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不意に、地揺れがやってきた。
州城の建つ丘そのものが鳴動するような激しい揺れに、大霊廟の騒動は完全に鎮まってしまった。『震源』が深い地の底から這い上がってくるのを直感的に察した『加護持ち』たちは、それが王たるを宣した辺土伯の後背にある神像の裏側を登り、ついにはその天井にまで達したのをはっきりと知覚した。
そうして再び起こった、今度は州城を横に揺らすような激震。
鳴動は州城の大屋根を覆うように広がっていき、少なくない壁材の剥落が群れ集まる『加護持ち』らに降りかかった。それらを手で振り払いつつも、辺土の『加護持ち』たちは『震源』の向かう先をただ固唾を呑んで見送っていた。
何か恐るべきものが地下から這い上がってきて、いま州城の屋根の上を這い進んでいる。それはけっして看過してよいものなどではなく、人という種族がその存亡をかけて討滅せねばならない『災厄』そのものだということを無言のうちにみなが悟っていた。
最初に動いたのは、やはりというか『王紋』を顕した辺土伯その人であった。
辺土の人々が憧憬を抱くしかない圧倒的力を体現した辺土伯は、わずかに下の祭壇までの短かな助走で、一気に群れ集まる領主らの厚い人壁を飛び越えて、ましらのごとく外へと飛び出していく。その蹴り足の力強さを示すように、着地点の巨大な絨毯が後ろへとまくれ上がる。
誰かが「辺土伯様に続け!」と叫ぶと、うねりのごとき喚声が広がり、戦意をみなぎらせた辺土領主らが大霊廟から溢れ出し始めた。それはもはや止められぬ濁流のようなものだった。
祭壇の縁に取り付いていたオルハは、大いなる『敵』を前にした激しい高揚に心を震わされつつも、行方知れずとなった妹ジョゼの救出を優先すべきだという理性と板ばさみになって、少なくない時間思考停止に陥っていた。その遅滞が解消したのは、おのれの足元にまでやってきた父ヴェジンが、「早く行け!」とおのれも祭壇へと登り始めたからだ。父をとどめていた『紅玉剣』ルフト・ガラは、主である辺土伯の企みが成就したと判断したのか、申し訳なさそうに首をすくめてこちらを見送っている。その後ろにオルハには名の分からない、かなり神格の高そうな『加護持ち』らが何人か立ち、ルフト・ガラを促して主の消えた外へと歩き出そうとしているのが見える。それらはもしかしたら伯家の屋台骨を担う『北方の聖冠』、塞市領主たちなのかもしれなかった。
父の視線に背中を押されて、祭壇へと這い上がったオルハであったが、しかしそこで権僧都に行く手を阻まれて立ち往生する。
「…もはや必要ないようです」
『百眼』で地下の様子を見ていたに違いない権僧都が、みずから穴の縁から退いて、誰かに道を空けようとする。見れば、さきほど投げ下ろした縄が、何者かの重量にきしんで揺れている。誰かが下から登ってきているのだ。
そうして現れたのは、やはりというかうちの『殻つき』だった。そのすぐあとに見えたのが姿を見失っていたふたりの姫たちで、彼女らは『殻つき』の背に腰帯でまとめて結わえ付けられ、荷のようにして揚げられてきた。
女性とはいえ人ふたりを担ぎ上げてきたというのに、ほとんど息も切らさず登り切った『殻つき』は、姫たちを降ろしつつ時を惜しむように権僧都に問いかけた。
「奴はどこに」
その言わんとすることを察した権僧都は、その頭巾を取りながら「いまはまだ屋根の上のようですね」と答えた。
『殻つき』は乱れた服を手早く調え、腰帯をきっちりと締めなおしてから早速とばかりに祭壇から飛び降りようとした。それをとどめたのは後ろから肩を掴んだ妹のジョゼであり、反対側の袖を掴んだヴァルマ家の姫だった。
ジョゼが大霊廟から出て行こうとしている大勢の辺土領主たちを示して、「あなたは少し休んでよいのです」と、利かん気な子供を諭すように言った。
ヴァルマ家の姫フローリスは、「あなたはここにいなさい」と言った。ともに疲れ果てた顔をしているふたりの姫が、『殻つき』に親愛の情を示しているのに気付かぬほどオルハも鈍くはなかった。地下深くで尋常ならざる死地を潜り抜けた彼らに、通い合う何かが生まれたのだろうことは想像に難くなかった。
権僧都もまた、何か思うところがあるのかその素顔を明らかにして、「あれはなんなのですか」と、暗に屋根上を目配せして、国でも有数の有識であるにもかかわらず無知のきわみである辺土生まれの子供に問いただそうとしている。
隈取を顕した権僧都は、驚くべきことに『三齢神紋』を顕していた。土地神の加護なくしてオルハが失った『三齢』の高みにこの僧侶は立っているのである。
『殻つき』は権僧都の眼差しを少しだけ嫌がるように、目をそらした。
そしてポツリと、
「…『悪神』だと思う」
そう答えたのだった。
そのわずかな問答が、オルハの中に浸透するまでにいささかの時間を要した。むろん『悪神』について、オルハもまた『加護持ち』ならば知っておくべきこととして学ばされている。存在する だけで土地に呪いを撒き散らす災厄神は、見つけたならばいち早く討滅せねばならない。
いつどこで、どのようにしてそれが姿を現すのか……その出現の兆しは、土地の支配が乱れたときとされている。次代のモロク家を背負う者として、領主教育の一環としてオルハはそのように教えられた。
(…なんであいつが知っている)
人族の国に『悪神』が現れたことなど、数十年単位でなかった。その起こった当時ですらそれは広大な王国のごく一部での騒動に過ぎず、『悪神』を直接目にした者などそれほどの数もなかったろう。
それなのに、あの『殻つき』は、まるで実際に見てきたもののように語った。ただの村人ならば、『悪神』という言葉すらも知りえないはずだというのに。
「…やはり《僧会》の預言に間違いはなかったということですか」
権僧都は沈痛な面持ちで胸元に印をきると、この穴の奥がどうなっているのか、そこで何が起こったのかを根掘り葉掘りしだした。『殻つき』はまくしたてる高僧に引っ立てられて、祭壇の隅のほうへと連れて行かれてしまった。
オルハは祭壇上へと這い上がってきた父とともに、無事救出されたジョゼを囲んで喜びを分かち合った。ヴァルマ家の姫のほうも、居残っていた家人たちが集まってきて笑顔をこぼしている。
「…おい、邪魔だ、どけ」
穴が開いてただでさえ狭い祭壇上に人が大勢いるものだから、最後に上がってきた辺土伯家の公子アーシェナが上がるに上がれず、癇癪を起こして何人かの足をこぶしで叩いてきた。が、この場には辺土伯家に迷惑をかけられた者たちしかいなかったために気遣われず、しばらくわざと邪魔されていたようである。ようやく上がってきたその姿は、貴公子としては残念なほどに土まみれであった。
誰も構ってくれないので自分からふたりの『婚約者』へと近付き、声高におのれをアピールし始めたがすげなくされ、しお垂れたように伯家の衛兵らに合流して引っ込んでいく。その恨めしげな視線が『いいとこ取り』したらしいうちの『殻つき』に向けられていたので、オルハはやっかいなとため息をついた。
なにやら妙な感じがする。
権僧都の質問攻めにたじたじとなっている『殻つき』が、見たままの人間ではないのではないかという思いつきに胸がざわざわとした。
地下がどのようになっていたのかをオルハは知らない。そこで『悪神』と対峙したのだろう『殻つき』が……たかが『無紋』ごときの力で『悪神』と渡り合うことなどどだい無理があったろうし、どう考えても『人身御供』にされた姫ふたりをやつが護ったなどとは信じ難かった。
そう結論付けたいおのれがいる一方、父と会話するジョゼのときおり送る視線が『殻つき』を見ていること……それが明らかな信頼と好意を含んだものであることが、『殻つき』の働きがひとかたならぬものであった確たる証明になっている。
女は強い男に惹かれるものだ。
ヴァルマ家の姫もそうだ。彼女も本来の『婚約者』になど見向きもせずに、ちらちらと『殻つき』を盗み見ている。村で多くの女たちにちやほやされることをいつもわずらわしいとしか感じなかったオルハであったが、いまこの場で牡として『殻つき』に負けてしまっているのではないかという不安を覚えて、らしくない苛立ちに囚われていた。
いまとなっては『試しの門』にすら梃子摺ってしまう『二齢』のおのれが、宴に群れ集う辺土領主らの中で埋没せざるを得ないのに対して、女の目を引き寄せることに成功した『殻つき』とはいったいなんなのだろう。やつは『二齢』どころか『無紋』にしか過ぎないというのに、意味が分からなかった。
そのとき、また大霊廟がどーんと大きく震えた。
何かが崩れ落ちる轟音と、わあっという人の喚声。出ていったはずの辺土領主たちの一部が、転がるように大霊廟へと駆け込んできて、頑丈な鉄の扉を盾に身を隠した。ばらばらと逃げ込んでくる領主の中には、早く扉を閉めろとわめく者もいた。
「間違いねえ! 『悪神』だありゃあ」
「なんだって急にこんなところに!」
「触っただけでくたばっちまう! 無茶だ」
大声にして吐き出すことで気持ちを落ち着けているのだろうが、あまりにその顔色が悪いことに、外の戦況が芳しくないことを察さざるを得なかった。
知識では教えられていた。
『悪神』は触れただけで土地を腐らせる。
それは土地神の恩寵の化身と言ってもいい『加護持ち』たちの在りようをも腐らせ得ることを意味している。つい先日に亜人どもによって土地神の墓を辱められ、神格を落としたオルハにとって、それは恐怖に値する話であった。
「空に変な白い羽虫も飛んでいやがるし、なんなんだありゃ」
その瞬間、『殻つき』が走り出した。
目の前にいたはずの権僧都が、『殻つき』を瞬時に見失って棒立ちになっていた。
なぜか値踏みするような目でやつを見ていた父が、面食らったようにその飛び出した背中を見送った。
ジョゼが叫んだ。
「カイッ」
『殻つき』の名前など呼んでやる必要もないのに。
「カイ!」
ヴァルマ家の姫もその名を叫んだ。
そのふくよかな唇が「ご武運を」と、無言の呟きを洩らしたことを、オルハは見たのだった。
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