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あとを追いすがってくる声になど構うことなく、カイは心話を発した。
ネヴィンの名を何度も叫んだ。だが返ってくるものは何もない。ただ先ほどよりも勢いを増しつつある雪がしきりに頬に落ちて、水滴に変わってゆくばかりだった。
なぜおのれが殴り合いまで演じた相手をこれほど気にかけているのか、その理由は分からなかった。同じ『守護者』であるということだけで覚えた友愛がそうさせているとは毛ほどにも思わなかった。
なぜか不意に、思い付いたことがある。
(…これは、谷の神様の想いか)
さっきも一瞬だけ、心が重なったような錯覚を覚えたばかりだった。その心の同調が、いまもまた作用しているのではないかと思った。
胸を疼かせる共感。
それは同じ痛みを経験した者にしか分からない感覚なのだと、経験などしたこともないおのれが納得してしまっている。そういえば『先代』は、いにしえの民の生き残りとしてずいぶんと長くいき、周辺諸族に惧れを刻んだまま人知れずこの世を去った。その境遇はネヴィンのそれに酷似していた。
死ぬな、と願った。
胸が張り裂けそうなほどに痛かった。
『守護者』と呼ばれるようになった『加護持ち』は、なべてかなりの長命になるようであり、その生涯は、属する種族が滅び去ってもなお続くことが多いのに違いない。
そうしてカイの脳裏に、『先代』が斃れることとなった瞬間が記憶の断片としてよみがえっていた。谷の神様の記憶なのだろうとすぐにわかった。
谷の神様の顔は見えない。記憶はその目を通してのものであったからそれは仕方のないことだった。
ただ、笑っていた。
小山のような恐るべき異形種を相手に、泣き笑いながら武器を振るっていた。
カイの見たこともない雄偉な角を生やした、たくましい体躯の四足獣が、苛立ったように何度も吼えた。『先代』は意固地になった子供のように、傷を受けてもなおしゃにむに挑みかかった。
あまりにも長命となった者が、死する原因。それは個としての天寿の全うではなく、ただ生き続けるのに耐えられなくなること。生き続けるための理由を見失うことなのだとわけもなく同調した。
最後はいち戦士として死にたい。そのときの『先代』はそう願っていたに違いない。そして『先代』の夢はそこで途切れた。
そこが彼の最後の地であったのだろう。
ネヴィンはいまこのときなにを願うのだろうか。ネヴィンは故地を追われてより、長きに渡り辺土伯家の治世とともにあった。強大な人族の手によって、辺土が拓かれ、豊かになっていくさまを眺めていたに違いない。土地神たちがどんどんと力をつけ、世界が輝きに満ちていくさまを見守ることに逃避とはいえ喜びを見出していたのだとすれば、その世界とおのれの終焉をどこで迎えたいと願うのか。
(墓所か)
ネヴィンの眷属たちが逼塞していた『バアルリトリガ』の聖骸が眠る地下墓所の底にあるかもと思いはしたものの、それが受難後の逃げ込み先でしかない事実に思い至り、カイは気持ちを落ち着けつつ精神を平らかにした。
『加護持ち』には、おのれの神の墓所がいずこにあるのかをおぼろげながら感じ取る力がある。それは土地に縛り付けられる呪いに通ずる感覚であるのだが、同様に神経を研ぎ澄ませば他神の墓所のありかも分かるのではないかと思ったのだ。
そして最初に感じたのはやはり強大な力を持つ『バアルリトリガ』の墓所であり、カイはさらに神経を集中した。
念ずるほどに、体内に満ちる霊力が額の裏側に集まっていく感覚が強まっていく。同時に、隈取に顕れる額の『象形紋』が火にあぶられたように熱くなった。
そして、ここではないどこかの光景が脳裡に展開した。
霊眼から得られる情報は、いままいでおのれの肉眼を介してのものの域をでることはなかった。この『視覚情報』はそのあり方を逸脱しており、別種の能力なのだということはすぐに理解できた。
(…谷の神様の『特効』か)
『象形紋』が『眼』の形をしているときから、薄々は何かあるのだろうと思っていた。一時の夢や錯覚などではないと信じて、カイは感覚の告げる方向へと……州城のある丘を三ノ宮のほうへと駆け下り始めた。
後ろからしつこく追ってくる僧侶たちの気配を感じつつ、「ついてこられるものならついてこい」とカイは嘲笑う。たとえ薬で神格を底上げしていようと、そもそも谷の神様の神格にはとうてい及んでもいない者たちである。谷の神様はカイの代になって亜人種の帰依を集めてさらに力をつけつつある。
身体能力の基礎がそもそも違うのだ。二ノ宮を通り過ぎて三ノ宮へ、そしてその見上げるようなそそり立つ石壁をわずかな足掛かりのみで駆け上がった。
その大屋根まで上がれば、下からは見えない構造上の主柱のある場所が瞭然としていた。
見渡した一部が無残に崩れているのは、昨日アドルたちとやりあったときの爪あとであるのか。一面の瓦まで剥がれかかっており、思った以上にやらかしていたのだなと他人事のように思った。
(…あいつの墓所は、ここにある)
ネヴィンは辺土伯家の本尊、『バアルリトリガ』を、《丘の神》と呼んだ。
その墓所はまさしくこの丘の一番上にあり、一ノ宮はまさしくその墓所を収める大霊廟であるといえた。
そしてここ三ノ宮は……初代バルターが制圧し、羽根ある種族から奪い取った墓所を封じるための霊廟として建てられたものなのではなかろうかとするりと納得する。ひとつの丘に、有力な神の墓がふたつも並んであるとは、なかなかに不思議な按配であった。
一ノ宮と同じく尖塔のような設えでそそり立つ主柱、その上に探す相手はいた。カイが草試合の時に感じた視線は、ここから送られていたのかもしれない。
「…くんなよ、ばーか」
怪我はすでに治っているようなのだが、身繕いにもはや関心がなくなっているのか、顔を血まみれにしたネヴィンが、カイを流し見て脱力したように身体を椅子に預けた。
尖塔の先にある雨よけの屋根が、ちょうど小さな東屋のようになっていて、ネヴィンが隠れ家として長く使っていたのだろう。ゆったりした背もたれのある椅子と、小物入れらしき家具が置かれ、屋根の柱からつるした色ガラスでできた小瓶が、三ノ宮の排熱によって保たれた温かさでいくつかの小さな花をつけていた。
『加護持ち』ならば、寒さなど物ともしないからこれで十分に快適な空間となったであろう。ネヴィンはその椅子にだらしなく身を任せて、雪の降りしきる空を見上げていた。
「……くんな、つったろー」
「………」
主柱に這い上がって、黙っておのれを見下ろしてきたカイに、ネヴィンは少しだけ目線を投げて、仕方ないなというように長くかすかなため息をついた。
屋根があるといっても最低限のものでしかない。降りしきる雪はわずかな風でも横から入り込んでくる。寒さが気にならないとはいっても、限界はあるだろうに。
「…なあ、谷の」
「………」
「ここいらの冬は、昔はもっともっと深かったんだぜー。邑が全部埋まっちまうくらいで、冬は雪洞作って行き来したりしたんだぞー」
カイはネヴィンの呟きを邪魔しようとは思わなかった。
ただ横に立って、同じ冬の空を見上げて、気持ちを沿わそうとした。
「最近まで、そんなひでー雪だったのを、忘れてたんだー。冬も短いし、春は暖かかったから、年の半分も身動き出来なかった昔のことなんか、思い出しもしなかった」
ネヴィンの瞳に映る、冬空は白かった。
「このところ雪が深くなってきてなー、たぶん今年はもっとひどくなるんじゃないかと思ってたら……きっとそれどこじゃねー荒れ方になるんだろうなー。見ろよ、上のほうが真っ白だし、どんどん降りがひどくなってくぞ」
「…ネヴィ」
「…たぶん、辺土は昔に戻ってくんじゃねーのかなー。食い詰めたら、あとは殺しあうばっかなあの頃に戻っちまうのはもったいねーなー」
「ネヴィン」
「…見たかねーよなー。そんなところ」
ネヴィンは、まるでこれから昼寝でもするように、目を閉じていた。
そのまま消えていってしまいそうなほどに、その存在感が薄れていく錯覚にとらわれる。
「……カイ」
「……なんだ」
「もしもわかんねーことがあったり、相談したいことがあったら、『ともがら』を探せなー。みんなたぶん暇してっから、いらん世話とかを焼いてくれるぞー」
『ともがら』とは、ほかの守護者のことだろうか。
でもいまは、そんなことより。
「なんで、そんなふうに言う。おまえが相談に乗れよ」
「…もーおいらはいいや。飽きたしめんどくせー」
「いいから乗れよ」
ちらり、とその眼が開いた。
そして心底めんどくさそうに、「いやだ」と吐き捨てて来た。
「…そのともがら合わせの『土笛』をやる。力を込めて鳴らしてみろ。近くにいるやつがきてくれるぞー」
「だから、いなくなるなよ」
「…絶対になくすなよー」
「聞けよ」
「…ああ、もうわかったから」
「適当いうな」
「………」
まるで聞き分けのない子供同士の口喧嘩のように。
そしてわずかの沈黙の後に、ネヴィンは申し訳なさそうに、カイを上目遣いした。
「おいらの『石』を貰ってくれ」
「だから」
「なあ、いいから」
「くわねえぞ」
「きっとうめーから」
「うるさい、んなもん捨ててやるから!」
「…じゃあ、そうしろー」
カイはもう無我夢中になっていた。
おのれの手を胸に向けようとしたネヴィンを捕まえて、力いっぱいに抱きしめていた。抱きしめながら、泣き出していた。もう本当にどうしようもなく、悲しくて悲しくて仕方がなかったのだ。
ネヴィンの匂いが、体温が伝わって来た。
戸惑うようであったネヴィンは抱きしめられながら、迷うようであったその手をカイの背中に回し、親愛の情を示した。
「あったけーなー、おまえ」
ネヴィンは、そうつぶやいたのだった。
これにて『冬の宴』編は終了です。
すこし閑話的なものを加えるかもですが、3巻に向けての作業も始めますので、更新はしばらくできないと思います。
よろしくお願いいたします。