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ラグ村でも、婚礼の宴というものには幾度となく遭遇したことがある。
こんな辺土領主すべてを集めた席でのものとは当然かけ離れているのだが、祝う客と祝われる男女という構図には基本差はない。
着付けを終えて待機となったふたりの女性の前に、従者を伴った例の男が現れたときには、ああやはりこいつが白姫様の夫になる男なのかとカイは思ったのだった。
第6公子アーシェナ。
夜這い公子もそうだったが、中背で細身のバルター辺土伯に似て、アーシェナも小柄だった。まだ育ちきっていないこともあるのだろうが、およそ筋肉らしきものもついていない細い腕はまるで女のようで、軽く掴んだだけでねじ切れるのではないかと思った。
アーシェナはおのれの妻になるだろうふたりの女性のもとへと近づき、馴れ馴れしげにそれぞれの名を呼び捨てにすると、無遠慮にその全身に値踏みするような目線を這わせた。正妻予定のフローリスは少し嫌そうにしたものの、覚悟を決めた者の強さか自らその視線に身体をさらすように胸を張った。
対照的に白姫様のほうは羞恥に身震いして身をすくませるようにした。アーシェナは嫌がる白姫様に刺激されたのか、その遠慮の欠片もない視線をじろじろと向けてから、口もとにひそむような笑みを造った。
顔のつくりの悪くない少年であったから、本人もそれで涼やかな貴公子を演じているつもりなのかもしれなかったが、幼さから下心が透けてしまって下卑た印象しか周囲には与えなかった。
(…なんだ、こいつ)
カイは思わず小声で吐き捨てた。
同様の感想を抱いたものか、オルハ様も微笑みで応じながら無言で妹姫を背にかばうような立ち位置に割って入った。
ちろりとねめ上げたアーシェナの眼差しがオルハ様をとらえて、面白くもなさそうに逸らされる。
「もうすぐ礼拝が終る。父上が挨拶を終えたら、ぼくと一緒についてきてね」
少年らしい高い声でそう言って、従者が持ち込んできた飲み物を手にふたりにもそれを勧めた。その後ろからは小分けにされた料理の類が違う従者らによって持ち込まれてくる。控えの間にこもらされている者たちへの公子の気配りであるのだろう。カイのお腹もまたぐうと鳴った。
匂いに目が引き寄せられそうになるのをこらえて、カイは白姫様の様子を見やる。相変わらずアーシェナを受け入れかねているような様子に、やはりこの縁談にはもったいない、ご破算にしたほうが良いに違いないと思えてならなかった。
むろんカイが独断で介入してよい状況ではすでになくなっているのだが……少しだけ黙考して、よし、ならば自侭に決めてしまえと『加護持ち』ならではの傲慢さであっさりと迷いを捨て去った。
縁談がぶち壊しになったところで誰かが死ぬわけでもない。ご当主様がおのれの許す裁量のうちで運命を選択しているというのであれば、おのれにだって谷の国の国主として自侭を通す選択肢があってしかるべきだと思うのだ。
オルハ様が傍についているので、ここはもう任せてしまっても良いだろう。
カイは独自に動くことにした。
(…まずは、あいつを捕まえる)
そっと控えの間を出たカイは、霊廟の大天井を仰ぎ見る。
この縁談をひっくり返すには、裏で糸を引いているに違いない守護者ネヴィンを説得したほうが確実に早いだろう。さっき見かけた天井の片隅に、もうやつの姿は見当たらない。
中央付近で一段高くなっているその天井は、通気口のようなものを隠した複層構造になっているのか、わだかまった霊力の霧が渦を巻くようにゆっくりと動いており、中央のくぼみに向かって少しずつ吸い込まれているようだ。
(…そうか、あいつもその通気口に)
この城には秘密の隠し通路がたくさんある。辺土伯家の一族が落ち延びるためのそうした通路はこの霊廟にだっていくつも隠されているだろう。
そそり立つ壁に手掛かりはほとんどなく、壁を伝って上がることはかなり難しそうだ。
ならば助走をつけてひと息に飛び上がるか……『加護持ち』ならではの雑な発想でやる気になったものの、すでに霊廟には客たちがひしめいており、助走をつけられるような余地などどこにもありはしなかった。
そうして礼拝待ちの列を縫うようにして別の手立てを探したカイは、ややして天井から鎖で吊るされている巨大な鉄製のシャンデリアを見出したのだった。
それらは滑車によって天井まで引き上げられており、当然のことながらその鎖は人の手の届く低い場所、大柱の物陰に設置された巻取り器でしっかりと固定されている。
迷うこともなくその鎖に飛びつき、伝い上り始める。錆の浮く無骨な鎖は、小柄なカイの体重になどほとんど揺れもしなかった。たしかな手ごたえに思わずほくそ笑み、次の一歩を這い上がろうと腕を伸ばしたときだった。
不意に下から声を掛けられた。昨晩部屋を出たときに、粗大ゴミのようにさっさと廊下に放り出してきたガンド・ヨンナであった。
「兄弟、なにしてんだよ」
ヨンナはちょうど霊廟に入ってきたところで、いまから礼拝待ちの列に加わろうというところのようだった。
カイは舌打ちしつつ、口元に指を立てるようにして沈黙を要求する。が、ヨンナのほうはおのれを一撃で昏倒させた『何者か』の正体が気になっているらしく、「それよりも昨日のことだけどよ」などと言いながら、察し悪さを発揮して近寄ってこようとする。
さらに悪いことに、ヨンナの周りには彼と付き合いがあるのだろう幾人もの『加護持ち』がついてきていたことだった。むさい肉達磨連中だ。草試合のときと違っているのは、全員がまがりなりにも貴族たる正装、法衣を着ていることだったろう。
カイはヨンナの察しの悪さに軽く絶望して、留まるよりも先を急ぐことを選んだ。
そこから猛然と鎖をよじ登りだしたカイは、あっという間にシャンデリアの付け根にある滑車の部分にまでたどり着いて、そこからの手掛かりをすばやく捜した。
(…あそこに飛ぶ!)
シャンデリアは天井のくぼみの角まで、5ユルほどの部分にあった。くぼみの周囲には石材に帯飾りのようなものが付けられていて、ぎりぎり指先がかかりそうだった。
眼下で騒ぎが起こり始めているのには気付いていたが、それに気を回す暇があるのならここから脱出するのを優先したほうが建設的である。カイは飛び上がる角度を得るためにいったんシャンデリア本体まで降りてから、蝋燭を落とさぬよう慎重に位置取りして、その巨大な鋼鉄のリングを数度揺らしてタイミングを取った。
そして飛んだ。
下のほうから野太い嘆声が聞こえたが気になしない。
かろうじてかかった指先で十数ユルはある高みでぶらぶらと身体を揺らしたカイは、そこから圧倒的な身体能力を駆使して身体を更なる高みへと引き上げていく。
「兄弟!」とヨンナの声が聞こえたような気がしたが、もう振り向かなかった。いくつかの叫ぶ声と、衛兵らしき者たちがわらわらと霊廟に入ってくるのが視野に入って、また何度目かの舌打ちをした。
ヨンナのおかげでおのれ個人が特定されてしまいそうで、大いに苛立った。
(…あれか)
くぼみの上層で、出っ張りによって見えていなかった『口』がついに露になっていた。そこはまさに守護者ネヴィンを見かけたあたりだった。
出っ張りに足場を得て人心地ついたカイは、横歩きにその『口』へと近づき、意外と大きなその虚を目指してまた這い上がる。もうそのあたりはあの霊力の霧の中で、霊廟の中にこもっている大勢の人いきれの温みとは違う、湯気を潜ったようなむわっとした熱気を感じながら、カイは天井の最上面をついに間近にすることとなった。
通気口と思しき暗がりに手をかけながら、カイは驚きに打たれて固まっていた。安全地帯に這い上がることすら忘れ、天井一面に刻まれたなにかを呆然と見上げていた。
(…文字)
遠目には何かの模様にしか見えなかったそれが、とても細かな文字であることに気付いたカイは、避けようもなく土地神の墓石に刻まれた碑文を思い起こしていた。
文字はおそらく同じだった。それらが隙間もなくびっしりと天井一面を覆っているさまは、たくさんのブツブツを見たときのようなある種の生理的嫌悪感を刺激して、総毛立った。
こんな一種異様でまがまがしい光景がまさかおのれの頭上にしつらえられているなどと、来客は誰ひとりとして気付いていないのだろう。カイの姿を指差している者たちも多かったが、他の大多数は酒も入っていい気分で宴に興じている。
「…祈りが……霊力が溜まってたのは『こいつ』のせいか」
いきとし生けるものの体からは、自然と微弱な霊力が放散しつづけている。
『加護持ち』などは桁違いなまでの霊力をその身体から四六時中溢れさせているわけだが、その放散霊力が霧状になってこの世に留まり続けているというような光景をカイは他で見たことがなかった。
放っておけば、跡形もなく霧散してしまうであろう祈りの霊力が、天井近くで溜められ続けているのはよくよく考えればおかしな話で、その異常事態はあの刻まれた文字によって引き起こされたものなのだと解釈するのが正答であるに違いない。
あの文字列が魔術的作用をして、ささげられた霊力を無為に散らさず、この霊廟の上空にかき集めているのだ。
(この霊廟そのものが、魔術的な装置なのか)
這い上がった通気口にも、よく見ればびっしりと同様の文字が刻まれ、霊力を導いて奥へといざなっていく魔術的な意思を感じた。たたずむおのれの首や手足をすり抜けていく微風は、まさにそうした引き込まれゆく霊力なのであろう。
(…我が同胞が孵る)
そのとき耳に届いた、かすかな声。
そのわずかに拾い上げた声が、喜色に打ち震える。
「地吹雪!」
叫びは空洞に次々と跳ね返って、小さくなっていった。
遠くで嘲るような笑い声が起こったのをカイは聞いた。
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