一話 野狐
ーーーー失う夢を見た。
何を失ったんだろう。夢の中ではよくあることで、思い出そうとすると片っ端から白く塗り潰されていく。砂をすくっているようなもどかしい気持ちになる。
(俺がもっと強かったなら)
ふとそう思った。自分が強かったなら。ーーそうしたら、守れただろうか。
わからない。わからなくて苦しくなる。息ができなくなる。
苦しい。
苦しいーーーーーー
「あ、起きちまった」
「ぷっはあ!」
途端に肺に湿った空気が流れ込んできた。周りが明るい。真っ白で何も見えない。ただ、誰かがいるらしい。
何度か瞬きをして目を慣らすと、次第に周りのものが見えてきた。文字通り俺の目と鼻の先にある手。その中途半端なポーズはまるでさっきまで何かをつまんでいたようで。
「俺の鼻つまんでました?」
「寝てる奴見るとやりたくなるもんでね」
手が引っ込み、代わりにいたずらっぽい目が俺を覗き込んだ。その瞳孔がきゅっと細くなる。ああ人じゃない、と思った。むしろ自分に近い気がした。
「あなた、誰ですか?」
「そういうのはまず自分から名乗るもんだぜ?ま、敬語外さないだけ褒めてやるよ。お前、どこからどう見てもただの薄汚れた阿紫だもんな」
悪かったですね薄汚くて。ぶすっとふくれてふと自分の体を見ると、確かに薄汚れていた。これでは言い返せない。そして野良であることも否定できない。
彼の方は尖った歯を覗かせて「ほら、名前」と俺を促した。
「名前くらいあるんでしょ」
「俺の名前……は、えっと、琥珀」
自分で口に出してから、そうだこれが俺の名だ、と気付く。なぜそんな名前になったんだっけ。
「琥珀、ね。目が琥珀色だからかな?へえ、僕も似たようなもんだよ。僕は蘇芳。やっぱり目の色から。そんで、もう気付いていると思うけど、僕は人間じゃない」
華麗にとんぼ返りを決めた少年の姿は、下草に覆われた地に足がついたときには黒い狐の姿になっていた。尻尾が三本、ゆらゆら揺れた。
「だがただの狐と思うなよ。聞いて驚け、崇めろ讃えろ跪け!僕は……気狐だ!」
「はあ。何ですかそれ」
「……知らない?」
ふんぞり返った姿勢のまま目だけが俺を見る。嘘だろと言いたげな視線。多分妖狐の一種なんだろうなとは思った。でも妖狐の種類なんて俺は詳しくないし、そのキコ?というのがどのくらい偉いのかも知らない。強いのかな……くらいは考えてみた。
「今、僕が強いかもって考えたろ」
「顔に出てました?」
「まあ、本物の妖狐を前にしてそう思う奴は多いからなー。うん、少なくともお前よりは強いよ」
「俺も強くなれますかね、同じ狐なら」
「ほう?」蘇芳は面食らったように目を見開いた。
「琥珀、強くなりたいの?」
「はい」
ぱちぱちと赤黒い目が瞬たいた。「へえ」首をかしげて俺を見つめる。
「なんならさぁ、僕と来る?修行次第ではなれるけど?」
修行?
「そ。僕は弟子入り大募集だよ」
ニマッと笑った。それに誘われるように前足を一方踏み出そうとした、
その時だった。
「おらぁーーーーーーーーっ!」
白い矢だと思った。「ぐへっ」なんて声をあげて黒い体が吹っ飛ぶ。
突っ込んできたのは白い狐だった。しかも大変御立腹の様子。毛を逆立てて蘇芳を睨み付けていた。
「いってー……何だよ、弟子とっちゃ悪いかよ」
対する黒は軽い口調。
「当たり前だろこの悪狐が、とっとと失せろ!何も知らないからって若い子をお前らの道に引きずり込むな!宇賀神様も大変迷惑していらっしゃるんだぞ!?『そのうち悪狐どもを取り締まらねばなぁ……私はすぐ祟るような短気な神ではないと言っておるのに……悪い噂とは恐ろしいものだ……』とな!」
「翡翠、声真似上手いな」
「うるさいっ!どっか行け、行っちまえ!」
「はいはい、分かりましたよー」
尾をこちらに向けて何歩か走り、やがて彼は溶けるように虚空に消えた。はぁー、と白い狐はため息をついてこちらを見た。
「途中から聞いてたけど、あんな奴についていくんじゃないぞ。前も蹴飛ばしてやったはずなんだがな……懲りないか。あいつときたら、人間の困り顔を見ることに悦びを見出だしてるからな」
「悪狐って言ったの、そういうことですか」
「ん、まあな。それで、お前は強くなりたいんだっけ?強くなってどうするわけ?」
改めて言われると、どう答えるべきか迷った。口を開くと別の言葉が出てきた。
「あ、あなたは?」
「えっ、オレ?オレは……兄がなるって言ったから一緒に……そんだけだ。って、今はお前!お前に訊いているんだって!」
「あっ!そうですね、俺は、うーんと……なんとなく、ですけど。今の俺は非力なただの野良狐ですけど、力とかあったらなにか守りたくなったときに役立つかなって……駄目、ですかね?」
翡翠の瞳が妖しい光を放つ。
「何か、失ったことがあるのか」
「え?さ、さあ……?」
俺は視線を下に落とす。言われてみればそんな気もしたけど、確信はもてなかった。ここは濁しておくのが自分のためにも良さそうだ。幸いにも、彼はこれ以上訊いてはこなかった。
「じゃあ、お前は修行したいと。分かった、半端に投げ出すんじゃないぞ。よろしくな、えーと……」
「琥珀です」
「よろしく、琥珀。オレは翡翠」
「よろしくお願いします、翡翠さん」
翡翠が言うには、いきなり修行はできないということだった。
「受験があるんだ」
その場所と修行にふさわしい山に連れていく。
さっさと遠ざかっていく六つの白い尻尾を追いかけ、俺はようやく前足を踏み出した。
* * *
琥珀
主人公。強くなるために修行をしている雄の狐。目が琥珀色。基本的に敬語で話す。師匠のことは「~師」と呼ぶ。
蘇芳
赤黒い目、黒い毛、三本の尻尾をもつ気狐。人に害を与える悪狐であり、軽い態度ではあるものの、意外と義理堅いところがある。何故か琥珀を気に入っている。
翡翠
琥珀の一の師。緑の目、白い毛、六本の尻尾をもつ仙狐。宇賀神に仕えている。人語の言い回しが苦手で、人間姿だと無口になる。瑪瑙の弟、蘇芳の腐れ縁。
宇賀神
俗にお稲荷さん。部下に仙狐達を従えている。天狐や空狐と酒を飲んだりするフレンドリーな性格。悪狐達のせいですぐ祟る神様呼ばわりされるのが最近の悩み。