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『悪神』が、地上に解き放たれた。
そうなる前に討ち果たすことができなかったおのれを歯がゆく思いつつ、それでもあれを滅ぼすことができるのはこの場におのれしかいないという思いが、どうしようもなくカイの心を高揚させる。
吐く息が熱い。
胸を打つ鼓動がどんどんとその速さを増していく。
『悪神』を一刻も早く殺さねば。
『悪神』がこの世にもたらす深刻な不利益を思い返すだけで、おのれがいままで隠し通してきた谷の神様の恩寵が白日の下にさらされる危険さえも度外視して構わぬという思いになる。
灰猿人の領域に現れたあの『山椒魚』は、おびただしい呪いを振り撒いて広大な土地を腐らせ、何千もの灰猿人の戦士を無残な血肉に変えた。この辺土の中心にある人族最大の都市、州都バルタヴィアの住人が灰猿人の主邑のそれに劣るはずなどなく、もしもそこにあの『悪神』が解き放たれたならばどれほどの被害がもたらされるのか……なまじ前例を知っているものだから、カイのなかに迷いはなかった。
(…束になったからって、二齢三齢の『加護持ち』程度でどうにかできるのか)
引き止められて思わず立ち止まってしまったものの、先行する辺土領主たちがあの『悪神』を押さえ込むことができるのかと自問して、あっさりとそれは難しいと断じた。灰猿人の『加護持ち』たちだとて完全に攻めあぐねていたのだ、種としての身体能力に劣る人族がその難事をなしえるのかと思った。
『悪神』の体皮はひたすらに頑丈であり、鉄の槍ですら易々とその護りをこじ空けることはできない。鋭利な鉄の武器を持ち、なおかつそれを貫き通すための相応の並外れた膂力が必要とされるだろう。
そしてあれの息の根を止めるためには、体内のどこかに隠されている悪神の御霊のおわす座所、『神石』をとらえて確実に破壊せねばならない。『神石』さえ叩くことができれば、『悪神』の受肉体は文字通りに裏返る。そして理さえも捻じ曲げているのだろうその仮初めの身体は、本来の姿を取り戻して弾け飛ぶ。
それをなしえたときの瞬間を想い、興奮に身震いする。
(やっぱり、オレがこの手で)
『悪神』に深手を与えられるかもしれないのは、州都に来て幾人か目にすることとなった高位の『加護持ち』たち……たとえば大きな町を治める大領の土地神を宿した者たちならばあるいはと思う。
『四齢』という枠に収まらないご当主様さえも打ち負かした塞市領主もいたというし、中央から来賓した強力な加護を持つ貴族たちだっている。
倒し得る可能性というだけならばそれらの者たちがいれば事足りることになるのだが、カイはやはり能力が未知数の他者にすべてを預ける気にはならなかった。
(…討ち滅ぼせ!)
カイは走り出していた。
白姫様がおのれの名を呼んだのは聞いていた。いまひとりの中央の姫が、気遣うように送り出してくれたことも分かっていた。男という生き物は本当に至極単純にできていて、たったそれだけのことでいつにも増した力をカイは感じた。
大霊廟の鉄の大扉に身を隠そうとしていた幾人かの『加護持ち』たちが、無紋のまま飛び出していくカイの姿に「止まれ!」「死ぬぞ!」と声を投げてきた。身の程を知れと言いたかったのだろうが、カイは聞こえぬ振りをして無視した。そうして大勢の『加護持ち』たちで渋滞を起こしている大扉外の50ユルほどの長い廊下を掻き分け、ついに朝焼けの光がにじむ建物の外へと飛び出したのだった。
はっ。
呼気が一瞬にして白い煙となった。
冬の外気が全身を一気に包み、うっすらと汗ばんでいた肌をきゅうっと締めた。大勢の『加護持ち』たちが掛け声とともに武器を突き掛けている様子が見えて、その危うさに舌打ちしつつも心躍らせて、人混みを迂回するように広場の外周を駆け抜けた。
対『悪神』戦、最前線…。
(なんだこれは)
カイはもはや言葉すらも忘れ果てて、その場に現出しつつある惨憺たる様を見つめていた。
崩れた瓦礫で足元はすこぶる悪かった。どうやら大屋根から這い下りてきた『悪神』が、その巨体で手掛かりにした州城の尖塔のひとつを突き崩してしまったらしい。
そこは前日に奉納試合とやらが行われたという一ノ宮前の広場だった。辺土二百余柱の神々の像が、立ち向かう領主たちに混じってしまって人数がかさ上げされたように見えた。
すでにして、死屍累々。
一ノ宮の長廊下に飛び出したはずの領主たちが大混雑になっていた理由がこれだった。何も考えずに『悪神』の攻撃に触れてしまったのだろう。
『悪神』はただ触れるだけでこの世のものに呪いを為す。土地を腐らせ、生けるものの魂を削る。
辺土の領主たちに先祖の『戦訓』は残されていなかったのか。あまりにあっけなくこうむってしまった大被害に、たいした加護も持ち合わせていない領主たちが足をすくませてしまったからとて責められはしないだろう。
背を押されることを嫌って最前列の領主らが足を踏ん張る中、それを強引に押しのけて広場へと躍り出たカイは、足元に横たわっていた2、3の領主たちを掴んで放り投げて、「まだ死んでない! 連れ出せ!」と叱咤した。カイはうろたえる彼らを眼差しで引き止めて、『悪神』に魂を刈られた者の蘇生方法……『気当て』を説明する。要領を得ない彼らに、「分からないなら御技使いを呼べ!」と声を荒げた。
そうして伝わったのかどうかも見届けぬままカイは『戦場』へと歩を進め、おのれの高ぶる感情を気息とともに鎮めていった。
(…ひどいけど、戦えてるのも少しはいるのか)
自慢の得物を振り回し、てんでに『悪神』に挑みかかっている馬鹿な腕自慢が多い中、自然と気心の知れた領主同士で隊伍を組み、集団で機動戦を行っている者たちもいる。なかには『悪神』のバッドステータスを心得ている者もあるようで、注意を促しつつ慎重に隊伍を率いている者もあった。
なかでも獅子奮迅の活躍を見せている、とがった禿頭の領主は『四齢』ほどの神紋をその面に顕し、歯をむき出しにして戦いに没入している。
カイが名前も知らぬまま眺めているその主力領主は、ヴェジンが奉納試合にて指名を受けた辺土西方に武名の高い『四齢』領主、『尖石頭』エンテス侯であった。得物は鉄塊の先を尖らせた大振りな戦鎚で、その一撃は『悪神』の強固な体皮をものともせず深くまでめり込んだ。
ほかにも際立った動きを示している者たちがいて、巨大な肉切り包丁のような斧を『悪神』に叩きつけているひげもじゃの領主や、鋼鉄の手甲をたくみに操って拳打で暴れ続ける痩躯の覆面した領主もいる。彼らにもまた『首切り』や『蜂刺し』などと二つ名で呼ばれているのだが、それもカイの知るところではない。
ただ、名を知らずとも『悪神』と打ち合える猛者がちゃんといたというだけで、その力強さ、頼もしさにカイはぶるりと身震いした。
そのとき戦闘に参加できずに留まっていた領主たちが、わぁっと歓声を上げた。余所見をしていたカイは少し驚いて、飛んできた触手を素手で払いのけながらそちらを振り返ってしまった。
「辺土伯様!」
「やった!」
「あれこそ『王紋』の主たる証よ!」
『悪神』が大きく跳ね上がったと見えた刹那、千切れ飛んだ触手が幾本か宙を舞った。そこには以前とは変わり果てた隆々たる体躯の辺土伯が剣を構えていて、その興奮の爆発したような雄たけびにさらなる歓呼が広がった。辺土伯の顕している複雑な隈取を見て、カイはそれがネヴィンの言っていた『祭祀』のもたらした恩恵なのだということをすぐさまに察した。外側の神様から掠め盗った力を得ることで、この州城の主、辺土伯侯バルターは『加護持ち』としての階梯を強引に数段上ったのだ。
辺土伯は傷を受けた様子もないのに顔をぬぐうようにして、さっと払った。
わずかな量であってもカイにはそれが見えて、鼻血をぬぐったのだと知れた。
辺土伯を最大の脅威と見て取った『悪神』は、触手の大半をそちらへと振り向けて一気に叩き潰そうとしたものの、そのすべてがはじき返されてまた致命的な隙を作ってしまう。辺土伯の周りにはこれまた高位にありそうな『加護持ち』たちが陣を作っており、それらの得物が盾となって一筋たりとも触手を見逃すことがなかった。
彼らが辺土伯家の股肱の臣、『北方の聖冠』と呼ばれる者たちであった。『青玉』、『翠玉』『紅玉』『紫玉』『白玉』……五つの輝石の名を持って呼ばれる塞市領主たちは、他の辺土領主とは一線を画すほどに緻密な隈取を持っていた。
そうしてまた始まった辺土伯の力に任せた乱打の嵐。
いかに頑強な『悪神』の体皮とて、その圧倒的暴力の前では解体を待つ無力な家畜でしかないようだった。『悪神』の黒々とした肉が切り刻まれ、墨のような体液が飛び散るさまは、カイをして圧巻と思わせた。
まさに絵に描いたような力押し。それでもしも削りきることができたならば、それはそれでひとつの『悪神』攻略手段なのだなと納得さえしたかもしれない。
もっとも、それによって『悪神』が力を失っていったのかといえば……そのようなことはほとんどなかった。切られた端から肉片たちは、本体を求めて地べたを這いずっている。再合流を果たし続ける『悪神』に、質量的な損耗はほとんどないといってよかった。
(『悪神』は『神石』を割らないと倒せないにの)
そんな単純な理屈が分からないというのか。
そのときどこからともなく叱咤の声が響いた。辺土伯相手にかかりきりになった『悪神』からの攻撃が途絶えて、手空きになったカイはその声の出どこを探すゆとりがあった。
(…あいつは、なにをふらふらと)
空には、小さく舞い踊っている白い羽虫のはばたきが、朝日を浴びて輝いている。その同胞たちの歓喜の舞を見守っていたのだろうネヴィンが、下界の戦いになど興味も示さずに、ただひたすらに巣立った同胞たちを導くべく盛んに声を送っているのだ。
そしてたまたま目にしてしまった、種としての限界。
土中に長くもぐる虫が、播種のために空を飛び、交尾する。ネヴィンはもしかしたら、同胞たちがどこか新しい土地に旅立ち、そこに子を産み広がらせることを願ったのかもしれない。
が、その望みがかなうことはなかった。
ある高空にまで達した羽虫たちは、まるでそこに至ったことに満足するように羽ばたくことをやめてしまったのだった。
ゆっくりと落ち始めた同胞たちをネヴィンが救い上げようと飛び回る。が、そのすべてを抱えられるほどネヴィンの腕は大きくも長くもなかった。零れ落ちた白い羽が、まるで大きな雪片のようにひらひらと州城へと降っていく。
数匹の同胞を抱えてただ受け入れがたい現実に呆然としていたネヴィンが、次の瞬間にしのび泣くようにせぐり上げだした。その子供のような泣き声に、カイは眼差しをそらすことしかできなかった。
ネヴィンの種は、滅ぶのだろう。
ただその避け難い過酷な事実だけが、カイの胸に落ちた。
(ひとつ間違えれば、あれは人族の未来の姿だ)
この世界に定められた仕様。
それは現支配種にのみ優しく、敗者に厳しい。
(人族は、弱ったさまを神様に見られるべきじゃない)
わぁ、と声が上がった。
辺土伯がまた何か派手なことでもしたのだろうかと思った。
カイは足元に落ちていた、おそらくは倒れた領主の持ち物だったのだろう毛皮を縫い付けられたたっぷりした帽子を取った。そうしていまひとつ拾った布の切れ端で口元を覆った。
これだけでごまかせるとは思わない。が、神紋の程度ぐらいならば隠せるはずだと思った。
この程度の敵など圧倒して見せよう。カイは『悪神』の身体に突き立ったままになっていた槍に手をかけ、そして無言で引き抜いたのだった。
いろいろなキャラクターの別視線から書こうとして没シュートし続けてしまいました。
求められてるのはやはり主人公目線のシーンだろ、と。
感想お待ちしてます(^^)