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神々が見守るなかで。
衰えつつある人族が、おのが誇りを賭けて『悪神』と戦いあう。
辺土最高の大戦士、当代辺土伯その人がただ剣となりて異形の神と打ち合い、互いの肉を削りあう。
『悪神』はおのれがいよいよ追い詰められつつあることを悟ったのか、もはやなりふり構わぬ様子であらゆる攻撃を繰り出してくる。ときに恐るべき猛火を吐きつけ、ときに呪いそのものであるおのれの体液を毒のように浴びせかけた。
『王神』たるを証明せんと前に出続ける辺土伯を、それらの攻撃から守らんと身を盾にした塞市領主たちが、ひとりまたひとりと倒れていった。
「あと2ユル!」
導く声に、ただ闇雲に従う辺土伯が、おのれの勇を鼓すように腹の底から激しく吠えた。その荒縄のごとき筋肉がよじれ、異形の剣が『悪神』の身体に叩きつけられる。
最後の塞市領主が力尽きて倒れ伏したとき、切り離された肉塊が辺土伯の剣の腹で押しのけられた。
「あと1ユル!」
もはや護る者もなく、その身をさらけ出さざるを得なくなった辺土伯と、弱点の『神石』まで肉薄を許してしまった窮地の『悪神』、その勝敗の決する瞬間が訪れたことを誰もが察した。
あと1ユル。それはもう辺土伯の大剣であるならば間合いのうちだった。
興奮した人族たちの歓声が当の辺土伯自身の耳に届いていたのかどうか。振り上げられた大剣がおのれの身に迫るのを防ごうと、『悪神』が炎を吐き出した。赤い炎に焼かれつつも闘志を途切らせなかった辺土伯の動きは止まらず、ついにその一撃が『悪神』の身を断った。
『悪神』の『神石』を。
その命の源である『神石』を破壊すれば、この災厄神は崩壊する。
先の『守護者』の戦いでその理屈を知った人族たちは、決着の瞬間に感情を爆発させた。誰も彼もが魂切れるほどに叫んでいた。
が、数呼吸ほどの間を置いても『悪神』は消え去らない。
異形の大剣を打ち込んだままの辺土伯もまた時の狭間に閉じ込められたように動かない。
噛み合わない何かに最初に気づいたのはやはりカイであった。
「その剣で『神石』は割れない! とどめは鉄剣だ!」
辺土伯の振るう剣はいにしえの名ある『加護持ち』の骨から削り出したもの。神の護りに対しての特効はあれども、その材質はあくまで骨でしかない。ただの肉は穿てども、同質の『神石』までもは破壊できない。
導き役のカイも思わぬ陥穽に歯噛みした。
『骨質耐性』を持つおのれならば、容易く『悪神』の『神石』そのものを手づかみで抉り出したであろう。が、その護りのない辺土伯にそのような力業は不可能。ゆえに求めるは鉄剣。
『悪神』の身に沈んだままの大剣から大胆にも手を離すと、辺土伯は倒れた忠良たる家臣の得物を拾い上げ、再び打ちかかろうとする。間近に迫った『死』に怯えたように、残り一本、なけなしの触手を繰り出した『悪神』。
それを素早くかいくぐり、突進しようとした辺土伯がつんのめるように転んだ。無様に転がりつつも、獣のように手をついて地を這い進む。満身創痍の辺土伯にもまた限界は迫っていた。
石畳に爪を立てるように必死に突貫した辺土伯が、長い鉄剣を突き入れる。先に埋まったままであった大剣が、『悪神』の『神石』を逃さぬとばかりに縫いとめている。
ついに最後の鉄剣が、『悪神』の『神石』を貫き、打ち砕いた。
***
「…何の故あって、人族の事情に干渉される。亜人の守護者」
「………」
「…それともラグ村のカイであった方、とでもお呼びしたほうがよろしいか」
「……黙れ」
「…ラグ村に対する注意喚起は伝えられていたのですよ。ラグ村のカイであった方。いまひとつの騒動さえなければ、もっと早くに気づけていたものを」
権僧都がつぶやいたが、カイは背を向けたままだった。
こそりと衣擦れの音がした刹那に、カイはぽつりとひとりごちた。
「無駄だぞ」
「…ッ」
カイは背中に感じた刺すような痛みに、わずかに目を細めながら肩越しにちらりと視線だけを送った。
そこには呆然と固まっている権僧都の姿があり、その手には見覚えのある法具が握られている。そのりん棒のような法具の先には、研ぎ澄まされた白い骨が突き出しており、例の『加護持ち』殺しの『密具』であることはひと目で分かった。
カイはいま『骨質耐性』を維持している。ゆえにその『加護持ち』殺しはただの骨でしかない。
「お前の仲間に痛い目に合わされたからな。やると思ったぞ」
「…この程度の『密具』では通りませんか」
「痛いは痛い。さっさと引っ込めないとぶん殴る」
納得したのかどうかはさておき、法具を懐へと仕舞った権僧都は、「アレのように愚僧も殺さないのですか」と言った。アレが返り討ちにした真理探究官を指していると察したカイは、「必要なら、そうする」と返した。その気になれば簡単なことだと言ったようなものだった。
その言いように目元を引き攣らせた権僧都は、指示待ちになっていた従僧たちに目配せをして、目的達成を優先しようとした。カイの手が素早く権僧都の胸倉を掴み上げる。
「…なにをさせるつもりだ」
「病んだ『枝』は大樹神に必要ありません」
人族の王が束ねる大神群、その名の連ねられた統合王国の社稷そのものを神体として崇める樹神教……その総本山《大僧院》からやってきた高僧は、その面に隈取を顕しつつカイの手首に抗うように手を添えた。
「神々の連帯、『神群』とは、その系統が樹状に連なることから一本の樹になぞらえられます。そして人族の大樹神は、聖クシャル王家初代を苗床として生まれ、累代の『王神』をいと太き樹幹としてここまでの枝葉を広げてまいったのです」
「………」
「人族が作り上げてきた美しいその大樹は、千年の時を得てその力の粋たる『神果』を成し、人族は更なる高みへと昇ると大マヌは伝えています。…その千年紀も間近にあるいま、一部の病んだ枝が人族の大切な神木を弱らせるなど、受け入れられるわけもありませぬ。そうなる前に、速やかに腐れた枝を落さねばなりません」
たったいま『悪神』を討ち果たし、立ち尽くすだけで精一杯の辺土伯が、無防備な背中をこちらへと向けている。激しくなるばかりの歓声のせいで、広場へと散った従僧たちの動きはまるで『無声映画』のように物音を伴わなかった。
その手に権僧都と同じく『加護持ち』殺しの『密具』が握られている。
「…ネッ」
叫ぼうとしたカイの口に、いきなり謎の塊が入り込んできて、呼吸が止まった。一瞬の油断で、権僧都が手印を結んでいるのが見えた。《僧院》に伝わるまた何かの魔法だと察したカイであったが、おのれの呼吸を止めている何かが分からぬまま、吊り上げていた権僧都を放り出していた。
なんなんだこれは。
空気の塊でもねじ込まれたのか。
言葉を封じられても、その感情までは止められない。カイの爆発するような心話が、辺土伯を慰労するネヴィンへと伝わった。
(…ネヴィン!)
はっと、顔を上げてこちらを見てきたネヴィンが、喉をかきむしって苦しんでいるカイを見つけて、表情を一変させた。
(谷の!)
(…くるな! そっちを護ってやれ!)
(…なにを……!)
手振りするカイによって、気配を消したまま忍び寄りつつある従僧たちの動きにネヴィンも気付いたようだった。
苦しさのあまり身をかがめたカイの顎を、練達した足蹴りが鋭くかち上げる。明らかにカイの意識を刈り取るための一撃であったが、生死の境でもなお勝利に執着する傭兵武術の諦めの悪さが、カイの顎をわずかにそらし、権僧都の蹴り足を担ぎ上げるタックルを生んだ。
カイの怪力に掛かれば中背の権僧都など軽々と持ち上げられる。軸足が浮いたと見るや、躊躇なくそちらの足を畳んで膝蹴りを繰り出してきた権僧都もたいしたものであったが、それが到達するよりも前にカイの力技が放たれた。
抱え上げた足を、そのまま天へと突き放したのだ。権僧都はその時点で空中で高々と一回転するはめとなり、がら空きになったその背中を掴み取りしたカイによって、地面へと叩きつけられてしまった。
がはっ、と権僧都の吐き出す呼気が聞こえた。
背中の上半分で接地した後に弾み上がったその背中に、追撃とばかりにカイの容赦ない足蹴りが襲い掛かった。跳ね転がっていく権僧都の後の姿などもはや見もしない。
おそらく権僧都の意識が途切れたためなのだろう、呼吸を阻害していた空気の塊のようなものが失われて、カイもまた飢えていた酸素を必死に貪った。
なんだったんだ? 思念でまとめた風船みたいなものか。
想像もしなかった魔法の応用方法。やはり《大僧院》にはいろいろと魔法や武術に対する先人の知恵が蓄積されているのだろう。一度ほんとうに教えを請うてみたいほどだった。
「カイッ!」
聞き覚えのある声がして、そちらを見ると白姫様がこちらへと人混みを掻き分けているのが見えた。人垣を構成している大半が質量に数倍する肉達磨ばかりであるためにその行動ははかのいかないもののようであったが……名前を大声で呼ばれるのだけはありがたくはなかった。
幸いにして従僧らの襲撃を受けた辺土伯のほうの騒ぎのせいで、気にする者がほとんどいなかったのが幸いであった。
無事であることを示すべく手を振って見せたところ、白姫様の動きが収まったのであるが……たまたま両者を結ぶ直線上にいた中央貴族の姫君と目が合って、なぜかはにかんだように手を振り返されてしまった。なぜかこちらにも覆面しているのに正体がばれているようだった。
なぜに?
同じく手を振ってきたヨンナの姿も見えたが、こっちについてはさしたる感傷もなく、少しお話しようかと思うカイであった。
更新遅れまして申し訳ありません。
出来に納得できなかったのもあるのですが、リアルが引っ越し作業の渦中にありまして…
引越しと言っても多治見在住は変わらないのですが(^^;)
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