118
(18/12/23)リアルが忙しくて時間が取れなかったため、いったん引かせていただいていた118話を再掲いたします。
フォーカスすべき場所を吟味しましたので別物のような感じになっておりますが、シナリオを変更したということではありません。
とにもかくにも、ご一読くださいませ。
(…ネヴィン、そっちは任せたぞ)
(………)
権僧都でこの程度であるのだ、その従僧程度に先達守護者が遅れを取るはずがないとたかをくくっていたカイは、すでに宴後の処理に半ば意識を取られていた。
応えのないことに気付いて、そちらを顧みたのはわずかに感じた嫌な予感ゆえのことだった。
(ネヴィン……おい)
やはり応えはない。
焦りを覚えて心話ではなく実際の声を上げていた。
「どうした……ネヴィン!」
カイの突然の大声に、周囲が驚いたように顔を上げた。
見開かれたカイの瞳に、ただ立ち尽くすネヴィンの小さな姿が映っていた。
その視線の先には鉄剣を杖のようにしてかろうじて立っている辺土伯の姿があり、そこに数人の従僧たちがいままさに殺到しようとしているところだった。
傍観。
その危地を見守るだけの守護者。
「助けてやれ!」
声を掛けども、その立ち姿は微動だにしない。
その乾いた眼差しだけが、ただ満身創痍の辺土伯を見ている。
そしてその辺土伯もまた、わずかな瞑目の後、全身から力を抜いてしまったのであった。
(これは同族内の争いだ)
ネヴィンの、そっけないほどの応え。それがこの傍観の理由であると、理解せよと突きつけるように。
小人族の族長ポレックは、谷の神様のことを『調停の神』と呼んだ。調停とはすなわち異種族間の利益調整のことを指すのだろうとぼんやりとだが察していた。ポレックの口ぶりからは、弱き者たちを助け、その存続がかなうように力を貸す存在であるというふうを感じていた。
(…『守護者』は、同族内のいさかいには手を貸さない。介入の際限がなくなっちまうからだ)
(ネヴィ…)
ネヴィンと、辺土伯の眼差しが交差する。
そこには見放されたことに対する咎めのようなものもなく、諦観した者だけが感じるそよ風に揺れる草原のような穏やかさだけがあった。
「生き残りたきゃ、死ぬ気で足掻け」
「是非もない。おまえとはそういう契約だ」
辺土伯の手にはもうあの異形の大剣はない。ただの頑丈そうな鉄の剣が握られるのみ。
その筋肉が弛緩した状態からのしなうような横薙ぎを、迫っていた従僧が後ろ飛びに素早くかわした。そのよく練られた体術は、《僧院》ならではのものであったろう。短く舌打ちしつつ、辺土伯は次々に襲いかかってくる従僧らの波状攻撃に応じていくものの、その反応はやはり鈍い。
見れば従僧の中にもはっきりと隈取を顕している者が幾人かいた。辺土伯が万全の状態であったのならまだしも、状況ははなはだ苦しいものであった。
辺土伯が殺される。
そのまさかの展開にカイは呆然と投げ飛ばした権僧都のほうを見、その姿が人混みにまぎれるようにやはり広場を目指して駆け出しているのに気付く。僧侶らが辺土伯への殺意を明白にしているのに、それを止めようという領主らの動きは見られない。
いや、彼らもまた意想外の成り行きに、ただあっけにとられているのかもしれなかった。
(…谷の、手ぇ出すなよ)
(………)
釘を刺されて、カイは思わず棒立ちになる。
『守護者』であることで縛られる何かの決まりごとがあるかのような、ネヴィンの物言いが気にかかった。
(…だからやめとけって言ったんだ)
続くかすかな、吐き捨てるようなその心の呟きが、カイの脳裡に波紋となって揺れた。
その一瞬、泣きべそをかく小さな子供が色あせた心象となって像を結んで、脈絡もなくそれが幼き日の辺土伯の姿なのだということが分かってしまった。
長いときをともに過ごしてきた隣人に対する思い入れ……種族の垣根も越えた家族に向けるような愛情が、いままさにネヴィンのなかで彼を激しく苛んでいるのだと知って、カイは歯噛みした。
「いかん! 伯を守れ!」
ようやく異常な事態に気づいた一部の気骨ある領主たちが、自失から立ち返ってそれぞれに動きを見せた。辺土二百余柱の『加護持ち』たちは、辺土伯という宗主を要として束ねられ、いまかろうじて周辺亜人種の侵攻を跳ね返している状況にある。その宗主を一時的にせよ失うというのは、辺土そのものが危機にさらされるのとほとんど同義であった。
『尖石頭』エンテス侯は従僧のひとりに追いすがって、無手のままその背中を掴んで引き摺り倒した。
『首狩り』バハール侯は、その塩辛い胴間声で「辺土万歳!」を吠えながら広場を走った。おのれが間に合わぬと知ると、近くの領主たちを急きたてるように叱咤した。
広場の各所に時あらばと伏せていた数人の領主らが、広場に這い出して辺土伯めがけて駆け寄った。
そうして次第に堰が切れたようにあふれ出した辺土領主らが、濁流となって後背から迫ってくるのに従僧たちも気がついた。権僧都が「殉ぜよ!」と叫んで、袖の隠しから何かを取り出して口に含み、噛み砕いた。従僧らも丸薬のようなものを嚥下して、おのが信ずるもののために気勢を上げた。
権僧都を含め《大僧院》から派遣されていた僧侶は10人にも満たぬ数しかいない。そこに100を超える辺土領主たちが殺到しようというのだ、もはや結果など日を見るよりも明らかだと誰しもが思ったに違いない。
が、同じ辺土でも土地はあまりにも広大であり、領主たちのありようも千差万別だった。なかには中央と密接に交流する領主たちもいたし、血縁で結ばれた者たちも一定数がいた。それらが客としてやってきていた中央貴族たちとともに僧侶側に与したあたりから、瞬く間に広場は乱戦の様相となった。
「われは認めぬぞ! 辺土伯よ!」
カイの間近で起こった声だけに、その声は耳に響いた。
ほんの少し前までは愛娘の慶事に喜びを露わにしていた中央貴族、伯侯・コルサルージュだった。
その双眸はいまや深甚な怒りに染め上げられている。
「身の程もわきまえず天元を称すとは! 何たる傲岸! 何たる不遜!」
おのれを突きのけようとした木っ端領主を殴りつけ、押しのける。
雅に重きを置く中央貴族とはいえ、高位の『加護持ち』である伯侯の力は生半な辺土領主では対抗し得ないほどの高みにあった。
差し出した娘を『悪神』への供物とされかけた父親としては、怒り狂ってもあまりあっただろう。その周りに参集するほかの中央貴族たちも、先祖伝来の隈取を露わにして気勢を上げている。
「認めぬぞ辺土伯よ!」
「我らが父祖に御柱を賜れた聖クシャルの青き血への御恩、忘れたとは言わさぬ!」
「わが家はバルター家との縁を切る!」
「統合王国に弓引く裏切り者め!」
辺土が、揺れた。
人族同士の内輪もめが、土地神の連環を砕いた。
音もない、目に見えることもない、ただそこにある空気のように、当たり前のように辺土の人々を繋ぎとめていた輪が、そこここで断ち切れていった。
ひとつが切れるたびに、大気が震えたような気がした。カイは身の毛をよだたせた。これはけっして起こってはならない危うい兆候なのだと分かった。
(……ッ)
はっとして、カイは気配を感じておのれの頭上に目を向けた。
その小雪舞う冬の空は高く、時を追うごとに強い陽光を含み始めていた。
その灰色の雲間に、依然としてある異形の神々……その示している狂態をカイは見てしまった。人族の混乱する様に興奮したように、異形の神々が身もだえし声なき声を上げていた。
それはまるで、ご当主様の特別訓練を眺めて騒いでいる、馬鹿な雑兵たちの様子を見ているようだった。あれだけの神々に種族の恥ずべきところを見られてしまったという焦りが、冷や汗となって額を伝った。
「…雪が舞い上がっていく」
そうしてカイは、不可解な事象が起こりつつあるのに気付いた。
まるで気が付かぬうちに世界が逆さになってしまったように、州城の丘の高みから見晴るかす辺土の地表から、かすかにきらめく無数の白い輝きが静かに天へと上り始めていたのだ。その光を雪と誤認したがために、間抜けなことを呟いてしまった。
その浮かび上がる光が雪ではない、何かの燐光のようなものであると知れたのは、本物の小雪が依然として逆向きに……自然の理に沿って上から下へと降り続いているのを目にしたからだった。
人々の争いが混迷を極めるほどに、その燐光は数と勢いを模していく。その不可解な光景に誰も気付かない。いや、権僧都をはじめとした僧侶の一部は気付いたようだった。
(霊気みたいなものか)
理知的であった権僧都が悪鬼の形相で、まるで呪詛のように「背教者どもめ!」と叫んだ。
目を血走らせた僧侶たちの殺意がはっきりと膨らんだ。
カイは直感的に、その吸い上げられる燐光を、土地神の恩寵……大地の中に含まれていたそこここの土地神たちの神気なのではないかと思った。辺土領主たちの連帯が崩れ、神群としての恩恵を失ったがために、保持しきれなくなった土地の神気が揮発し始めたのではないか。そのように考えた。
そしてその考えが大きく間違ってはいないだろうという確信も同時に抱いていた。
(辺土が壊れていく)
胸の奥で、谷の神様がぶるりとおののいたように感じた。
世界がいつまでもそのままであると信じてはならない。『悪神』に恩寵をむさぼられ、腐れ果てた灰猿人たちの国のなれ果てがまざまざと思い出された。
この目に映る世界は、いくつもの要因が精妙なバランスを取ることで成り立っているだけの、実際はガラス細工のように脆くはかない、とても繊細な世界なのだ。
そのもろくも美しい世界を、護らねばならない。
『守護者』とは、そういうことなのだ。
カイは我に返ったように、世界に対しどうあらねばならないのかと、呼吸さえも忘れたように考え始めたのだった。
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