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赤いエゾギク

作者: 黒木はせの

初の恋愛小説を書いてみました。

この物語には一つの謎があります。楽しんで読んでもらえると嬉しいです。

第一部―母親―


花屋の朝は早い。暗闇が薄く残った早朝には自宅を出て花市場へ車を走らせる。


以前発注をした花々を仕入れると急いで車に積んで自宅兼お店へ戻り開店だ。しかし開店したからと言ってやることが無いわけではない。労を惜しまずに花たちに水揚げの作業をする事によって花は色彩豊かにお店を宝石のように飾り付けるからだ。多忙で楽な仕事ではないが、わたしはこの仕事が気に入っている。子供も健やかに育ち、理解のある夫も家庭を支えてくれる。


わたしはとても満足した日々を過ごせているが心配事があると言うなら最近息子に元気がなくなったような気がする。わたしの思い違いなら良いが、もしかしたら苛められているのかもしれない。年頃の子はいろいろと不安定になりやすいものだ。休憩の時にでも夫に相談してみるべきか、昔からそういった事を気に掛ける人だから。


 今日も一日頑張ろう、わたしは店頭に並べた花々を見てそう思った。


  第二部―昼行灯―


 滲んだ赤は夕焼けとして空と町を塗りつぶす。刻々と時間は過ぎてゆき、夏の乾いた空気が日没後の残光とともに辺りを撫でて通り過ぎる。僕は立ち尽くしていた。変化を求めて。


一四歳にして僕は人生に詰まった。原因は人見知り。運動音痴で歌も音痴、体育と音楽の時間は僕にとっては地獄のように苦しい時間であり、音楽の授業が始まると心中は清水の舞台から飛び降りるかのように必死な覚悟で取り組んだ。けれども周りの矢のように鋭い視線がなけなしの根性を吸い尽くし、身震いとともに声音も震えてしまっていつも皆には笑われてしまう。どうやら飛び降りたのは清水ではなく奈落だったのかもしれないと考えるのは毎回授業の終わりを告げるチャイムの時だった。


そうして打たなくても良い布石は着実に狙いを定めて打たれてゆき、僕のあだ名は昼行灯になった。意味は『役に立たない人』『存在感の薄い人』など蔑称だと分かり切っていたが、反論は許されない。


なぜなら二年一組という隔離空間は旧ソビエト連邦を疑似したかのように思えてしまう程に情報に価値があるからだ。誰かが陰口を言うと、瞬く間にその言葉は黒煙のように教室に蔓延し、言われた本人は泣くか怒るかで教室はお祭り騒ぎ。誰かが泣けば、誰かが笑う。


僕の教室は陰湿なイジメと格差で築き上げられたカースト制度が絶対であり強制であり矮小な国家のような教室だった。きっと僕が何かを呟けば、聞いた人は隣の人に、隣の人はまた隣の人に……螺旋階段のように捻じれた根性と人間関係が複雑な方程式のように入り混じっていて、もし万が一、運が悪ければ知らない間に電気椅子に座らされるように苛めの対象にされるだろう。


僕は分別のできる人間だ。肉を切らせて骨を断つ、は使い方として若干違うが、百を救う為に一を捨てるように、苛められないで済むのならば蔑称くらいは許容の範囲だ。しかし溜息は出てしまう。自分自身に満足をしていないのと、呆れからだ。変わりたい、変わらなければと。


夕闇の下、僕は趣味の散歩に飽きて家路を辿る。浅草の町に静寂が訪れるのはまだ、だいぶ先だろう。地元である浅草で育って一四年。時折道に迷うことはあるが、辺りの行路はおおよそ覚えていて、僕は迷いのない足取りで帰り道を進む。


散歩帰りに東本願寺に寄ると、小銭入れから五円を賽銭箱に落とし、願い事をする。人気者になって、みんなをあっと言わせられますように。今晩のおかずに唐揚げがありますように。お小遣いがもっと増えますように。


縦横無尽に思いつくまま願い事を次から次に吐き出していると、辺りのさざめきに混じって女性の声が聞こえた。声の方向に視線を動かすと鼻歌を歌っている黒髪の女性がお寺の山門を横切っていた。なぜだか僕はその女性に目を奪われた。


夕焼けの赤に照らされた長い黒髪は波を打ち、細い身体に白と黒のボーダーワンピースを着ている。慣れたようにピンクのヒールを履いた女性は、一点の曇りなしとばかりに晴れ晴れとした面持ちだ。僕は女心が分からない。一体どうすればそんなに幸せそうな表情になるんだろう。僕の表情は皮膚が鉄のように固くぎこちない。服装はシャツに黒のパーカーで下はジーンズとサンダルだ。お尻のポケットには薄い茶色に水玉模様が施された少し地味目なハンカチをしまっている。誰が見ても地味な子だろう。対比なんてする物じゃない。しかし話してみたい。僕は背に向けた賽銭箱の奥の本堂に願い事をまた一つ願った。


どこに向かうのだろう。彼女の背後を着いて行く。彼女は歩道があるにも関わらず、路側帯の白線をなぞるように歩いてく。小学生の頃、ランドセルを背負って自分も歩いた事があったが、おおよそ大学生程の女性がするには恥ずかしい。きっとそれをやってしまう程に嬉々とする出来事があったのだろうか。


住宅街を抜けると、横断歩道を左に渡る。そのまま真っ直ぐに直進していくと今度は右に渡る。それをいくつか繰り返す頃には雷門の所まで僕は彼女を追いかけていた。


そろそろ話しかけないと。心音が乱れながらも歩みを早くし、追いかける。しかし夕日が沈みかかっているにも関わらず、浅草は未だ旅行者や観光客でごった返す程の活気が溢れており、彼女を見失わないように仲見世通りを進むので精いっぱいだった。


朱色に彩られた左右の店舗は繁盛し、豆屋に雑貨屋、工芸品屋におみやげ屋などで客を飽きさせない。通りは人が密集しており、中々前に進めなくなった僕は不安な気持ちが降り積もっていた。彼女に近づけない自分自身に対する焦り。もう一つは門限が七時まででそれを過ぎるとお母さんが鬼のように、正確には鬼が人の皮を被っているのではと疑うほどに怒るのだ。怖いのだ。なので門限までには帰らないと。焦りで人と数回ぶつかりながらも前に突き進む。


団子屋を過ぎた辺りだった。彼女が左に曲がると、人込みに上塗りされたかのように姿が見えなくなり、僕は急いで追いかけた。しかし辺りに彼女は見当たらない、呆然と立ち尽くしていると、横から鼻歌が聞こえる。


視線を急いで向けると、どうやらドラッグストアで何か商品を探している様子だ。今度こそ話しかけよう。チャンスは今しかない。自然体で行けば彼女も困らないはずだ。


「お姉さん、かわいいね。俺とデートしない?」


両目を大きく開いた、開いた口が塞がらない。僕の手前に居たポロシャツに短パンを穿いた男がタイミング悪く彼女に話しかけていたのだ。なぜこのタイミングで横やりを入れてきた。男はニヤニヤと気持ちの悪い笑みをしており視線は上から下へ、彼女の身体を透視でもしているのか。そんな不埒なこと駄目だ。不健全だ。一刻も早く彼女を救出しないといけない。その思いに突き動かされた僕は彼女と男の間に割り込もうとしたが、それよりも早く彼女の言葉が男の体を硬直させた。


「予定あるの。わたし」


 それを聞いた男は渋るように口をすぐさま動かす。


「ちょっとだけ! 少し寄るくらい良いでしょ? ねぇねぇお願いだよ」


 諦めの悪さもそうだが、気持ち悪い。この手の部類の男は昔から嫌いだ。赤の他人だが、僕がきっちりと言って、この男の魔の手から彼女を遠ざけなければ。しかし、またしても僕の行動が始まることはなかった。


「しつこい男は嫌われるわ。さよなら」

 ぴしゃりと言葉を言う彼女は、眉一つ動かさない。僕はますます彼女に興味が湧いてきた。どうしてそんなにはっきりと言えるのだろう。僕にない何かが彼女をそこまで強くさせたのだろうか。


「あぁ、そうかい。そら残念だ」


 予想外に男は引き下がった。どうやら彼女に一ミリすらの脈を感じなかったので早々に諦めたのだろう。男は僕を通り過ぎると今度は後方の団子屋で並んでいる女の子達にちょっかいを出し始めた。見た限り女の子らの反応としてあちらも望み薄だ。


今度こそ話しかけようと僕は彼女の方向に振り向いた。しかし彼女は欲しいものはなかったのか、何も買わず店を出て真っ直ぐに進んでいた。先ほどのナンパでなぜだか何も関係のない僕が疲れを感じている。彼女は十字路に差し掛かると右に進む。店舗が連ねて並び建っている大通りには、なおいっそうに左右に大きなショッピングモールが建っている。しかし彼女は興味がないのか、目もくれずに突き進む。きっと先程のドラックストアに立ち寄ったのは友達との待ち合わせ時間の暇つぶしだろう。名探偵のように推理した僕は、はっとその先の事までも推測してしまう。


 彼女はもう立ち止まるような時間の余裕はない、つまり僕と話す時間もない。じゃあここまでの経路は?意味なんてなかったのか?


いや、諦めるのはまだ早い。全てが徒労に終わるにはまだ早すぎるぞ。人見知りの僕だが女性の一人や二人、話しかけられるさ。彼女の都合を考えれば大変申し訳ないが、きっと許してくれるだろう。僕は決心して彼女との距離を詰めていく。


「あの……少しばかりお時間よろしいでしょうか」


 声が出ると言うよりも声が漏れるが正しいように震えた声が辺りを彷徨う。


「何してんの? こんな遅い時間にさ」


 僕の震えた声よりも今度は身体が大きく震えた。なぜなら僕の言葉は彼女には聞き取れなったのか依然、足取りは変わらずに前を進んでいる。しかし返事をするように声は聞こえた、後ろから。


「どうした? お前がこんな遅い時間まで遊んでるのは珍しいな。何かやってたのか」


 聞き馴れた声に振り返ると、幼馴染の祐二郎が珍しいものを見るかのような視線で話しかけていた。右手にはファーストフードのテイクアウト用の紙袋を持っている。


「ちょっと……気になった事があっただけ」

「え? 小声過ぎて聞こえないから悪いけど大きな声で言ってくれよ」


 本当に聞き取れなかったのか、左耳をこちらに寄せてくる祐二郎に僕はうんざりした表情で返事をする。


「気になった事があっただけだよ」


 今度は良く聞き取れたのか、満足したように祐二郎は笑った。


「気になった事は済んだのか?」


「それは……」


 僕は振り返り前方を見つめるが、彼女の姿はもう消えていた。今までの行為も徒労に終わってしまった。


僕の様子に気を遣ったのか、祐二郎は提案するように話しかけてきた。


「不完全燃焼なのか分かんないけどよ。こんな時は浅草寺で気分転換に祈って帰ろうぜ。もう遅いしさ」


 夕日は殆ど沈みかかっている。暗闇が辺りを飲み込むように浸透していた。


今日は既に東本願寺で願い事を祈ってきたんだけれども、とは言えず、僕は幼馴染の心配りを無下にするのは嫌だったので頷いた。


 僕たちは大通りを前に歩くと交番の辺りを右側に進む。そのまま真っ直ぐ歩いて行くと浅草寺が見えた。夜に包まれた浅草寺は朱色を一切残さずに黒に溶け込んでいた。夕日も完全に沈み、もう遅い時間だ。お母さんには怒られるだろう。辺りには人は少なく、賽銭箱の手前にある階段をゆっくりと上がる。階段を上がっていると隣に居た祐二郎が呟いた。


「お前、学校で何か嫌な事あるなら力になるからさ。ちゃんと言えよ」


 動揺して階段を踏み外しそうになった僕の肩を掴んだ祐二郎の顔は真面目だった。悩み事は幼馴染には筒抜けらしい。


「大丈夫だよ。これは自分の力でなんとかしないと。それに自力で解決しないとこれからずっと同じ事で悩み続ける気がする」


 祐二郎は最初は何か言いたそうに口が迷いのある動きをしていたが、僕の表情を読んだのかそれ以上何も言わなかった。


 賽銭箱に小銭入れにある全額を投げ入れると、僕は一つだけ願った。『自分に自信を持っている彼女のようになれますように』


 夜が静寂と寒気を連れてくる。僕は少しばかりの肌寒さを感じていた。不意に隣から突き出された手に驚くと、祐二郎が笑う。手にはファーストフードのテイクアウト用の紙袋の中にあったのだろうか、ハンバーガーが握られていた。


「食べろよ。俺、大食いだから三個も買ってきたからさ。一個やるよ」


「ありがとう。お腹空いてたんだよね」


 僕は舌を鳴らすようにハンバーガーを頬張る一方、お母さんにこっ酷く怒られるだろうなと確信していた。夜ご飯はきっと食べられないだろうし帰りも遅くなるからだ。


 食べきると祐二郎にお礼を言いつつ、急ぎ足で階段を下る。しかし帰路に就こうとした矢先、視線が浅草寺で煙を体に扇ぐことで有名な常香炉の左にある植木、その下に咲いた数本の白い花に止まった。


植木の影にひっそりと隠れるように咲いた数本の花々は枝や葉から漏れる月明かりに照らされていた。


いつから咲いていたのだろうか。誰かが悪戯に種を蒔いたのかは分からないが、とてもその景色が綺麗に思えた。


「あれ? 珍しいな、前から咲いてたっけ?なんて名前だろう」


 祐二郎が食べ終えて階段を下り、同じ花を見ると言った。


「たしか、エゾギクだった気がする」


 僕は不確かながらも記憶を探ると言う。


花言葉は『私を信じてください』だったはずだ。僕がどうして花に詳しいのかというと、家が花屋だからだ。しかし、家の手伝いくらいでしか花とは関わらなかったのであまり知識豊富とは言えない。


「もう遅いし、帰るか」


 興味を失った祐二郎は帰路に就く。僕も後ろを追いかけるように歩き出した。一度だけ振り返ると白いエゾギクは夜の冷たい風になびいていた。


  第三部―黒髪の彼女―


 三年ぶりの故郷である浅草に着いたわたしは興奮していた。朱色に彩られた店舗に溢れんばかりの人口密度! 常にお祭り騒ぎのように騒がしいこの風景を心地が良いと思える日が来るなんて!ああ、全てが懐かしい!


 わたしは鳴りやまない心音と共に雷門の下を潜り突き進む。お気に入りのワンピースと長く伸びた黒髪が風にはためいて波を打ち、少しばかり高いヒールの音がカツカツと鳴り続く。高校が京都になったわたしは寮生活を満喫していたが卒業後、大学は都内にする事を決めて浅草に戻ってきたのだ。そして今日は三年ぶりに地元の友人に会う。


いや友人と相手は思っているのかもしれないが、わたしとしては意中の人だ。恋だ、好きだ、の相手なのだ。


 寮生活中もメールでコツコツと連絡をとっていたが、実際に顔を合わせるのは三年ぶりで緊張をしてしまう。ヒールにはまだ慣れていないが身長が少し高くなるばかりか、気持ちも少しだけ高ぶるような気がする。わたしは満面の笑顔で仲見世通りを進んだ。


 久しぶりの浅草は呆れるほどの混雑具合で、人の間を縫うように進むわたしは何故だか誰かに見られているような気がした。気になったわたしは後ろに振り向くと、溢れんばかりの人の多さに怯む。


 都会に戻って日も浅いので無意識にストレスを感じているのだろうか。そう思ったわたしは団子屋の辺りで左に曲がり、仲見世通りほど人が多くはない通りを進むことにした。


待ち合わせは四時半と少しばかり遅い時間帯だ。少し早く浅草に着いたので時間つぶしに丁度近くにあったドラッグストアに寄る事にする。様々な商品が並んでおり、わたしは染毛剤のコーナーで立ち止まった。


 最近は髪の色が明るい女の子が増えている。わたしは自分の長く伸びた黒髪が気に入っているが、果たして彼はどんな子が好みなのだろうか。場合によると、茶髪ぐらいには染めたほうが良いのかもしれない。わたしは染毛剤のブラウンのパッケージを取ると、商品説明に目を細めて読んだ。ツンとした臭いが残らないタイプもあれば、ツヤツヤに仕上がると書いてある商品もある。同じ色でも様々な仕上がり具合があるらしい。


 奥が深いな。むむ、何もドラッグストアにある商品が全てではない。髪を染めるのであれば多少値は張るが、美容室や床屋で染めるのも一つの選択肢だ。これは困った、彼に会った時にわざとらしくないように聞いてみるべきだろう。


夢中で染毛剤のパッケージを見ていると、わたしの天敵とも言えるあからさまに軽そうな男が話しかけてきた。この場合の『軽い』は体重を示しているのではなく、女性付き合いが『軽い』だろうと示している。いや、よく見たら一般平均男性の脳みその三分の一程度くらいしか詰まってなさそうな表情だ。脳みそが軽い分、体重も軽い可能性がある、あながち軽いは両方の意味でも使えるかもしれない。


「お姉さん、かわいいね。俺とデートしない?」

「予定あるの。わたし」


 ぴしゃりと切り捨てるように言うと、男は一瞬だけ目を大きく見開くと同時に体を硬直させたが、持ち前の『軽い』脳みそでわたしの言葉を一秒ほどで右耳から左耳に素通りさせたのか尚も諦めずに話しかけてくる。


「ちょっとだけ! 少し寄るくらい良いでしょ? ねぇねぇお願いだよ」


 これだから嫌なのだ。しつこい男は嫌われると母親の子宮の中でちゃんと教えてもらわなかったのだろうか。いや、流石に教えてもらえてないだろうな誰も。


わたしは脳内で冗談を膨らませつつも、この状況を打破するために口を尖らせて言う。


「しつこい男は嫌われるわ。さよなら」

「あぁ、そうかい。そら残念だ」


 男はすぐに引き下がった。こういった軽い男は行動も木の葉のようにヒラヒラと薄く軽いので後腐れもなく他の子にも話しかけるだろう。他の子の安否を願うと、わたしはまた厄介ごとに巻き込まれないよう早めに待ち合わせ場所に向かうことに決めた。


通りを真っ直ぐに歩いていると、何故だか視線のようなものを感じた。先程の軽い男の可能性もある、目を合わせるのが煩わしいので後ろは振り向かずに歩く。十字路を右に曲がると店舗が連ねて並び建っている大通りを進む。普段のわたしなら左右にある大きなショッピングモールに寄りたいところだけれども、先程の出来事もあったので寄り道はせずに歩いた。


しかし、視線が段々と強まる気がする。背後に居る人物との距離が縮まってきているのだろうか。背筋が凍る思いで待ち合わせ場所に向けて足取りを速める。しかし、突如腕を掴まれたわたしは小さい悲鳴を漏らした。


「姉ちゃん。これ、落としたよ。歩くの早いからずっと追いかけちゃった」


 背後から投げかけられた言葉にわたしは硬直した身体をゆっくりと後ろに振り返らせる。すると小学生ほどだろうか、男の子が立ってわたしにハンカチを突き出していた。そのハンカチは中学生時代から愛用しているわたしの物でまず間違いなかった。薄い茶色に水玉模様が施された少し地味目のハンカチだ。雷門辺りで落としてしまったのだろう、ずっと感じていた視線の正体はこの子だったのだ。


「ずっと追いかけてくれたんだね。ありがとう」

「本当は途中で渡せたんだけど、恥ずかしくて」

「いいよ。ここまでありがとうね」


 わたしは自身の胸の高さほどの男の子の頭を撫でると、お礼を言った。男の子は少し照れたように笑うとハンカチをわたしに手渡してくれた。


「もう落とすなよ。じゃあね」


 手を振り、男の子の後ろ姿を見送ると、待ち合わせ場所に向かう。待ち合わせ場所は少し先の交番の隣にある大きな朱色の鳥居だ。


交番の辺りが見えてくるとわたしは目を大きくして驚いた。なぜなら待ち合わせの時間にはまだ三十分ほども早いはずなのだが、彼は既に鳥居に背を預けてわたしを待っていたからだ。久しぶりに見た彼の印象は身長が高くなっている以外は昔と変わらず、わたしはとても安堵した。どう彼に話しかけようか、最初がとても肝心だ。彼はわたしを見てどう思うのだろうか。このまま悩むと待ち合わせの時間まで過ぎてしまいそうだ。そう思ったわたしは大博打を打つように彼との距離を縮めた。彼はわたしの存在に気が付いたのか、最初はぽかんとした表情をすると、次に疑いの眼差しで見つめ、次第に口元が痙攣するように震えると大声で笑った。


「お前、可愛くなりすぎだろう!」

「久しぶりだね。『祐二郎』」


 夕日が赤く、空や町を染め始めていた。わたし達は昔一緒に行った浅草寺の階段に座っている。ここの景色は何一つ変わらない。変わらない事が良いこともあれば、悪いこともある。わたしはあの日願った『自分に自信を持てる彼女のようになれますように』と。


昔は地味で髪も短めだった頃のわたしは、中学に上がると些細な苛めにあっていた。祐二郎だけがいつも変わらずに接してくれていたが、教室内の陰湿な囁きがとても怖くて仕方なかった。全てに自信がなく自分自身が女性であることさえ自信が持てなかった。だからかいつしか無意識に壁を作るように一人称を僕と言うようになった。


そんな日々がずっと続いた。しかしあの日、あの自信に満ち溢れた彼女を見た時からわたしの中でさざめきがずっと続いた。このままじゃ駄目だ、変わらないと、と。それからの行動は早かった。もともと中学三年生で高校受験は志望校もなく、家から近い学校にするつもりが急遽変更して、京都にある女子高校を目指すことにした。勉強は毎日絶えず進めた。あの頃は誰もわたしのことを知らない環境で一から変わりたいという一心で遠方の高校を受験したのだ。そして髪も伸ばして女の子らしく口調もわたしに直した。服装も普段着は地味目のものを良く選んでいたが、雑誌などを参考に見て、スカートやワンピースを着るようにしてオシャレを学んだ。


高校に入学する頃にはわたしの外見はとても女の子らしくなっていたが、それだけではまだ足りなかった。高校で知り合えた友人や教師と積極的に会話する事で自分に自信を徐々につけていき、毎日絶えず勉強をしていた習慣は高校生になっても続いていたので学年内成績ではずっと上位というのもあり、それも自分自身への自信に繋がったことでようやくわたしは変わることができたと実感を得た。


そしてわたしは帰ってきた、浅草に。


「でも、女っていうのは変わる生き物だよな。本当びっくりした」


 祐二郎はまだ先ほどのことを思い出しているのだろうか、わたしを見ると両方の眉を上に引き上げて笑いだす。もうこれで三回目だ。


「変わらない想いもあるよ」

「え? ごめん、声が小さくて聞こえなかった」


 本当に聞き取れなかったのか、左耳をこちらに寄せてくる祐二郎にわたしは満面の笑みで呟いた。


浅草は夕日の赤にすべて包まれていた。階段を一緒に下るわたし達の後ろには影が薄く伸びていて、ゆらりと揺れた。


ふと、この先のことを考えてみた。実は女の子らしくなる為に様々なことを学んでいたが、途中から楽しくて夢中で勉強したものがあった。


花だ。最初は友人の誕生花などを調べて教えることが好きであったが次第には花の形や色、意味などを勉強していくと、夢中になれた。大学を卒業したら実家の花屋を手伝うのも良いかもしれない。これも変わりたいとあの時願った賜物なのだろうか。そう思うとなぜだか笑えてしまう。


「これからどこに行こうか」


 後ろを歩いていた祐二郎が聞いてきた。わたしは振り返ると、彼の眼差しを見つめ返して言う。


「昔ここで食べたハンバーガー、おいしかったね」

「ただのチェーン店だけど寄るか?」


 祐二郎はやっぱり中身は変わってないな、と言っているかのように首を横に振ると笑う。


「そういえば昔咲いていた白い花まだあるかな」


彼は探すように植木の下を見ると、しばらくしておっと短い歓声を上げてわたしを手招いた。


 植木の下には昔と同じ白いエゾギクが咲いていた。以前と違うのは夕日が染める残光に照らされて花は赤く輝やいて見えるようだった。わたしは赤いエゾギクを見つめると、祐二郎に向けて笑う。


「女心が分かってないなー、祐二郎は」


  第四部―母親―


夕暮れ時、懐かしい思い出がわたしの胸をいっぱいにした。なぜだか息子のことを考えていると当時の自分を思い出してしまう。


わたしはインターネットでの注文を確認すると、花々を箱に傷つかないよう丁寧に詰めて宅配便の準備をする。するとドアを開ける音と重ねてドアに備えたベルがカランと鳴った。「いらっしゃいませ」わたしはそう言いながらやりかけの作業を中断するとスタッフルームから出てレジの前に立つ。


 大学生ほどの男性が来店していた。男性は両端に置かれたそれぞれの花々を入念に重視すると、もう一度最初から店頭に置かれた花から店内まで見て回る。


わたしが何か探している花があるのだろうかと思考している時だった。男性は恥ずかしそうな表情を努めて平静を装った顔付きで話しかけてきた。


「あの、彼女にプレゼントしたいんですけど、何かおすすめの花ってありますか」


 女性に今まで花をプレゼントしたことがないのだろうか、男性はとても恥ずかしそうにわたしに尋ねてくる。


「女性へのおすすめのプレゼントでしたら赤いバラやガーベラがおすすめですね。赤いバラには『あなたを愛しています』という花言葉がありますし、ガーベラには『希望』の花言葉などがありますよ」


 わたしはそう男性に言った瞬間、しまったと顔を顰めそうになるのを必死に堪えた。前々から発注を受けて、今日は昼頃に結婚式の業者の方に人気のある花はおおよそ売ってしまったのだった。自分で言った矢先、既に完売していたことを思い出したわたしはすぐさまに訂正の言葉を言う。


「大変申し訳ございません。本日はどちらの花も完売でございました……」


 男性は一度驚くと、考え込む。すると数秒を待たずに口を開いた。


「今販売してるのでおすすめの花はありますか?」


 わたしは思考する。お店に置いてある中の花々でおすすめの一つを、あまり考え込むとお客に失礼だ。焦りと急ぎで平静さを失いつつあったわたしに、何故だか昔の記憶が自然と花の名を呼ばせた。


「……赤いエゾギク」

「え? その花がおすすめなんですか」


 男性は聞き返すとこちらの応答を待っている。しかし、焦りで自然と口に出してしまった花の名だ。急いで訂正しなければ、けれども時遅く男性はしびれを切らせて聞いてきた。


「その花は、どんな花言葉なんですか」

「……『追憶』や『変化を好む』です。彼女に贈るには余り適していないですね。大変申し訳ございません。」


 男性は静かに笑った。その笑いはプレゼントへの的外れな花言葉を選んだわたしへの苦笑だと思えた。しかし、次の男性の言葉で耳を疑った。


「ありがとうございます。赤いエゾギクにします」

「よ、よろしいのですか? あまりプレゼントに向いた意味の花ではございませんが」

「いえ、実は彼女と喧嘩中で……それで花を。だから花言葉の意味がちょうど良いなって」

「ありがとうございます!」

「どんな花なんですか」


 男性の問いにわたしは赤いエゾギクの置いてある場所に向かうと花を優しく手に取り、彼に手渡す。


「このお花、とても綺麗ですね」

「はい、わたしが一番好きなお花です」



いかがでしたか?あなたはどの場面で謎に気が付きましたでしょうか。

楽しんでもらえたのなら嬉しいです。

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