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(外側の神様…)
ならば、この這い上がってこようとしている異形のおぞましいなにかは、すべてそれら神々の憑依物、『悪神』と同列の存在であるというのか。
土地神たちもそうだが、この世界を構成している神と呼ばれるあまたの高次存在は、その場に実体を伴うことができず、下等世界に干渉するための憑代を必要とする。
何ゆえに神々が窮屈な地上世界に執着しているのかは分からない。この世界の『仕様』と言ってしまえばそれだけなのだが、世界の構成要素として受け入れられているのだろう『加護持ち』が自侭に力を振るい得る一方、外側にいるまつろわぬ神々の降りた『悪神』はその存在を忌避されて焼かれ続けねばならない。
それはまさに正と負。
その理屈が正しいことを証明するかのように、這い上がってこようとしているその不定形の生き物は青い熾き火でその全身を焼かれていた。まるで亡者の鬼火が燎原に燃え広がっていくかのように、ほの青い輝きが地下世界に満ちていく。
(このままじゃまずい…)
しがみつく白姫様の身体が緊張にこわばるのが分かった。
カイは素早くあたりを見回して、彼女を背後に守り通すのに有利な場所はないかと探った。そうして皆が落ちてきた竪穴の直下、斜面のもっとも高い場所の壁が削り取るように抉られているのに気づく。
放り込まれた人身御供が死に物狂いでうえに上がろうとあがいた痕なのか。泣き叫んで命乞いする不幸な先人たちの姿を幻視して、全身に鳥肌が立った。
どうやらあのあたりの壁は、見かけに反して柔らかいのかもしれない。竪穴までは石組みであるのに、この地下空間はそうした人為を感じない、素焼きの大甕の内部を見ているような凹凸の乏しいのっぺりとした地肌をしている。足裏でこそいでみると、やはり案外に柔らかい。
青い輝きが地下の闇を払っていく。
擂り鉢の底に続くなにものも見通せない、ただただ深い闇の淵の中心にある不気味な頭骨は、人によく似ていた。が、半分以上が闇に沈んでいてその全体像までは分からない。ただ縮尺があまりに馬鹿げていて、現実感を伴わないそれが本物の生き物であったならば、身の丈100ユルはあるだろう巨大生物であったに違いない。
(…ここは、『バアルリトリガ』の墓の下だ。なら、そういうとこなのか)
骨であるということは、かつては生きていたに違いないもの。
肉と臓腑が腐り落ちてなお骨だけは残されるその姿は、生老病死の自然のことわりに縛られるただの人間と変わらない。あれが土地神の正体であるというのなら、彼らが自らの肉体をもって地上を闊歩し、支配していた時代があったというのだろうか。
カイは生物の根源に繋がるのだろう畏れに身震いしつつ、白姫様の手を引いてその削れた壁のところにまで駆け上った。何も喋らないカイに戸惑う白姫様が何度も名を呼んできたが、いまやらねばならないことに意識を集中した。
壁に手刀を突き入れた。そして『加護持ち』の剛力で指をねじり入れ、土塊を掴んで引き出すようにした。それだけで結構な大きさの穴がうがたれ、カイは無言のままどんどんと掘り進めた。
カイの意図に気付いたのか、白姫様も隈取を顕して穴を掘る作業に協力し始めた。意外なことにあまり取り乱していない中央貴族の姫が、晴れ着の腕をまくって土をどかす作業に加わった。
「穴を掘って上に行くのか! そうなのか!」
近付いてくるおぞましい何かから腰砕けに逃げ上がってきたアーシェナが、期待を込めた眼差しでカイたちの作業を横からせっつき出した。どう考えてもそんな夢みたいな大工事が成される状況ではないというのに、子供みたいな考えなしを言うこの男はほんとうに馬鹿なのではないかとカイは思った。
ある程度の深さを確保したのちに、カイは白姫様にこの中に入ってくれと言い、意外な聡明さを見せた中央貴族の姫も、目配せでカイの導きに従った。
穴掘りを止めてしまったカイを呆然と見つめてきたアーシェナも、すぐに身の危険を感じたようにふたりの姫を押しのけるように最奥へと潜り込んでいった。
カイは3人を背後にできたことを確認して、ふうと短く息を吐いた。呼吸を整えることで気持ちが冷静さを取り戻していくのがわかった。
(ネヴィンは、これを『祭祀』だと言った)
ネヴィンが降ろした外側の神々は、州城の魔術的装置に絡め取られ、かなりの『力』を『バアルリトリガ』奪われた。辺土伯様が『悪神』みたいに輝くぐらいだから、なんらかの効率よく神々の力を剥ぎ取る装置が相応に働いたのだろうというのは理解していた。
おそらくは、『バアルリトリガ』本体に喰われたのだろうと思った。
『加護持ち』の『神石』を食ったときの感覚を思い起こせば、特に分かりにくい理屈というわけでもなかった。カイはおのれの胃の中から抜け出ていった神の魂を感覚的に経験している。ならばいまここに姿を現している外の神々の顕現と思しき『悪神』の群れは、そうやって力を盗み取られた後の、みじめにやせ細ってしまったものなのではないかと推論した。
なるほど、ただ奪うだけでは祟られる。ゆえにその怒りを鎮めるための人身御供が差し出される。そういう『祭祀』なのではないかと思った。
(なら、あいつはいま相当に弱っているはずだ)
痛めつけたまま帰したら、辺土伯家が祟られる? そんなもの、祟られてしまえばいい。因果応報というやつだ。
闇の底から這い上がってこようとしているのは、おそらくはこの光も届かない地下深くで露命を繋いでいる土中生物……生態系がどうなっているのかも皆目分からないものの、それら無数の小動物が神々の意思のままに捏ね上げられ、『悪神』としての肉の器をなしたものであるのだろうと思う。
不定形のおぞましい何かはその全身を激しく蠕動させながら、美味なる供物である4人のほうへとじりじりと迫ってくる。
外界の神を受け入れないこの世界の排除の仕組みが、その形の定かならざる肉の身体を焼き、青く美しい輝きとは相容れぬ鼻の曲がりそうなほどの異臭を広げている。白姫様らをかくまった穴の前で、ひとり身構えたカイは先の『悪神』との戦いで獲た戦訓を思い出そうとしていた。
(…まず、耐性を用意する)
カイは内なる神の座所、そこにある谷の神様へと語りかける。
『悪神』の呪いを受け付けぬ体皮が欲しい。
びきびきと身体の表面が突っ張り始め、おのれが『悪神』と殴りあえる身体に変化したことを理解した。
対処法を知っているだけで、ここまで落ち着き払うことが出来るというのはなかなかにたいしたものだと自分で思う。魂を削り取られる『悪神』の特性さえ押さえてしまえば、あとはもう殴り合いどつき合いの脳筋肉達磨の世界である。
そのとき不意に、鞭のように伸びてきた触手がカイを絡め取ろうとした。
落ちている木の実を拾うがごとき無造作さで伸ばされたそれを、カイは避けることなく片腕で応じた。白姫様たちを守らねばならないカイは、その場を動かぬことこそが最優先であった。
腕に巻きついた触手が、カイという餌を手繰り寄せようと恐るべき力で引っ張ったが、カイはその力に抗った。
その面には、隠し続けていた谷の神の隈取がじわりと現れていた。カイの身体にどれほどの怪力が備わろうと、半分子供みたいな彼の体重そのものが変わるわけではない。異形の怪物が持ち上げようと試みれば、おそらくその辺の小石を手に取るぐらいの容易さで地面から離されてしまうだろう。
カイは硬化させたつま先を、土を突き固めたような足元にねじ入れ、固定の杭とした。が、それでもその土ごと持っていかれそうになる。視界いっぱいに広がる光がもしも一個の生き物であるというなら、その体重比でカイが綱引きに負けてしまうのは当たり前のことであった。
なので、もって行かれる前に叩き切る。
触手をただの手刀で切り払ったカイの動きに、背後の誰かが喉を鳴らした。おのれの体に巻きついたまま残った触手の先を……切り離してなおうごめき続けるそれを『加護持ち』の剛力で引き剥がし、振り捨てようとしたのだが、ねちゃねちゃと絡み付いて離れない。
うっとおしい。
(燃えろ)
もはや隠していられる場合などではない。
腕全体から『火魔法』を発したカイは、触手の一瞬の硬直を見逃さずに振り払った。『加護持ち』との戦いでもそうだったが、魔法の『火』に過度な期待を抱くのは愚かなのは分かっている。実際に世界から忌避され続ける『悪神』の身体は青い熾き火に焼かれ続けており、火に相応の耐性があってしかるべきであった。
本体から切り離したその断面ばかりは、丈夫な体皮とは違う組成であったのだろう。黒々とした内部物質をカイの火が焼いたのか、煙を上げながら激しく蠕動している。
『イカ』や『タコ』などの軟体生物と同じく、肉質は地下世界の生き物から捏ね上げた『たんぱく質』に近いものなのかもしれない。それらの生物など見たことも聞いたこともないのだが、カイの中でひとつの知識として積み上がる。
(『悪神』の中身なら、燃やせる)
カイの背後で、そろりと触手に触れようとした動きを叱りつける。
「触るな!」
「…ッ」
穴の近くでうごめき続ける肉片が気持ち悪かったのだろう、靴の先で押しのけようとしていた中央貴族の姫が、雷に打たれたように居竦んだ。
「それに触ると、魂を持ってかれて死ぬ」
「………」
「『加護持ち』でも死ぬぞ」
背後の3人から、「それではなぜお前は無事なんだ」と問われているような気配に、カイは少し言葉を選びながら、
「…『御技』とかいうのだ。力を使ってる」
『悪神』の熾き火に触れたカイの服は手早く叩いて鎮火させたものの炭化して黒ずんでいる。そして無事そうなカイ自身の身体も、『悪神』と触れた腕の内側や指先からうっすらと白煙を漂わせている。『悪神』の呪いに耐性のある体皮を得たところで、熾き火の高温にさらされたのに変わりはないのだ。
そんなことよりも。
カイがおのれに対抗しうる存在だと知った『悪神』が、相応の敵意をもって攻撃を仕掛け始めた。次々に飛んでくる触手を手早く払いのけつつ、カイは叫んだ。
「もっと穴を掘れ! もっと奥へ!」
地面の土がどれほど固かろうと、『加護持ち』の爪の硬さなら難なく掘り進めていけるだろう。ともかく討ち漏らしに触れさせないためにも、もっと奥に隠れてもらったほうが動きやすくなる。
そして掘り返された土がやがて防塁となる。それに気付いた白姫様が、穴掘りをただ眺めているだけのアーシェナを叱咤して、土を運ばせ始めた。
白姫様も、中央貴族の姫も、もはや晴れ着が台無しなほどに土まみれである。
そこまで想定はしていなかったのだけれども、掘った穴は即席にしては上出来の避難所になりつつある。複数の『加護持ち』がいたからこその奇跡であったろう。
「カイッ! あなたも早く!」
白姫様の声が聞こえた。
おのれの身さえも危ういこの状況で、ただの従僕にしか過ぎないカイの身を案じてくれていることに胸が温かくなった。
『餌』が穴蔵にこもったことを『悪神』は知っている。ゆえにそこに全員が隠れたところでけっして見逃されはしないだろうと思う。カイはただ片手を上げて、白姫様の言葉に応えたのみだった。
そしてカイは、迫りくる青い輝きに握りこぶしを固めたのだった。
励ましのお言葉、感謝です。