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その幼げな色の白い腕が、ふわりと上がったと見えた刹那だった。
アドルを護ることに全神経を集中していたミュラが唐突に意識を失った。謎の亜人に……『守護者』に背後から手刀を入れられたからである。
カイはおのれの耳目が何の不都合もなく捉えていたからこそその事実を見落としてしまっていた。
姿形だけを端的に評するとしたなら蝶と白いコウモリの掛け合わせのようなそいつの姿を、実際に目にしていたのはその場にはカイだけであったのだ。意識を失ったアドルとミュラが、ずるりと飲み込まれるようにその存在を『虚空』に食われるのを見て、ヨンナが「おいッ」と即座に詰め寄ろうとした。そして掴むだけで手折れそうな亜人の細い腕が、脳筋の田舎領主の肉を抉ってあっさり昏倒させるのを見た。
「…何かいるのですかカイ」
怯える白姫様の声を聞いてようやく確信する。
こいつの姿はおのれ以外には見えていないのだと。
(オイラの名前はネヴィン。…詳しくは谷のにでも訊いておくれ)
地吹雪と名乗ったその『守護者』の影に、なぜか冬空がうっすらと映り込んでいるのに気付いたカイは、それが姿をくらませる魔法の類なのだということを理解した。たまたま谷の神様の恩寵を受けたカイの目には通用しなかったというだけで、相手はここにいながらにして姿を完全にくらませていたのである。
光学的な魔法か、と察しているもうひとりのおのれがいる。
そして《三齢》としてはそれなりの猛者であったヨンナを一撃で刈り取った腕っ節を、冷静に『脅威』であると判断したおのれもいた。
(そいつをどうするつもりだ)
(このまま放っていっても、少し困ったことになりそうだろ? 適当に処理してやるから、目と耳と口をふさいで自重してくれてると助かるんだけどなー)
(『原因』がいなくなると、『コレ』の説明が面倒なんだけど)
目配せされて、ネヴィンは派手に崩れた外壁にようやく気付いたように首を傾げると、
(どんなに強かったやつでも、死ねば骨しか残らないし、城も瓦礫に還る。あんまり小さいことを気にしてると禿るぞー)
(…お前、守護者なのか)
(ちょっとたんまなー。いいか、くれぐれも余計な気とか起こすんじゃないぞー。邪魔したらぶち殺すからなー)
(……ぶち殺す!?)
のほほんとした会話から急にこぼれ出た剣呑な言葉に、カイが目を剥いたときにはもうネヴィンの姿は視界から消えてしまっていた。なおも未練がましくその姿を求め続けるカイの耳に、ただ声だけが余韻のように響いてくる。
(もう今相の世界は持たねーかもしんねー…)
それはカイの耳にではなく谷の神様に伝わったものが、泡がはじけるようにわずかに漏れ聞こえたようなものだったのかもしれない。その声にこたえたのがカイでなかったのがその証明であったかもしれない。
(…さっさと帰れー。そして準備しとけー)
(…ま*分か**。持つ****を決め***のは**ろうぞ)
(…人の世が崩れるぞー)
谷の神様のものと思しき声はまだ不明瞭ながらも、会話が成り立っている雰囲気から、ただおのれが憑代として十分に成長していないために聞き取れていないのだろうと素直に思う。
世界が持たない?
人の世が崩れる?
不穏な言葉が続くその会話はどんどんと遠のいていく。そして完全に聞き取れなくなったころには、カイの意識もまたうつつへと舞い戻っていたようであった。
はっとして、脱力して倒れそうになっていたおのれの身体を引き戻す。
「…聞いているのですか、カイ? 誰と話して…」
蚊帳の外にされていた白姫様の声が不安に揺れている。
カイは湧き上がってくる焦燥に歯噛みした。
あの亜人、さっきも見られていた記憶がある。そうだ、三ノ宮の屋根の上の気配の主だ。
よくは分からないのだけれども、いまこの州都を縄張りにするひとりの『守護者』が暗躍しているらしい。そして邪魔をすれば殺すとまで警告されてしまったのだ。
『冬至の宴』の裏で何事が起ころうとしているのか、カイにはまったく見当もつかない。片田舎の村人に過ぎないおのれは、亜人世界について多少は知っているものの、おのれの所属する人族領域についての知識がからきしなのは自覚があった。州都といってもそこも辺土の一部でしかないのに、そのあたりの事情さえカイはまったく知らないのだ。
(谷の神様、どうしたらいいんだよ)
カイは語りかけてみるものの、やはり谷の神様は明確には何も返してはくれない。なんとなくなのだが、憑代としてのおのれの成長が伴わねばそれは難しいのではないかと予想はあった。まだしばらくは、谷の神様からの一方通行が続くのだろうと思う。
ともかく、他の守護者とむやみに争うつもりはなかった。ならば一刻も早く、この地から退去したほうが良いということであった。
壁の大穴の形に切り取られた冬の空を見上げて、カイはとりあえず思いついたことを実行すべく、ご当主様たちのベッドを跨ぐように昏倒していたヨンナを引き摺りながら振り返った。
途方に暮れたように見上げてくる白姫様を見返して、やや言いにくそうに目をそらした。
「…ご当主様たちのところへ行ってくる。事情を話して、村に帰れるようお願いしてみる。…だから姫様はここで」
「……わたしもついていきます」
「でも、やったのはオレで…」
「…ひとりにしないで」
強く言われて、カイはおのれの気の回らなさを歯がゆく思った。
あんなことがあったばかりで部屋にひとりで残りたいという女はいないだろう。実際に客に知らされていない隠し通路があったのだ、戸締りして籠もってもそこに安全などありはしなかったろう。
よほどきれいに入れられたのか、ヨンナは呼吸はあるものの完全に意識を失ったままである。それを価値のない大荷物のようにずるずると引き摺りながら、カイは歩き出した。そうして空いたもう一方の腕を、白姫様にすがられる。
その柔らかさとくすぐる甘い匂いに、男と女が引き合う種族繁栄のための本能を、無条件で護ってやりたいと願ってしまうどうしようもない気持ちの高揚を抑えきれなくなる。
そんな浮ついた気持ちに咎めを覚えて、カイは谷に残してきた恋人のエルサを想ったのだった。
***
『冬至の宴』を明日に控え、一ノ宮の奥まった場所にある幅の広い石廊下は、多くの人間たちで溢れていた。
臭いの少ない蜜蝋の灯明で暗がりを払われたその廊下には、衛士が両側に幾人も居並び、いかめしい様子で槍を構えている。その眼前を接見希望者たちが通り過ぎるわけだが、その数が多すぎて廊下の半ばほどから行列となってしまっている。
見るからに辺土領主と分かる質朴な格好をした者は数えるほどしかない。ほとんどが礼物を従者に抱えさせた、華美な法衣に身を包んだ中央の貴族たちだった。彼らは辺土伯家の『冬至の宴』に合わせて、精力的に活動してその正客としての権利を手に入れた者たちばかりだった。
それぞれが小声で、空いた待ち時間を情報収集に割いていた。
「…ヴァルマ侯はうまいことされましたな」
「…まったく、機を見るに敏とはまさにあれのことでございましょう。それに打つ手もなかなかに隙がない」
「…どうやら侯は事前から幾人かに鼻薬を利かせていたようですな」
「…例の気の利く侍従長殿であたりのことで? なるほど、先行投資は欠かしてはいけないという教訓でありますな。…いずれにせよ次こそはわが家門から…」
「…次にいけそうなのは第4子、フリュー公子。きれいな碧眼の娘に目がないとのことですが」
「養女の手配を」
「何とか渡りをつけねば」
「もはや安閑と王を頼むだけでは、伝来の領を失いかねませぬ」
「辺土の将兵は強悍と申しますからな、いざというときにそれを引き込めれば…」
その謁見待ちの列の先には、ほの暗い明かりに照らされる重厚な扉があり、その中がバルター辺土伯の執務室となる。
その扉がいままさにきしみとともに開かれて、中から数人の貴族の団体を吐き出した。何度も会釈しながら退室してきたその貴族たちは、集まってくる奇異の目に苦虫を噛み潰したような表情をして足早に去っていく。交渉に失敗したことは歴然であり、列を成す者たちからは憐憫と嘲笑の入り混じった眼差しが向けられる。
閉じられた扉の向こうからは、なかなか次の者を招き入れる声は起こらない。が、そうした処理のばらつきはよくあることであったので、列を成す接見希望者たちは互いを見返し合うのみで、ことさら文句を言い出す者はない。
彼らの落ち着きぶりを見て、客を整理していた文官が上げかけた目線を手元の帳面に落とした。そしてしばらくもせぬうちに、また客同士のささやき合いに暗がりの空気がざわめき出した。
「ゲール侯とその取り巻きですな」
「宮廷を騒がせている《南部派》の御仁でしたかな」
「王師が動かぬからとて、北の辺土伯様の兵を南方に引き出そうとは、さすがに無理押しが過ぎましょうに」
「荒れ放題の南方に関わるなど、いまとなっては想像もしたくはありませんな。おお、くわばらくわばら」
「もはやそこまで打つ手がないということなのでしょうなぁ」
列が再び動き出したことにも気付かないほど探り合いに熱心な貴族たちの横を、そのとき白い人影がゆっくりと通り過ぎていく。
その小柄ながらも異形としか言いようのない姿かたちの白い亜人は、まるで実体のない幻ででもあるかのように、誰にも気付かれない。次の入室者の開閉の隙にするりとその中へと入り込んで、そして扉はしっかりと閉められてしまったのだった。
難産であったわけですが、熱気で頭が回っていないだけなのかもしれません。
青山先生のコミカライズ第9話が公開されております。
http://comicpash.jp/teogonia/09/
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