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人の世が終わるのやも知れぬ。
そう、わけもなく思ったわけではない。我が土地に蓋する忌まわしき人族の神が、その威光を翳らせ始めたのに気づいたのは、いつのことだったか。
久しく関心さえも持たなかった人族の営みを眺めていた彼は、『翳り』の原因がなんであるのかを程なく理解するようになった。
『バルター』と呼ばれる一族が、この地に数を増やした人族を統べていた。
最初の『バルター』は、遠地から強大な神をともに引連れて来た。一帯に強い力を及ぼしていた丘の神、『バアルリトリガ』の大戦士を激戦の末に下した『バルター』は、神の恩寵を簒奪し、丘の神の土地の支配者となった。
いくら高位の神とはいえ、ただ一柱の神を下したからとてこの恐ろしく広大な北辺原野を人族が独り占めするには足らなかったろう。南の豊かな土地に勃興した人族はすでにあまたの強大な大神を得ており、それら諸神の合力により瞬く間に原野に跋扈していた百の種族を打ち滅ぼし、地の恩寵を次々に略奪していったのだ。
『バルター』は、下した末神から帰依を集め、『バアルリトリガ』を北辺原野に冠たる強大な大神となさしめた。
その最初の『バルター』が死んでから、どれほどの時が流れたことだろうか。
代々の『バルター』が討滅を試み、そのことごとくを跳ね返し続けたまつろわぬ大神である彼は、人族から不可蝕の存在として隔離され、やがて『バアルリトリガ』神話の不可分の双面神として無理やりに合祀されてしまっていた。
誰からも見向きもされなくなってからも、幾百もの星霜が無情に過ぎた。神力により呪いに抗いえた彼ひとりのみは封じられた土地を抜け出し、長い年月をただ今相の観察行為に費やし続けた。
時の移ろいを傍観するしかなかった彼に転機が訪れたのは、力に翳りを見せ始めた当代の『バルター』が、父祖の呪いを自らの手で刻みなおそうとしたことに始まる。
『バアルリトリガ』の恩寵が弱まっていることに、小さな老いぼれは苦悩していた。
そして累代の『バルター』が霊廟に何重にも仕掛けてきた古き呪詛を……この特異な土地を平らげるためには不可避な丘の神の封じ魔法を、限りある神力の無駄使いだと老いぼれは思い込んでいたのだ。
当代『バルター』の目の前に彼が姿を現したのは、ただの気まぐれに過ぎなかった。脂汗を流しながら『バアルリトリガ』の前で打ちひしがれる小さな老いぼれが、おのが王をなじり、父祖のなした業に唾を吐きかける姿がとても面白かったのだ。自らの手で呪詛を解き始めたときには腹を抱えて笑ってしまった。
「…助けてやろうか」
我が土地にかぶせられた蓋を取り払えるのならば、それはとても善きことだった。最初の『バルター』が融和的であった我が同胞をたばかり、地の底へと封じた呪いを解く事ができるのならば、これまでの幾百年の無礼も水に流せよう。
ただひとり移ろいゆく世界を眺め続けるのに彼は飽いていた。気まぐれに赴く外の世界で守護者などと下にも置かぬ敬われ方をしても、喜びはいっときだけのことで、いつまでも他者の盛衰になど関心を抱き続けられはしなかった。このところの百年近くは、ただ目的もなく『バルター』たちの日々の営みを眺めているだけの存在だった。
ずっと見ていたのだ、人族の世界に何が起こりつつあるのかぐらいは理解していた。『バルター』は人族の王神の命令で、混乱する原野の南へと手勢を送り出していた。昔とは逆だな、と皮肉な成り行きを見守った。
そのせいで北辺原野の神々への手当てが薄くなり、人族はどんどんと土地の守りに力を割けなくなっていった。小勢しか集められない人族領は、亜人種たちを振り払いきれずに次第に蚕食されつつあるようだ。
そうして北辺をおろそかにしてまで送り出した虎の子の手勢が、無能な王の体面を取り繕うために他人の土地で振り回され、各所で無為に磨り潰された。将として赴いた『バルター』の股肱の臣である塞市領主のひとりが、戦地で没し、ついにはその神さえも奪われた。『パバルス』とかいう名の忠臣だった。
『バルター』の一族は、それを『聖冠崩れ』と言って恐れおののいていた。南への出兵に臣下が明らかな抵抗を示すようになったのもこの頃だった。
「オイラが導いてやってもいいぞー」
当代『バルター』、アタルクシュは、疑り深い男だった。
反応を楽しむようにからかい半分に姿を現しては、他の者には姿を隠したままアタルクシュを翻弄し、「耄碌ジジイ」扱いさせるのは楽しかった。力の強い者にしか自分の姿は見えないと言ってやっても、なかなか信じようとはしなかったぐらいであった。
何度となくそう誘いを向けて、ついに彼という存在を無視するわけにもいかなくなったアタルクシュは、数日にわたって家伝の書物を読み漁り、正確に彼の出所を明らかにしたうえでようやく耳を傾けてくれるに至ったのだった。
《白鱗の王》
当代『バルター』は、彼をそう呼んだ。
***
冬の空が、遠く明け染めようとしている。
降り散る雪片を含んだ鈍色の雲の隙間から、薄い陽光が滲むようにその色合いを強めている。光を受けたごく一部の雪だけが、その白さを増してまるでふるいに掛けた小麦粉のようであった。
文字で埋め尽くされた奇怪な通路をたどってきたカイは、それが徐々に傾斜をきつくし、ついには垂直に近くなるに及んで、『加護持ち』たる能力を全開に使わねばならなかった。わずかな石の継ぎ目に爪を立て、必死に上へ上へと上り詰めた。
そしてたどり着いた先は、州城の一番高い尖塔の上だった。
終点は雨避けの屋根があり、側面にある穴から外へと這い出した。そこには冬季に入ってから手付かずのまま積もり続けているのだろう雪が壁を成していた。
カイは巣穴から這い出した野鼠のように顔を出し、おのれの吐き出した白い息を透かして、明けつつある空の景色を目にしてのだった。
「…帰んなかったのか、谷の」
そこで声が掛けられた。
首をめぐらせると、部屋ひとつほどの広さのある尖塔の屋根上の端に、白い影が胸壁の出っ張りに腰を下ろしていた。
地吹雪と名乗ったあの守護者が、カイを静かに眺めていた。
「邪魔したらぶっ殺すぞ」
「…オレにも都合がある。勝手ばっか言うな」
言い返すと、ネヴィンはふんと不満そうに鼻を鳴らすと、白いコウモリのような羽根を広げて近くへと寄って来た。まだ完全に身を乗り出していなかったカイは慌てて身構えようとしたが、予期した攻撃ではなく手を差し伸べられたことで、喫緊には殺し合いは始まらないのだと理解した。
絡ませた手は、暖かかった。ネヴィンもまたちゃんと生きているのだということを死って、どこか安心した。
引き上げられると、通路の中で身を包んでいた霊気の温かさが失われ、とたんに寒さが服の隙間に入り込んでくる。『加護持ち』であればこそ多少の寒さなど屁でもなかったが、風もわりと強くてはためいているおのれの薄着が気になった。
それにしても、この通路は何のために作られていたのだろう。カイのような目の良い者にしか視ることのできない霊気をここまで導いて、なにかの意味があるのだろうかと思った。
そうしてカイを引き上げたネヴィンが、くすりと笑いながら上を見上げた。
導かれるようにしてカイもまた空を見上げると、そこには驚くべき光景が展開されようとしていた。
(…なんだ、これは)
集め導かれてきた辺土領主たちの祈りの霊気が、空へと立ち上りながら消えていっている。カイが目を見開くようにして見つめているのは、さらにその先に現れていた形なき光だった。
ネヴィンは何も言わない。ただ静かにこちらを眺めているようであったが、目の前の驚きに心を奪われてしまっているカイには、それに取り合っているような心のゆとりはなかった。
(…喰ってるのか)
それはまるで水辺に投じた餌に群れ集まっている魚のようだった。
ただし、それらが遊弋しているのはカイから見たら遥かな空の高み……おそらくは数ユルは離れた雲のわずかに下あたりであった。
それほどの高さに現れたそれらが、おのれの腕ほどの大きさに見えている。もしも間近で見ていたなら、その大きさはこの州城ひとつ分ほどもあるのではないかと思われた。
見る者によっては、長い衣の尾をまとった天女に見えたかもしれない。
カイには尾びれの異様に長い巨大な草魚のように見えた。出来損ないの蛇のようにも見えた。
「あれは外にいる神様だ。初めて見るのか」
「………」
「オイラも最初は驚いた」
ネヴィンは朗らかに笑った。
「献月の宴は、ほんとうに神様に祈りを捧げているんだぞー。餌付けして、地神の味方に引っ張り込むんだ……なんかおもしれーだろ」
地神?
それはオレたちの神様のことか。
「…《餌》をやるだけじゃ意味はねーんだ。…ちゃんとまつりごととして、祭祀しなくちゃなんねーのを、人族は忘れちまったみてーだからさ。オイラが少し守りしてやるんだ」
ネヴィンの姿がわずかに光り出した。
高まっていくその霊力が捧げられた腕に集められて、輝きを増していく。
「生き物は育つにつれてどんどんと賢くなっていく。…そうして病んで衰えて、手にしていた知恵を失って馬鹿になっていく。種族も同じさ、長く続きすぎるとなぜか子の頭の出来が悪くなっていくんだ……オイラの一族も、すっかり馬鹿になっちまった」
邪魔すんなよ、とネヴィンは言った。