0 〈落ちた世界で〉
ここから一人称です
しがないOLの私、立花夕梨は今年二十六になる。しかし旦那なし彼氏なし男友達なしの枯れたプライベートを送る寂しい女だ。周りは結婚ラッシュに入り次々とゴールインしていくなか、私だけがその流れに乗れず肩身の狭い思いをしている。こうなりゃ仕事に打ち込むしかないと一念発起しても回されるのはやれば誰でもできる事務仕事ばかり。
なんだかなぁと、仕事もプライベートもどこか息詰まりな感じがして、それでも満員電車に揺られる同じサイクルの毎日を送っていた。
今日も、普段と変わりなく、ちょっとした残務処理を済ませて帰っていたところ。
歩きやすい低めのヒールは音が鳴らないという謳い文句に誘われて買ったもののコツコツをしっかり音を立てていて、それに憤りを感じないくらいには履き慣れ始めていた。その靴を履いた足が踏み出した先に、突然ポカンと黒い穴が開いた。
「えっ、」
私は何事かと思う前に、その黒い穴へと重力に従い落ちていった。いきなりのことにどうすることもできないまま。
穴の深さを感じる以前にポンと放り出されるようにして地面に落ちた。長かったような一瞬のような、少なくとも頭が冷静になるくらいの時間はなかった。だから穴が深いかどうかはわからなかった。
落ちてきたわりには落下の衝撃はなく、痛いところもない。なんだなんだと混乱したまま、周りを見渡すが一面の木々。見上げた空には紫の月が浮かんでいて、明らかに知っている世界のものではないことがわかる。
「どこよ、ここ……」
思わず情けない声が漏れた。
ようやく自分が突然現れた穴に落っこちて、都会にはありえない見知らぬ森の中に立っていることを理解できたあたりで、周囲にたくさんの鎧を着た人が集まっていることに気づいた。え、なにこれ。本当に。
呆然と辺りを見回していると同じ誂えの鎧を纏う人たちの中で一際豪勢な鎧を着た人が乗っていた白馬から降りて私の目の前で跪いた。
その人が跪くと周りの人たちも一斉に跪き、胸に手を当て頭を下げる。そして間を置かずに白馬の人は明朗な声で言った。
「我が国へようこそ、巫女さま」
私が落ちてやってきたのはトランシルベルン王国という、地球では聞き覚えのない国だった。白馬の背に乗せられ城へ向かう道中で聞いた話と起きたことを端的に表現するならば、所謂異世界トリップってやつ。
ラノベ世代ど真ん中だった私は友達に借りた本でそれを知っていた。過去にそんなファンタジーに憧れたこともあったけどそんなの十代までの話で。大人になり世界が広がると同時に忘れていった、その程度のもの。つまりリアルに起きてなんて欲しくなかった。いくら待っている現実が枯れ果てた残念系OLだったとしてもだ。家に帰りたい。
「まずはそなたの名を聞かせてもらおうか」
そういったのは金色の立派なヒゲを蓄えたジ・王様って感じの人間だった。不思議なことにどう見たって西洋系の人種なのに言葉に不自由しないのはファンタジー補正というやつだろうか。ありがたいけど吹き替え映画を見ているようでどこか違和感が否めない。
「えっと、立花夕梨……、ユーリ・タチバナって言った方がいいんでしょうか」
「ユーリか。わしの名はフィガロ・ヴァン・トランシルベルンだ」
ジ・王様はガチの王様らしい。だって国の名前を名乗るってことはそういうことだったよね? ラノベ的に。
「そなたがここに落ちたのは、偏に使命があるからだ」
王は異世界人の私がここにいる理由をもっともらしく述べた。あれかな、「魔王を倒せ!」とか言われるのかな。
「我々には予てより覇権争いをしている種族がいる。どちらも同じような戦力のため争いは長いこと均衡したままだった。だが、それも今日までの話。
そなたは神より遣わされし風切りの巫女だ。そなたこそ我らの勝利の証。──かの族の首を、然して、王の首を取って参れ」
ちょっと待って、意外と想像通りのことを言われたけど予想以上に血生臭いこと言われなかった?
「それって……拒否権、あります?」
「役目を果たさぬ巫女に用はない」
あーはいはい、ないってことですね。王様の目、マジだ。拒否ったらこの場で首と胴体がサヨウナラしてもおかしくない感じ。周りにぞろっといる兵士もどこか殺気立っているし。腰にぶら下げている剣が偽物ってことはないんだろうな。
だけど首を取る、つまり死にたくなかったら殺せって、現代日本人からしたら途方もない選択だ。生きたいか死にたいかと聞かれたらもちろん生きたいけど誰かを殺してまで生きたいかと聞かれると……答えに困る問いだ。
「巫女よ、迷っている時間はない。こちらにそなたが現れたのということはあちらにも生まれているのだ」
私の表情を読んでか、王様はいかめしい顔をさらに凄ませて言う。普通に怖いんですけど。
「だ、誰のことでしょう……?」
恐る恐る尋ねた。私、異次元の住人で、まだこの世界に落ちて一時間(体感)も経ってないので教えていただけますか……。
「次代の王だ。かの族は代を経るごとに力を増していく種族でな、次に生まれる王は確実に時代を変えると言われている。ゆえに生まれてくる間隔も他とは違う。かの族にとって三百年ぶりの王だ。それが成体になるまでに覇権を制さなければ、滅ぶのは我らだ。……無論、そなた諸共な」
「私がいれば勝てるけど、次代の子が王になると負ける……ということですか」
「そういうことだ」
それって、結構詰んでるよね。……だからか、王様からする威厳のわりに余裕が感じられないのって。彼らは相当追い詰められてるらしい。
「……あのーちなみに私がこの世界から帰る方法ってあったりします?」
「あると思うのか?」
ですよねー。だいたいこのパターンのお話に帰る方法なんてないですよねー。それに追い詰められてるのに勝てるチャンスをみすみす逃すなんてことしないよねー。あったとしても教えてくれるわけがないってことだ。
はあ……どの道、私に帰る方法なんてわからないのだからここで生きていくしかない。ってことは私に課せられた使命とやらを果たさなきゃいけないのか。じゃないと諸共死んじゃうらしいし。
「私がやるべきこと、教えてくれますか」