗っていた彼であったが、これでは何も現状を変えられるものではないと理解すると、1本、また1本と新たな手を作り出した。
手の数が4本を超えたあたりで、彼は誰に教えられるでなくその手の本来的な使い道へとすぐにたどり着いていた。よたよたと危うい足取りで彼は歩き出した。
おのれがなにものなのかという疑問さえもなかった。ただ歩き始めたおのれという存在に、『個』をぼんやりと自覚した。
何かにぶつかったり、穴に落ちたりするうちに、必要に駆られて世界の象を取り込む『目』が開くようになっていた。
そこには暗い空と、白い大地があった。激しい風と巻き上げられるきらきら光る氷粒がもうもうと巻き上がるその世界は、ひどく寂しく、そして寒々しかった。
激しい地吹雪の中を、彼は何かに導かれるようにして進んだ。身を低くして這い進むほうが楽だと気づいた後は、ずっとそのままでいた。
そうして歩き始めてからずいぶんとときが過ぎた。
彼は初めて、風と雪以外のものをその視界にとらえた。それはすばしっこく白の中を走りぬけようとしたが、彼の伸ばした手がそれに触れると、そのまま倒れて動かなくなった。
一瞬触れた感触が、かつてない興奮を彼にもたらした。
ふわふわと柔らかなそれは、いままでに感じたことのない尋常でない何かを周囲に放っていた。それが『熱』というものなのだと彼が知ったのは、そのものを衝動的に喰らい尽くしてからだった。
気がつけば、身体の中が温かい何かで満ちたことがわかった。同時に、身体を取り巻いている白い世界が痛いほどに過酷な何かなのだと身に迫って自覚した。『生存』という激しい欲求に駆り立てられるままに、彼はさらに這い進んだ。
その頃になると、彼の周りにも同じように這い進み続けるともがらが大勢いることに気付いている。いまいる場所がとても嫌で、繰り足を速めた彼はその集団の先頭に立つ形になっていた。白く冷たい大地を蹴立てて走り続けると、ゆく手に黒々とした壁が迫って来た。
風の唸りしかなかった世界に、なにやら空気をさざめかせるものがある。その不思議な何かを感じ取るために、『耳』が生じていた。
「来タゾ!」
「陣形!」
方々からその不思議なさざめきが届いてくる。それは『生き物』の立てる空気の震え……音だった。
彼とともがららの行く手を阻んだ黒い壁は、土を突き固めた長大な土塁だった。その壁を造るために掘り返されたのだろう足元は深い空堀となり、むやみに進むしか能のないともがらたちを次々に飲み込んでゆく。
同じく転げ落ちた彼は、その底で露出した土の地面というものを初めて知った。無数のともがらたちと絡みあいながら空を見上げた彼は、壁の上からこちらを覗き込む巨大なものたちの姿を目にとらえていた。
黒々としたそのものたちは、騒々しく音を発しながら大きく膨らんだり萎んだり、盛んに白い煙を吐いていた。
彼らの躍動がまき散らすその煙が、過去に感じた『熱』のかたまりであると理解した彼は、夢中になって壁をよじ登り、大きな影たちに襲い掛っていた。
「少シデカイ、混ザル!」
「幼体ダ」
身の毛のよだつ何かが迫ってきて、叩きつけられた。
頭を半ばつぶされて、彼は初めて『痛み』というものを覚えた。そして硬い地面に転げ落ちながら、生まれて初めての激しい感情にとらわれた。与えられた生命の危機への激しい怒り。『熱』を持てるものたちへの身を焦がすような憧れ。
そして、空腹感。
再び壁をよじ登ろうとしたときに、群れ成した彼のともがらたちが大波となって壁に打ち寄せた。頭上に覆いかぶさるように殺到した後着のともがらたちは、壁に群がり寄ったそばから長いもので叩かれて、すえた『臭い』のする体液をまき散らしながら転がり落ちていく。
「『原種』ノウチニ殺セ!」
「1匹モ残スナ!」
そのうちにたくさんの何かが掲げられ、世界の暗さを払った。
赤々と燃え上がる火を見たのも初めてだった。その目を焼くほどのまぶしい何かも『熱』の塊だと分かった。触ってみたいと思った。
ひときわ抜きんでた大きさの彼はともがらたちを押しやりついに前に出た。自由を取り戻した彼は、長ものを振り回すのに必死な敵の一体に狙いを定めた。一瞬の隙をついて、喰らいついた。
「マズイ!」
「喰ワスナッ!」
待望の『熱』を口にして、彼は喜悦した。
噛むほどにあふれ出してくる『生き物』の血潮は、喉を潤し臓腑を満たした。最高の甘露だった。
彼に食いつかれたその敵は、びくりと全身をはねさせてそのまま落ちて来た。引き摺り落とした彼はむろんのこと。回りにいたともがらたちもいっせいに群がって来た。
これはオレの獲物だ!
夢中になって『熱』を取り込んだ。
身体に取り込まれていくその熱いものが、彼を陶然とさせる。本能の赴くままに湯気の上がるはらわたを食い散らし、もぐりこむように頭を突っ込んだ。
獲物にありついたともがらたちがむくむくと大きくなった。もともと大きかった彼もさらに肥え太り、個の感覚をさらに強くした。
分別して彼は『食い残し』を仲間たちに譲った。ともがらたちも大きくなれば、この戦いが優位になる。そしてみなしてあの耳障りな音を発する『敵』を殺すのだ。
「ダメダ!」
「将呼ブ!」
長くせめぎあった。
壁は高く、敵も強かった。
苛立ちが募った。
おのれたちはあの壁を越えていかねばならない。漠然としたその思いが戦いの中で運命的なゆるぎないものとなっていく。
彼は大きくなった身体で壁を素早く這い上がった。何度も硬いもので叩かれたが、けっして怯むことなく前へと進んだ。
巨大なものたちが悲鳴を上げて後ろへと下がっていく。力はとても強いくせに、彼らはとても弱かった。少しでも身体に触れると、彼らは耳障りな『声』をあげてすぐに動かなくなった。
彼は次々に新しい『食事』にありついた。そして臓物をむさぼったあとは、それを鼻先で掬い上げるようにして壁下のともがらたちに向って投げ落とした。
そしてどれほどの時が経ったことだろう。
かたわらで「将ッ!」と叫ぶ声がした。巨大なものたちを割って現れたものがいた。
「悪シキモノメ!」
きらりと輝くものが目をかすめた。
それはすぐさまに彼へと叩きつけられて、激烈な痛みが彼のなかで爆発した。
ほかのやつらとは格段に違う、とても力の強い敵だった。身体をふたつに裂かれて、彼は灼熱にきしるように泣き叫んだ。
痛イ! 痛イ!
何とかそこから逃れようと、彼は無事な手を振り回しながら後ずさった。ずいぶんと大きくなっていた彼は、壁の上で簡単に身体の向きを変えることも出来なくなっていた。
次々に新たな痛みがやって来た。痛みが彼に怯えというものを学ばせた。
怯え、逃げ惑いつつ、目を転じた彼は、そのとき初めて壁の向こう側にも未知の世界があることに気づいた。
頭上を常に覆っていた曇天があるところを境に途切れ、そこからまぶしい光が降り注いでいる。きらきらと輝く大地にはそうであることが当たり前だと思っていた白い雪が少なくなっている。輝いているのは雪解け水の流れる小川だった。
彼は痛めつけられるのを嫌って身をよじり、壁から落ちた。
落ちた先はともがらたちの群る側ではなかった。
「殺セ!」
「洩ラシタ!」
すぐにまた大勢の巨大なものたちが襲い掛かって来た。彼はひたすらに逃げた。光射すかなたの世界が彼を呼んでいた。
背に痛みを与えられつつも、彼は走り続けた。手のいくつかがもげて、素早く動くことが出来なくなっても、その景色を目指して這い進んだ。
あとひといきで……そう思った瞬間に灼熱が彼を貫いた。もう地面に雪は薄く、ぬかるんだ大地からは馴染みのない『水』の匂いがした。
あれこそが彼らの生きるべき場所なのだという強烈な想いを最後に、彼であった意識は霧散した。
それは遥か北方での物語。