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守護者ネヴィン。
地吹雪の名の由来をカイは察することとなった。
蝶のような白い羽根をひらひらとさせながら、ネヴィンは空中から打撃を繰り出してくるのだが……そのさまがもう果てしなく常軌を逸していた。
ふつう蝶なんてものはそよ風にも流されてしまいそうな軽量で、ふわふわと浮かんでいるだけのようなものであるのに、ネヴィンはカイの目をもってしても像がぶれるほどの高速機動を行い、思いもかけぬ視野の外から襲い掛かってくる。そしてその拳が乗せてくる勢い自体も、足場のない空中からのものであるとはとうてい信じることのできない強力なものだった。空中に浮かんでいる人間がどれほどの豪腕を振るおうと、反作用を受け止めるものがなければその勢いはほとんどが逃げてしまうはずなのに、当然の理屈が通らない。
(それも魔法か)
おのれの姿を光学的に消してしまうなどの『魔法』をネヴィンは使っている。神格の高い大神の加護を得た『加護持ち』ほどその霊力は潤沢であり、ただ垂れ流すだけではもったいないという状況になりやすいのだと思う。
とくに種族特性からして他者よりも非力に生まれてしまった者にとって、強者に打ち勝つ必要に駆られてしまった場合、カイのように別途の特殊な運用……『魔法』のような使い方に流れるのはある意味当然であったに違いない。
人族は非力であったが、この蝶のようなか弱げな姿に生まれついたネヴィンには、なおさらそうした他者よりも優れた何かが必要であったのだろう。
ネヴィンが動くたびに、ブッ、ブッ、と、風を叩くような音がする。姿かたちからどうしても油断してしまうのだけれども、その動きは蝶というよりも蜂のようだった。体術にもかなり通暁しているようで、カイの防御を片手で巧みにはじいて刺すような一撃を放ってきたり、関節の脆い部分を的確に壊しにきたりする。
そうして少しでも防御が偏ったりすれば目にも止まらぬラッシュが襲い掛かってくる。
カイはそれらを何らかの『魔法』を背景とした攻撃であると見極めたが、直接的な攻撃が打撃だけであることをして、これは『加護持ち』同士ならではの『どつき合い』なのだと暗黙のうちに受け入れていた。ゆえにカイは『剣魔法』などの致命的な魔法を使わずして、草試合と同じおのれの肉体ひとつで戦いに応じた。
右に左に拳を食らいながらも、カイは拳を繰り出す。足繰りで円を刻みつつの左右連打のあとに、下方から右手一本でネヴィンの足を掴もうとする。それにネヴィンは宙返りの回し蹴りで応じてきた。伸ばした右手が蹴りで下から掬い上げられ、胴体ががら空きになったところに白いしぶきが突如カイの目を襲った。
それがネヴィンの種族特性に根ざした攻撃……羽根の鱗粉で目潰しを食らわせるものだと気付いてカイが「ずりぃぞ!」と怒鳴ると、馬鹿にするようなせせら笑いが返ってきた。
「ずるいって、馬鹿だろおまえ」
「くそっ、なら見てろ!」
カイは目に入った染み入るような痛みを、手のひらから溢れさせた『水魔法』ですぐさまこするように洗い流した。そうして現出した水を腕を振るようにして、一瞬にして霧へと変えた。ミストの目くらましだ。
泡を食ったネヴィンの子供のように小さな足が、ついにがら空きとなった。カイはその細い足首を掴んで、いまだ動きが緩慢な『悪神』の身体に遠慮なく叩きつけた。会心の一撃であったが、手元に伝わる感触がおかしい。まるでクッションにでもぶつけたようにその身体が柔らかく跳ねて、ほとんどダメージのなかったネヴィンは掴まれていないもう一方の足でカイを刈り取りに来た。気付いてかわしたものの側頭部の上あたりをこするように蹴り抜かれたカイは、首を盛大に揺すられて、あっさりと朽ち木のように倒されてしまった。
意識を失ったのはほとんど一瞬のことだった。地面に打ち付けられた瞬間に目覚めて、身体を回すように転がって起き上がる。その回避行動が、ネヴィンの致命的な追い討ちからカイを救う。
いまの不思議なクッションも『魔法』であるに違いない。
そもそもネヴィンの空中移動もあの見た目にも大きい柔らかな羽根で行われたものとはとうてい思われない。羽ばたくというようなものではなく、むしろ突風を受けた『帆』のように張り詰めて…。
「風の魔法か」
「まあオイラたちの基本の『呪』だかんなー」
空中の急激な機動も、攻撃のときの足場固定も、風の力を利用して行われていたものらしい。理屈はたぶん、さっき試した『土魔法』と同じようなものなのだろう。
ネヴィンはおのれの背後にある一定の領域を『魔法』により支配し続けているのかもしれない。その都度、局面においてその目には見えない『気体』を最大限使い倒しているのだ。
『剣魔法』はともかく、ほかの『魔法』は解禁したほうがよさそうだ。
カイから発される霊気が高まったのに気付いたのだろう、一定の距離をとったネヴィンはカイの動きを見つつすばやく周囲に目線を配った。
反射的におのれ側の弱点ともなりうる、白姫様ら他の『供物』たちの居場所を捜しているのかと身構えたカイであったが、麻痺から回復し動き出した『悪神』の一体と、すり鉢の底で再び這い上がろうとしているもう一体を見て、ネヴィンは苦々しげに表情を歪ませたのだった。
「…だめだ、まだ早い」
カイの耳にも、底のほうで始まった騒ぎが伝わってきた。
底にまで落ちて、再び這い上がろうと蠢いている『悪神』と、壁をぎっしりと埋めている白い繭玉。
『悪神』が身じろぎするだけで孵化前の繭玉はつぶれて、中の体液を飛び散らす。まだ動いている幼虫たちは『悪神』の興味を引いたのか、片端から食われ始めた。散々同胞らを食われた後の、悪夢の繰り返し。
いち早く繭玉となっていた一部が、孵化を急いで繭を破りだした。
「まだ『出口』が開いてない、待って…」
目を見開いて呆然とするネヴィン。
その浮かぶ足元では休止していたもう一体のほうの『悪神』が再び登坂を開始する。おのれたちを殺しうる強力な『敵』の存在を認めたその『悪神』は、もはやカイたちに目もくれずにどんどんと上へと這い上がっていく。
ネヴィンのいう『出口』とは、あれのことなのか。
カイが見上げた地下世界の天井には、かつて穴があったと思われる形跡のようなものが薄らぼんやりと見える。大きな石で蓋をしたようなその穴は、わずかな隙間にもレンガがきれいに敷き詰められ、何者かにふさがれたかのような気配を持っている。
むろん大きな石とて『悪神』の力にかかれば砂岩を砕くように簡単に粉々にされるだろう。その上に敷き詰められたレンガも、底蓋が抜ければただ下に落ちるしかない。そうすればそこにネヴィンの言う『出口』が現れるというのか。
気付くと、目の前からネヴィンが消えていた。
地下で暴れている『悪神』から同族を守るために向かったらしい。
その白い姿は、しかし地下から湧き上がってきたたくさんの『白い蝶』の群れにとどめられてしまう。下へ向かおうとする自身とは真逆の方向へと羽ばたいていく蝶たちに、ネヴィンは「待って!」と何度も叫んだ。
言葉が通じていないのが傍目にもはっきりと分かった。白い蝶の群れはネヴィンのことなど一顧だにもせず、地下世界の天井を目指して舞い上がっていく。ネヴィンの「まだ早いから!」と泣き叫ぶ子供のような声が殷々と響いた。
『悪神』が天井の穴を崩しだした。
まず蓋の大岩が砕かれ、箍がはずされるや大量のレンガが崩れ落ちてくる。『悪神』はただ首を引っ込めるようにしてその落下をしのいでいたが、無防備にふわふわと飛ぶだけの白い蝶らは次々と落下物の餌食となり、悲鳴を上げながら花びらのように落ちていく。
そうしてその光景を眺めているカイたちに見向きもせず、底から這い上がってきたもう一体がものすごい勢いで上り詰めて、上にいた『悪神』とぐちゃりと融合した。
きれいな羽根が、きらめく鱗粉とともにひらひらと落ちてくる。
羽根だけではない。片羽根となった赤ん坊のような胴体つきもなかには混じっている。キュウキュウと上げる音は彼らの泣き声であるのか。カイの足元にもそうした赤子が泣き叫びながら転がってきたが、足にしがみついたその虫人がネヴィンとは似ても似つかぬ……全身を毛で覆われた虫であることに気付いて、カイの中に湧き上がろうとした憐憫はあっけなく霧散した。
人は、人とあまりにもかけ離れた存在に共感を覚えることはほとんどない。興味を覚えることはあっても、たいていそれは犬猫にかける愛情とは別種のものとなる。
ネヴィンはもうただひたすらに頭上を見上げ続ける。
いまだに生きて羽ばたいている同族たちの姿を祈るように見つめるばかりである。その数がわずかに数匹となったころ、ついに『出口』は開いた。
「…おまえの一族は、『人』じゃないのか」
カイは言った。
そのあまりに歯に絹を着せぬ率直な言葉に、ネヴィンは目も向けることなくぼんやりと応じた。
「おいらたちが『人』だったのは、もうずっと、はるか昔さ」
開通した穴から朝焼けのうっすらした光が差し込んできていた。
わずかな光でも、この無明の闇では十分な強さに感じられた。生き残りの数匹が『悪神』たちの出て行った穴にあとから進入していき、その羽ばたきにちらついていた外光が、しばらくするとただの静かな光となった。
「だんだんと知恵をなくしておいらの種族は馬鹿になっていった。負け組の、用を為さない老いぼれた種族は、神様に知恵を奪われる。この世界は昔からそういう仕組みなのさ」
「………」
「子を産むたびに『衰亡種』はどんどんと馬鹿になる。おいらの種族も、ほんとの虫みたいな子供ばっか生まれるようになってった。神様にとって役立たずな見捨てられたやつらに、人がましさなんざ必要ないんだろーさ」
なにを言っているのかわからなかった。
『ヤフォーリ』というのが、ネヴィンの属する虫人の種族名であるのか。
「おいらは種族を守るために抗った。『白翼人』はこの地の『大神』を持っていたから、人族の大軍がやってきても何とか凌ぎきった……地下に巣があったから、最初の『バルター』もすぐに根切りを諦めてなー」
「ネヴィン」
「おいらたちはその前の《波》も越えてきてるんだ。すげーだろ。おいらたちだって地表で生活してた頃があるんだぞ。そんとき『負け』て、おいらたちは土地を捨ててあなぐらで繁殖するようになった。…たぶん、そんとき間違ったんだ」
ネヴィンが、カイを見返していた。
カイもまたまっすぐに古き種族の生き残りを見つめていた。
ネヴィンの目から、雫が滴った。
「…おまえらが飼って肉にしてる家畜らもなー。…もともと『人』だったんだぜ。おいらたちと盟友だった誇り高かったやつらもいるんだぞ。ほんと……情けねーっつーか、無残だよなー」
はらはらと、古き守護者は泣いた。
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