14 〈穏やかな時間は〉
「そう、そこを押さえて」
「こうか?」
「うん。そしたら唇を薄くして、優しく息を吐いて」
「ん……」
指二本ほどの太さの横笛に口を付け、力を込めすぎないように息を出した。
けれど笛から聞こえたのは掠れた情けない音で。
「んん……なかなか難しい」
「音を出すのが第一の関門だからね。一回出たらコツも掴めるよ」
「練習あるのみか」
「まあね。でも時間はたっぷりあるし、気長にやろう」
「そうだな」
真実を打ち明けあった私たちは、心の壁もなくなりお互いをただ労わりながら平穏な時間を共に過ごしていた。
魚や肉を食べるようになったアインは痩せこけた体から脱し始めており私よりも低かった背は同じくらいになった。このままであれば私を抜くのも時間の問題かもしれない。
「風はまだ騒ついているのか」
遠くを見つめる瞳は寂寞が滲む。
「……少しね。禁忌というのは死んでもまだ彼らを苛むらしい」
「難儀なものだな……。私の世界でいえば地縛霊みたいなものなんだろうか」
「それって何?」
「死んだ後も死んだことを受け入れられなかったり、死後も場所にとらわれて成仏……つまり死んでも死にきれないもののことを言うのかな」
「確かにそうかもしれない。先祖の声は、精霊のひとつだから大切にしろっておばば様は言っていたけれど、今の彼らは導く相手のいない怨念みたいなものだよね」
「怨念か……余計彼らにとってはこの状態は受け入れがたいものがあるだろう」
なんせ仇同士である私とアインが同じ場所で生きているのだから。
「彼らはまだいいよ」
「どうして?」
「だってこちらに干渉する力はもうないから」
風を通して声を伝えることくらいしか出来ない。肉体を失っていても思念体として残存することを“くらい”と軽く言えてしまう感覚は人間の私にはよくわからなかったが、アインにとってはその程度のことらしい。
幼い頃よりそばにあったからだろうか。良いか悪いかはともかく慣れ親しんだものゆえの気安さは私にもわかった。
「それよりも……」
「気になることがあるのか」
「ちょっとね」
「……私はこの世界のことをあまり知らない。だから助けにはなれないけれど、共有したいと思う。なんでも話して欲しい」
「…………うん、そうだね、ユーリも知っておいたほうが良い」
急に大人びた顔になったアインは憂いを見せつつも、声はしっかりとしたまま話し出す。
「神はいつまで僕らを許してくれるのか……今はそっちのほうが不安だよ」
遥か向こう、遠くの空に雷が落ちるのを見た。真っ黒な雲を従えて、青空を侵食しようとしているそれは何か意志を持って蠢いているようにも見えた。
アインの不安は私の内にも実感を伴って存在していた。初めはよくわからなかったそれはアインと心を開きあってから鮮明に感じるようになった。今は体の痺れとなって表れている。たぶん、神より与えられし風切りの力が内側から警告しているのだ。
──有翼人を殺せと。さもなくば身を滅ぼすと。
現状では生活に支障が出るほどのものではないけれどこれが増せばどうなることか、わからないほど子どもではなかった。
今は一点のシミほどの小さなあの暗雲がこちらに来る頃にはきっと目に見えてひどくなるのだろう。そんな予感がした。
「ユーリは平気?」
アインの肌は粟立って体は寒さを感じているように小刻みに震えている。ここは陽射しの当たる暖かい部屋だ、アインは寒いわけではない。きっと自分でも震えていることに気がついていないはず。
本能的に体がこれから起こる出来事を恐れているのだ。もっともそれが具体的にどんなことなのかは私にもわからないけれど。
「アインよりは平気だ。こっちにおいで」
ふらりとした足取りでいささか重みの増した体が凭れ掛かってくる。
「これからどうなるんだろう」
「……さあな」
「僕が生まれる前にも、有翼人と人が結ばれることはあったらしい。ヒトのメスが戦場に出ることは滅多にないらしいけど有翼人はあまり性差がないから戦に出たメスの有翼人とヒトのオスが何の悪戯か結ばれることが……」
「そうなのか」
聞いたことのない話だった。人の側では言い伝えや噂すら揉み消されていたのかもしれない。
「うん。でも皆、殺された」
「…………それは」
「僕の父と母と一緒さ。禁忌を犯したふたりは共に生きていくことすら許されない。有翼人からも、人からも、…………世界からも」
じゃあ私たちはどうなるのだろう。私とアインは男女の仲ではないけれど私にとってアインは唯一無二の存在だ。私の失われたすべてはアインによって補われている。もう二度と失いたくない。
「もう、ひとりはいやだよ」
ようやく埋まった隙間に再び穴が開くなど耐えられないのは、アインとて同じようだった。




