119
人族は、辺土を失うのかもしれない。
絵空事のような想像が、やけに身近に感じられた。空へと舞い上がっていく燐光の美しさに魅入られつつ、それらが土地の命にも等しい恩寵の散華なのだと思うと、まるで土地が血しぶきを上げているような感覚にも陥った。
ほんとうに地味に乏しい、貧しい土地だと思っていたのに、こんなにも失うものがあったのか。
いや、そうではない。
(百万の大族である人族が土地神を統べたからこそ、辺土は何とか人の暮らしが立ち行くところまで豊か足りえたんだ)
本当は、もっと貧しかったのだ。
むしろその本来的な姿は、生き物の生存を許さない、何ひとつの優しさもない、ただただ茫漠とした荒野に過ぎなかったのかもしれない。強大な力を統べた人族が支配したからこそ、多少なりとも穀物が実を結ぶほどの地味を後天的に獲得していた……そうとらえるほうが認識としては正しいのだろうと思った。
衰退したネヴィンの一族があっさりと土地を放棄したのも、そこにそれほどの価値を見出していなかったからなのではないのか? だから地下に営巣したのではないか?
人族以前の、いにしえの辺土に跋扈したに違いない異形の先住民たちがどのようなものだったのかをカイは知らない。だがそんな実りらしきものもない土地に根を張っていたというのだから、農耕さえ知らない獣同然の者たちだったのではないかと推測する。
いまここで見ている辺土の景色は、ある意味奇跡的なものなのではないのか。
このつましいまでにささやかな豊かさが、それほどまでに貴重なものであったとしたなら、それを護ろうとする者たちが必死になったのにも一定以上納得できる。
辺土を支配したといっていい辺土伯家の当主が、いまある豊かさを護らんと独立を企図したことも、過度にいち種族に肩入れするなと言う先達守護者が、なぜかいち種族の最たるものだろう人族のまつりごとに深く関わっていることも、その土地の豊饒化という奇跡に対する執着がもとなのだとすれば、理解できる気がした。
土地が豊かになれば、土地神も強くなる。辺土領主の加護の強さを見比べればそれは一目瞭然で、より豊かな村、大街を抱える領主ほど力は強力となり、高位の神紋を顕すようである。最も発展した州都を持つ辺土伯家が強力な力を持つのもその一例であると言え、そのことからも土地が豊かさを見せるということがこの世界での『善き事』なのだというのが分かる。
(…辺土が荒れれば、ほかの種族もおそらく動きだす。成り行きしだいでは谷の護りを固めなくちゃならない)
人族の国の箍が緩めば、きっとまたぞろ豚人どもが土地を掠め盗ろうと森の向うから入り込んでくるだろう。その大規模な侵入が森の中で形成されつつある『谷の国』の勢力圏に触れることは十分に考えられることだった。
谷の周りに集まりつつある眷族たちだけでは、まだまだ脆弱に過ぎる。国として産声を上げたばかりの谷の国には、危機に備えるための十分な時間が必要だった。
(…なら、辺土の人族領はなるべく荒れない方向に収めたい。ここでオレはどうするべきだ……考えろ)
ネヴィンは手を出すなという。
自分だって散々手を出していたというのに、勝手な言い草だなとは思うが、たぶん土地の豊かさを維持しようという『善き事』と、同族同士の内紛には関わらないという守護者の在り方としての『善き事』は、ネヴィンの中で矛盾などしてはいないのだろう。
翻って、自分はどうなのだ。
人族はれっきとしたカイの同族である。内紛する者たちのなかにおのれは含まれているわけで、それに介入することは同族として当然のことであり、守護者としての分別を求められる以上に優先されるべき事柄であった。もしかしたらネヴィンはカイを谷の神の先代憑代と混同して、人族のうちに含めていないのかもしれなかった。
カイはおのれのなかの逡巡を振り払って、決然と動き出した。
この人族の混乱のなかを立ち回り、おのれという守護者の根となる『谷の国』を適宜露出させ、できうる限り有益な形で人族との間に関係を築く。小人族も鹿人族も強大な豚人種族との間には拭いがたい憎悪の溝がある。手を取り合えないのなら敵対するほかはないのだが、ここに人族の勢威を背景とすることができたのなら、谷の国にとってそれは有利に働くに違いなかった。
(人族の王はここからあまりに遠いところにいる。…手を取るのなら、近しい辺土伯のほうがいい)
ゆえに、ここは恩を売ろう。
辺土伯をここで救えば一帯の領域が最低限安定し、かつカイの谷の国も『辺土王』の命の恩人として関係を強め、友好を得て安定する。人族であり同時に谷の国の王であるカイだからこそ、その行動は種の生存のための生得の権利であるのだと自己正当化するのもためらいを覚えなかった。
その駆け出そうとするカイの肩を捕らえた手があった。見ればご当主様……モロク・ヴェジンとその子らがいままさにカイの傍近くへとやってきたところであった。守護者として覆面していようと、やはり長くときを共有してきた近しいものたちにはそんな変装など通用しないらしかった。
「『守護者』とはなんなのだ。…説明はあるのだろうな」
問う声は厳しかったが、その表情には貴重な加護を隠し持っていたことを咎めるような色は見当たらなかった。
ただおのれが判断に迷わぬように、知らねばならぬことを知っておこうという領主としての責任感が言わせたのだろうと分かった。
そしてご当主様が謎の『守護者』の肩に親しげに手を置いたことで、周囲の領主たちから少なからぬ驚きの声が上がった。
モロク侯のお知り合いか。
しからばあの者は辺土の東辺に根を張る亜人の神か…。
噂するそうしたささやきが細波のように周囲に伝播していく。連環が砕けつつあるいまの辺土領主たちにとって、頼りとなる強い寄る辺を探すことは急務となり始めている。『悪神』をあっさりと屠って見せた強力な『加護持ち』、『守護者』なるものに伝ができるというのであれば喜んでその距離を詰めてくるだろう。そんな場面であったから、周囲のモロク家に対する視線の色合いが変化したのも当然のことだった。
カイが逡巡したのはわずかのことだった。
おのれの統べる谷の国が人族とどのような関係を築くのかまだ何も決まっていない状況である。ここで『モロク家の元村人』という事実が広まることは避けておきたいと思った。
黙ってご当主様の肩に乗せられた手を掴み、そっと押しやった。
ただ眼差しにのみ、申し開きは改めてする、と意思をこめる。
「オレは『谷の守護者』だ。覚えておくのはそれだけでいい」
そうしてカイは集まりつつあった領主らから離れ、広場の乱戦へと飛び込んでいった。白姫様の眼差しが追ってきたのにも気付いたが、いまは構うゆとりなどなかった。
ともかく辺土伯を救う。
その恩をかさに『谷の国』との間に有用な協力関係を築く。
死に瀕する人の命を損得関係なく救おうという義侠心のようなものからではなく、ただただ谷の国を取り巻く混乱要因を取り除くためだけの打算的な判断だった。
小人族もかくやという素早い身ごなしで人々の間をすり抜け、ときに塞がれては力で強引に押し進んだ。そうして弾む息の白い煙の向こうに権僧都と切り結ぶ辺土伯の姿が見えたとき、予想していた通りに前進を阻む者が現れた。
ふわりと降り立った小柄な『守護者』は、上目遣いにカイを睨み付けてきた。
「…引っ込んでろ。谷の」
「邪魔だ。オレは介入することにした」
「『守護者』は同族同士の…」
「止めたきゃ止めてみろよ」
ブッ、と空気が震えた。
ネヴィンの姿が目の前から掻き消えて、その拳が死角である側面から繰り出されてくる。カイは反射的に振るった肘打ちで即座にそれを打ち落とす。連続でやってきた金的をかち上げる蹴り脚も、かろうじてとらえたネヴィンの上体を突きのけることで不発にさせた。
(…追えるぞ、もう)
最初の対決では、同じ人相手の感覚で、ついつい重心移動や手足の動きを追ってしまったがために対応できなかった。
ネヴィンは背中の羽根を駆使して、人が攻撃に必要とする準備動作をいともあっさりと無視してくる。そのつもりで身構えていれば、不意討ちの嵐に翻弄されることになってしまう。
すでに先の手合わせでそのあたりのことを知っていたカイであったが、むろん風のごとく襲い来るネヴィンの攻撃を反射神経だけですべてさばけるはずもなく、いくつかは貰ってしまう。
見切るための対価だと割り切った。
(…よし、掴んだ)
カイの目はネヴィンの肩越しにその闘法の動力となる『風魔法』を捉えていた。
わずかでも霊力を運用していれば、どうしたって色が付く。谷の神様の『目』からは逃れられない。
(『魔法』で爆ぜた反対に動く)
半分もかわしていれば上出来であったカイが、次第に慣れて攻撃をほとんど寄せ付けなくなっていくと、ネヴィンは苦笑いするように手のひらを前に差し出した。
その瞬間に爆発した『風魔法』が、カイを間合いから吹き飛ばした。ネヴィンの闘法を徒手格闘ベースと思い込んだ浅慮が生んだ隙だった。
無様にごろごろと転がりながら、その無防備になった背中に追撃に蹴りを受けた。灼熱に顔を歪めながら、カイは天地が何度も反転するのを見た。
やっぱり手ごわい。
なんとか立ち上がろうともがくカイを冷然と見下ろしたネヴィンが、足裏を打ち落としてくる。その容赦のない攻撃を顔面に食らって、目から火花が散った。
鼻血を撒き散らしながら続いた蹴りを何とか捉えて、足首を脇に巻く込みつつ身をひねってネヴィンを地面に引き倒す。いかに相手が守護者だからとて、体格に勝るカイの身体能力がそれに落ちるということはなかった。
組み敷かれてネヴィンがしまったという顔を見せたのは一瞬のことだった。猛然と暴れだすのを押さえつけながら、カイは拳を握り締めて何度もその顔面に叩きつけた。見た目が華奢な子供のようでも容赦しなかった。
「ネェヴィィィン!」
叫ぶ声がした。
それは権僧都らに追い詰められつつある辺土伯の発したものだった。
なんとなく攻撃を止めたカイは、おのれの拳が赤い血にまみれていることに気付いてやや呆然として、その隙を血の持ち主であった相手に突かれてしまった。
顎下に『風魔法』が弾けてのけぞったところに、くびきから逃れたネヴィンの後ろ足で砂を掻くような蹴りが鳩尾を抉った。
カイの下から這い出した気配が、そのまま羽音とともに遠のいていく。
(…やばい)
辺土伯の声はかなり切迫していた。
命を失うかどうかの瀬戸際で、なおもネヴィンの窮地を気にかけられたその気概だけでもたいしたものだった。襲い掛かる複数の僧侶たちに対して、辺土伯の周りにも助勢の領主たちが幾人か見えた。
「父上! いまお助けを!」
そこに駆けつけようとする味方らしき一団。
そのなかに以前見た顔を見つけて、カイはわずかだが気を抜いた。
隈取をあらわにした第一公子アドルが、おのれの郎党を引き連れ加勢しようとしているのだと分かったからだ。
そこから辺土伯を中心とした戦いは一気に参加人数を増やして、僧侶側に不利なものとなっていくかのようであったが……カイはその後に起こった唐突な幕引きに、案山子のように棒立ちになってしまったのだった。
公子アドルの手にした短剣が、父親の背中に突きたてられた後に、僧侶たちの得物が四方からその身体を刺し貫いたのだった。
リアルは大晦日までお仕事です。お休みは三が日だけです。引越し先ではブレーカーが落ちまくりです。データも飛ばされました。身内がやってきて人口密度が2.5倍になりました。現場で携帯壊しました。連絡不通のまま忘年会に呼ばれました。水割りが水でした。
感想くださいませ。