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(…この世界の『魔法』は、術者の強い『願望』でできている)
谷の神様が与えてくれる恩寵に『蓋』をするのを止めた。
大神たる谷の神様の宿るおのれの『神石』が暖かな熱をまとった。
とたんにあふれ出してくる膨大な量の霊力が、カイの体内を荒れ狂う暴風のように波立ちながら満ちていく。どんな無茶な願望だとて実現できるのではなかろうかと思ってしまうほどの力感に包まれつつも、カイはその『総量』を冷静にイメージの中で数量化する。川を見て「たくさんの水が流れている」としか思わないだろうこの世界の人族のなかにあって、カイはその川のことを「秒間何十トンの流水」と定義しうる知性を備えた異質な存在であった。
当然のことながら、どれほどの湧出量を持とうと谷の神様からもたらされる恩寵にも歴とした上限のようなものがあり、カイは安易な『全能感』に囚われることなく、それを『魔法』として交換しうる『燃料』ぐらいに考えて、その適切な運用方法にこそ意識の多くを割いた。
(…魔法は意外に燃費が悪い。小出しに試しつついくか)
鎧武者にまやかしよと嘲笑われたことがあった。
ふわふわと夢のような思い付きで『魔法』に期待をかけていたあのときのおのれはもういない。
人族が『御技』といい、亜人種らが『呪』と呼んだ霊力の活用術、自身が『魔法』と解釈している個の霊力を原動力とする不可思議現象は……神のご加護の融通無碍さを前にすれば戦局をいくらか有利にするだけの『手品』の類だと豚人族の偉大な戦士は言った。その言いようは、半分当りで、半分ははずれていた。結局その偉大な戦士はカイの編み上げた『剣魔法』で命を散らしたのだから、生半可でさえなければ通用しなくもない……そういう技術であるのだと現状カイは理解していた。
(たぶん、見間違いでなければ降りた神様は3体……混ざり合っているのかはわからないけれど、正直きつそうだ)
だからすでに躊躇は捨てている。いかに『魔法』を使い倒そうかと計算している。
どんどんと奥底から姿を露わにしている巨大な『悪神』の姿に対して、抗いうるのはカイひとりのみ。効果がしかとあるのなら魔法でも何でも、おのれに許されたすべての力を振り絞るべき局面だった。
(例えば……『土魔法』)
青い熾き火の波濤が視界に迫ってくる。その際限なく膨れ上がり続ける身の毛のよだつようなおぞましい存在が、立ちはだかるカイに無数の触手を鋭く伸ばしてくる。それらを間に合う限り払いのけ、切り飛ばす。しかしいささかのことでは痛痒も感じないのであろう『悪神』は、おのれの一部が切り裂かれることも怖れずに、肉を切らせるその隙を突いてカイの四肢に触手を巻きつかせた。
そうして引き寄せようとする恐るべき力に抗うだけで精一杯となったカイの真横を、いく筋もの触手が通り過ぎていく。むろんそれは穴のなかに潜んでいるほかの『餌』を喰らわんとするものだった。
やはり圧倒的に『手』が足りない。
『魔法』が必要だった。
背後の穴の中には掘り出した土砂でうまい具合に防塁が出来上がっており、その奥に身を潜めている白姫様らに盲攻撃などすぐには当たらない。大半は土を抉るだけでむなしく引っ込んでいく。
が、それでもたまたま隙を突く格好となった触手は穴の奥へと到達する。カイの事前注意を守っているのか白姫様らは直接の接触を避けて、防塁の隙間から石飛礫で反撃を試みている。感覚器官らしきものにまともに食らったのか、その触手が慌てたようにたわんで引き返してゆく。それを追うように石ころがいくつも投じられて転がっていく。
たったひとつの触手を撃退しただけで気勢を上げている3人があまりにも危うい。触手と命懸けの綱引きをしながら、カイは試みを始めていた。
(…穴をふさぐ)
背後の穴をいじるイメージで、カイは『土魔法』を編み上げる。
あらん限りの『土』に由来する知識とイメージを膨らませて、そこに霊力を落とし込もうとする。
微細な鉱物と水、そして雑菌のこね合わされたその様態。
関連して思い起こした村の畑の耕された土。
それは手で捏ねれば粘土のようにもなるし、振動を与えれば水のように液状化することもある。溶融すれば岩にもなろうし、析出を図れば微量であるが金属質だって引き出せるやも知れない。土が状況によって見せる姿はおそらく千差万別だ。それだけ『土』には変容を受け入れる可能性が隠されているということでもある。
しかし期待とは裏腹に、最初に始まった変化は、カイが立つ直下の地面に起こり始めた。
(…違う!)
カイの足元を中心に波紋が広がるように土がめくれ上がり、まるで耕されたようにふかふかな土質に置き換わっていく。ねじ込んでいた足が抜けてしまいそうになって、カイは一瞬ひやりとした。
ほとんど直感的に『火魔法』を発して、おのれの服が燃えてしまうこともいとわず全身から炎を吹き出すことで、触手の戒めをわずかに緩ませた。綱引きが敗北に傾く危うい一瞬をそうして凌いだカイであったが、すぐに別の触手が次々にまとわりついてきて結局身動きもままならなくなる。その場を離れられない以上、カイは無様な案山子になり続けるしかないのだ。
カイは『土魔法』を別の形で行使した。
(固めてしまえ!)
柔くなった足元をガチガチにつき固める。
杭としたおのれの足が抜けぬように、その一帯の土組成を変異させる。足元何トンもの岩塊が、カイと『悪神』との綱引きに参戦した格好だった。これで重量差で簡単に押し切られてしまうこともないだろう。
そうして何十もの触手に隙間もなく巻き付かれて、呼吸もままならなくなりつつもカイは失敗した最前の『土魔法』についての考察に取り掛かっていた。
なるほど、『土魔法』は実際に触っている土でないと、感覚的に効果を及ぼし得ないのだと理解して、『魔法』のありようを脳内で素早く検討していく。
触れていないと難しいのならば、直接その場所にまで不活性のまま霊力の浸透させていけばよいのではないか? カイの頭には、霊力で編んだ『目玉』をおのれの体外へと自在に飛ばしていたあの真理探究官の秘術があった。臍の緒のように、『有線』で離れた場所にある土に力を及ぼすことが出来るのであれば。
カイはおのれの中の霊力の流れ、『神石』から発されている熱気の流れが足元へと届いていることを感覚的に確認する。そしておのれの身体の内部でとどまっているその霊力の供給を、『悪神』の触手のように地面の中へと伸ばしていくことを意識する。付近の『土』に対する把握と支配が強まっていくことを感じる。
おのれの霊力を体外に晒したことで飛散し始めたのだろう。とたんに甕の底が抜けたように霊力が恐ろしい勢いで減っていく。魔法の遠隔操作など、谷の神様からもたらされる潤沢な霊力がなければ絶対に不可能な荒業であるのかもしれない。
(…だいぶ深くまで掘ったみたいだな。姫様たち)
3人の逃げ込んだ穴は最初よりもずっと深くなっているのがなんとなく分かった。これならば、無茶をしてもしばらくはなかの酸素だけで生きていられるだろう。
穴の開口部を把握したところで、カイのほうにも限界が近くなってきた。触手に締め付けられて呼吸が止まりそうになってしまったのだ。
焦りが生じたこともあって、穴の開口部に広げた霊力をわぁっと闇雲に叩いてしまった。失敗したと思ったのも束の間、突然穴の開口部付近がずざざざっ、と表層崩れを起こしてしまった。
結果的には目的を達したものの『土魔法』は不本意ながらただの土砂崩れとなってしまった。
穴の中からは悲鳴が聞こえたが、まあ『加護持ち』がふたりもいるのだ、しばらくは自助努力で何とかしてもらおうと思い切る。
ともかくも、これでほかの3人の『餌』は『悪神』の目の前から消えてしまったことになる。
カイはわずかな呼吸に喉を引き攣らせつつも、足元に掛けていた『土魔法』を解いた。そこに留まり続ける理由がなくなったのだから、当然の処置だった。
重石を失ったことで、カイの身体は易々と触手に持ち上げられてしまった。そのまま『悪神』本体のあぎとヘと運ばれそうになったカイであったが、空中に持ち上げられながらも『加護持ち』の剛力で奮闘し、『不可視の剣』で手首をこじるようにして両手の自由を回復、ほかの触手も素早くなますに切り刻んだ。
そうしている間にもカイの身体は穴のあった高所から擂り鉢底のほうへと運ばれてしまっている。着地した先も、『悪神』の青く燃え続ける巨大な身体の上だった。
(殺せ!)
足元すべてが『悪神』の身体である。
ぶにゃりとカイの体重を受け止めた『悪神』の身体は、そのまま沈み続けて口腔となり、獲物を捕らえようと粘性の液体のように波立った。
カイは両側から迫りくる顎のような大波を、『不可視の剣』で削ぎ取るように一閃した。そして切り離された『悪神』の肉を蹴り除けつつ脱した。
(『悪神』を殺せ!)
谷の神様も鬱屈を晴らそうとするように煽ってくる。
いまこのとき、『悪神』にとってカイはほとんど捕まえたも同然の非力な『餌』でしかなかったのだろう。戯れるように何本も触手が伸びてきて、それをかわし続けるカイに興をそそられたように、巨大な本体はびくんびくんと身を震わせた。
灰猿人の王城で戦った『悪神』もそうであったが、まるで幼い子供が小さな虫を弄んで喜んでいるようなふうをどうしても感じてしまう。触手を切り飛ばされても、痛痒も感じないのか体皮を笑うようにさざなみ立たせた。
『バアルリトリガ』の頭骨が驚くほど眼前近くにあった。その神の遺骨……『聖骸』とでも呼ぶべきそれには、ほとんど朽ちてしまっているものの、かつて怖れ知らずの者たちが行き来したのだろう細かな足場や櫓の跡が所々に残っているのが小さく見えた。あるいは累代の辺土伯が密かな調査を行っていたその名残りであったのか。
カイの天地がひっくり返った。
面白半分に『悪神』に片足を掴まれ、宙に放り出されたのだ。
その廻っていく暗闇の世界の奥に、なにか小さく白い生き物がうごめいているのを見た。あまりにも白い姿であったので闇のなかでもかろうじて見えたのだ。辺土でも朽木の皮を剥ぐとよく見かける、手足のない虫の幼虫のように見えた。
それらが『バアルリトリガ』の地下墓所の壁にみっしりと張り付いてうごめいている。『悪神』が肉の器をこね合わせるために使ったのだろう肉の正体だった。
その生き物たちの生き残りの一部が、奇妙な動きを見せている。
糸を吐き、繭玉を作り出している。この恐るべき地下空間の中に、その白い幼虫たちの日常の営みが続いているのだ。
多くの同族たちかが『悪神』に貪り食われたのだろうに、それに恐れを抱くことなく地下空間にぞくぞくと這い出してきている幼虫の群れは、糸を吐いて闇の底を白で埋め尽くしていく。
伸びてくる触手を打ち払った。
もはやカイには天地がどちらかなのかさえ定かではなくなっていた。
『悪神』の肉を焼く熾き火の立てる煙が悪臭とともに充満するあたりにまでカイは落ちて来た。『悪神』はひたすらに上を目指しているのか、幼虫たちの近くからはいなくなっているようだった。
(…我が同胞が孵る)
ネヴィンの声が聞こえた気がした。
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