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いろいろと感想ありがとうございます。
誤字脱字、修正等はいろいろと気にはなっているのですが、今は勢いを大事にして突っ走ります。
よろしくお願いいたします。
あの谷は、バーニャ村近くの森の中にある。
逸る気持ちが抑えられない。カイの地を蹴る一歩は身体を数ユルの高さにまで舞わせ、着地までに数十ユルも進む。
最高速度で走っているとき、カイはおそらく1ユルドを50歩ほどで駆け抜けており、バーニャ村までの50ユルドをたった2500歩で踏破できる計算だった。辺土の緩やかな起伏と低木の茂みを飛び越え、目的地であるバーニャ村が見えてくるまでに費やした時間は半刻もかかってはいない。
(時速50キロ以上か…)
加護持ち恐るべしであるのだが、カイの気持ちはもうバーニャ村など通り越してその向こうにある麗しの谷へと向かっている。
ほとんど直線コースを取っているので、何度か村の畑に足をついて大穴を開けてしまった。もともと柔らかくされた土なので、カイの蹴り足が爆発するように土を飛び散らしてしまうのだ。
(…といっても、ほとんど直ってなかったよなー。あの村大丈夫なのかな)
豚人族の死体はかろうじてなくなっていたものの、畦は崩れてしまったままだし、当時の兵士たちの足跡もそのままになっていた。
ほとんど飛ぶように視界の後ろへと過ぎ去ったバーニャ村の集落を振り返ったが、いまだ何十人も暮らしているとは思えない生気のなさが暗くわだかまって見えた。終わった村だな、とカイは思った。
そのままバーニャ村の麦畑を突っ切り、森の中へと入ったカイは、ほとんど直感だけで谷の方角を嗅ぎ分けた。
(谷は……あっちか)
なぜだか谷のある場所がはっきりと感じられる。
そこまで深い場所にあるわけでもないのに、あんなきれいな湖水をたたえる谷が人族に知られていないのは、蜥蜴人族が支配する水気の多い低地が大きく横たわっていたからだろう。カイは蜥蜴人族の縄張りである低地をやや慎重に回り込みつつ、極力足音を忍ばせて森を分け入った。
そうしてしばらくもせぬうちに、ついに谷を見下ろす場所にまでたどり着いたのだった。鬱蒼とした緑を掻き分けると、ほとんど突然のようにその絶景は眼前に現れた。
「谷だ…」
目にした瞬間にカイは喜びをほとばしらせていた。
谷だ。やっぱり夢ではなかった。
ここから生還したのはまだひと月と経っていないほどの最近のことであるのに、景色が無事に保たれていることに対する安心感が半端ではなかった。
カイはもういてもたってもいられず、崖から飛んだ。下に湖があると知っていてもこの真夜中の森の中でそれをするのは怖いもの知らず過ぎた。
しかしカイは谷におのれが全面的に受け入れられているという揺るぎない確信に抱かれている。
束の間宙を舞い、そして当たり前のように湖水に着水する。
ざぶんと冷たい水に潜って、そして浮かび上がってわっと思うさま谷の冷えた空気を吸い込む。無邪気に手足を暴れさせた後に水面を漂って……そうしてカイは腹の底から笑った。
(オレは、この谷が好きだ)
はっきりと、そう思った。
なんならこれからこの谷に住み着いてしまおうかと思うほどだった。
見上げる空には崖に切り取られた狭い星空が輝いている。村の年寄りにいくつも教えてもらったのに、結局ひとつしか覚えられなかった北の極星をその中に見つけて、まっすぐに指差した。カイの注目に気付いたように、極星がそのときまたたいたように見えた。
「あのとき鳴いてたのは、おまえだろ!」
谷底の小さな林から聞こえてきた聞き覚えのある鳥の声に、カイはよく分からない友愛を覚えながらそう叫んでまた笑い出した。
しばらくそうして衝動のままに振る舞っていたカイであったが、ややして笑いを収めると、ざぶりと岸辺近くの浅瀬に立ちあがって、陸のほうを見た。
そこには星の光でほとんどシルエットにしか見えない大木のこずえがあり、ここを去る時に洗った墓の碑文が、光を受けてわずかに輝いて見えていた。
呆然とその様を眺めていたカイであったが、そのうちにじゃぶじゃぶと岸へと上がっていき、手のひらに火魔法を作り出した。
松明ほどの火が燃え上がると、周囲がほの赤く姿を現した。
この谷底には、おそらく鳥や虫以外、大きな生き物はいないのだろう。突然現れた光明に驚いたのか、神経質そうな鳥の声がそこここで起こる。
「わるいわるい。すぐに消すから」
カイはまるで人間に話しかけるようにそう言って、有言実行で火魔法を消した。実際に『加護持ち』であるカイは、身体強化作用に含まれていたのか視力も相当に向上している。おのれに害意を持つ存在がいないことさえ確認できれば、この程度の暗がりなどどうということもなかったりする。
墓石に水をかけて、前回きれいにしなかった場所を擦り始める。この土地神の墓に恩返しをしているような気がしてすぐに夢中になる。
洗濯物をするときの女たちの知恵で、クリュという背の低い木の皮を剥いで丸めると、汚れをこすり落とす便利な道具になる。似た木があったので、その皮を一部拝借して、それで墓を擦った。
「…よーし、んなもんか」
どのくらいの時間そうしていたのかはもう分からなくなっていたが、カイはすっかりと汚れの落ちた墓石を見、満足したように伸びをした。
あとはもう近くで咲いていた名も知らない小さな花を摘んできて、墓石の前に供えて、それでしまいだった。
「おまえにも供えといてやる」
この谷底にいっしょに落ちた豚人族も、ラグ村のやり方でちゃんと葬ってやってある。丸い盛り土をして、拾ってきた石を墓標代わりにしてあった。盛り土の上に1本だけ花を置いてやった。
ラグ村を出てからまったく寝ていなかったが、眠気はあまりなかった。『加護』を与えられてから、なんだかそれほど眠らなくても大丈夫な体質になったように感じる。
そうしてやることもなく大木の根の、なんともお尻にフィットするくぼみを見つけてくつろいでいたカイであったが、心地よい時間があっという間に過ぎ去るのは世の中の法則のようなものなのだろう。やがて白み始める東の方の空を見、もうそんな時間なのかと慌てて立ち上がった。
後ろ髪を引かれるように立ち去り難い気持ちが湧いてきたが、村に帰らないわけにもいかない。いま一度土地神の墓に祈りをささげ、そして振り切るように彼は踵を返した。
常人には険しい断崖も、わずかな手がかりだけで軽々と登れる『加護持ち』にかかれば子供向けのボルタリングのようなものだ。すいすいと登って、あっさりと断崖を踏破する。
そのわずかな時間にも、差し染めた日の光に森が色付いていく。
(ぼるたりんぐって、なんだろ)
素朴な疑問を浮かべつつ、カイは思い切るように一度大きく手を叩いて、そして夜明けの薄明かりの中を駆けだした。
駆けながら、この谷に自分の小屋を作ろう、と決めていた。
谷はもはやカイのものだった。ここを自分だけの快適な世界にしてやろうと、少年はわくわくと心を弾ませるのだった。
日が完全に上りきる頃には、カイはラグ村のおのれの寝床にそっと身を丸めていた。
仲間たちがごそごそと置きだす気配に合わせて、彼もまた目を擦るふりをしながら起き上がる。
挨拶を交わして井戸端で共に顔を洗い、天気の行方を談じて湯気の立ち上る食堂へと歩いていく。おのれの生まれ故郷である村での日常。
そこの人々の中にいるおのれに帰属意識のあるなしを問えば、確実にあると答えねばならない。しかし彼の魂の半分は、やはりまだあの谷の中にあるような気がした。
食堂から流れてくる朝食の煮炊きの匂いに、お腹がぐうと鳴った。
カイには両親がいない。モロク家がかつて治めていた別の小さな村が亜人族の侵攻に遭い、したたかに踏みにじられその歴史を閉じたときに、幼い彼を残して死んでしまった。バーニャ村みたいなことは身近でも起こる話であり、いまこうして本村に引き取られているカイには、血縁の近い身内というものはなかった。カイは朝食の配膳に並びながら思う。
おのれの日々の命を繋ぐこのご飯が、ラグ村への帰属意識の中心にあるのだと。たかが食事などとは思わない。貧しい辺土で日々の食事をどうにか支え続ける苦労を彼は知っていた。
「…今日の作業はなんだったっけ?」
「たぶんまた北のほうの畑の手入れだろうな。くそ、だりぃな」
「飯を食ったら、そのぶんはちゃんと働きで返せよ、おまえら」
「「「ほーい」」」
いつもの返事に、カイの声は自然と仲間達とハモった。
話半分に聞かれたと思ったのだろう、マンソが小さく舌打ちするのが聞こえた。
自然と列が年齢順となる班行動は、カイが最後尾になる。
取るに足らない雑談に騒ぎながら、カイは自分用の皿をなんとなく服の裾で拭って、それがまだ半分湿っていることに気付いた。
今度からは湖に飛び込むのはやめよう。そう思った。