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ティーンズ

作者: 劉之介

 風を切る音が、僕の腕を掴んだ。自転車の車輪はすでに錆びついている。僕はその鉄の重さに負けないようにペダルを強く漕いだ。

 自転車は、会社の通勤でよく利用する。価格は十二万。電動自転車だ。サラリーマンのイメージと言えば通勤電車が思い浮かぶが、僕はあえてこちらを選んだ。学生時代から窮屈な通勤電車に乗る平凡なサラリーマンにだけは、どうしてもなりたくなかったのだ。その思いを胸に大学にも入ったが、結局は白いワイシャツにネクタイという恰好で、忙しい日々を送っている。自転車通勤は、その当時の思いを果たすための細やかな抵抗だ。

 電動式というとお金がかかるイメージだが、実は電車通勤よりもお金がかからないそうだ。数年の期間で見ると、電車の料金を払い続ける値段よりも、電動自転車一台と充電のための電気代を合わせた値段の方が断然安いらしい。これは電動自転車を購入する際、店員から教えられたものだ。買わせる側の言葉だから、完全に真実とは言えないが、僕は一応信用してみることにした。

 僕は高速道路の下を、沿うように通るコンクリートの道を走っていた。その道は僕が出勤する際、よく利用する道だった。僕から見て高速道路は右側にあり、左側にはガードレールと流れの悪い小川が流れている。小川の先はだだっ広い草原になっていて、休みの日にここへ来ると子ども達がサッカーをしている光景を見ることができる。会社のストレスが溜まると、僕はふらっとここへ来てしまうのだ。夏休みのある小学校時代に帰りたい。笑顔ではしゃぐ子どもたちを見て、ふいにそう思ってしまうのはきっと僕だけじゃないはずだ。

 向かい風が僕の前髪を掻き上げた。僕は左手で上がった髪の毛を直した。ここから会社まではおよそ四十分。長い道のりだが、もう慣れた。僕は呼吸のリズムに合わせて、ペダルを漕いだ。

 ちょうどその時、背後の方で車輪が回る音が聞こえた。後ろから自転車がやってきたのだ。車輪の音からして、自転車のスピードは速い。僕は感覚的にそう思った。その感覚は当たり、相手は僕を早々に抜かしていった。そして、背後にいた自転車は、すぐに「前方にいる自転車」となった。

 僕はその自転車をよく見た。乗っていたのは高校生と思われる男女で、いわゆる二人乗りをしていた。道路交通法違反だが、彼らを軽蔑する気は起らなかった。それどころか、僕はその二人を見てうらやましいと思ってしまった。運転する男の子の方と、後ろにまたがる女の子。楽しそうにはしゃぐ彼らを見て、僕は忘却しかけていた学生時代をふと思い出した。記憶の断片が、まるでクジラの潮吹きのように飛び出て脳裏に吸いついた。僕は自転車を操作しながら、当時の思い出について振り返ってみた。現実の意識と頭の中の意識が半分ずつになったが、僕は構わずベダルを漕ぎ続けた。



 ありふれた日常の中で、僕と彼女は必然的に出会った。それまで僕は、運命や宿世の類は信じないたちであったが、彼女との遭逢をきっかけにその考えを変えた。他人から見れば笑われるような思いも沸々と湧き上がっていた。高校時代の僕は、とても愚かで、それでいて世間を知らなかった。

 最初に切り出したのは彼女からだった。当時はメールなんて便利なものはなかったから、昭和の学園ドラマで見かけるような旧いやり方だった。場所は視聴覚室。二階の隅にあるひっそりとした場所で、誰かを放課後呼び出すには絶好の場所だった。僕はそこで、告白を受けた。生まれて初めて人に告白され、まず襲ってきたのは焦燥感だった。高校時代の僕は、クラスの中で特に目立っていたわけでもなく、友達も少なかった。だからどうして彼女がこんな無粋な僕を選んだのか、納得のいく理由が欲しかった。しかし、彼女はそれについて詳しいことは語らず、頬を紅潮させるばかりだった。


「一目惚れなんです」

「え?」

「一目惚れ。今のクラスになったときから、ずっと……」

「俺に?」

「はい。今まで私、恋をしたことがなくて…… 恋心っていうのが、そもそも分からなかったんです。でもあなたを見たときから、それがはっきりと分かりました。恋をすることが、どういうことか。あなたのおかげでそれを知ることができたんです。この思いは三か月経った今でも変わることはありません」

「どうして、俺なんだ。俺よりも顔立ちのいい奴は一杯いるし、そもそも俺だって恋心というものが何なのか分からない。俺はいったいどうすればいいんだ?」

 それは、実に奇妙な会話だった。この会話を思い出すだけで今でも僕は胸に複数の蟻がのしかかってきたような気持ちになる。でも、そんな思いに後からなるくらいに、その時の僕は困惑していた。ありふれた日常が、ありふれたもので無くなることに恐怖を抱いていた。この子が満足するような自分を演じることが出来るだろうかと、杞憂な不安も膨らんでいた。

「どうすればいいも何も……」彼女は考えごとをするように宙を見つめた。

「私は別に特別なことを頼んでいるわけじゃないんです。ありのままでいてください。無理に繕ったり、無理に会話を繋げようとしたり、そんなことは別に求めていません。この気持ちを伝えられただけでも、私は幸せです。その上、あなたがこの思いを受け取ってくれたら、もう望むものはありません。私はあなたの傍にずっといられるだけでも十分なんです」

 彼女はそう言うと頭を下げた。僕はどういうことを言えばいいのか返答に困った。彼女の話を聞いて、困惑のたまりがさらに深くなったような気がした。彼女は僕に恋心を抱いている。そして、それはとても強いものだ。その事実が僕の心をさらに揺らした。

 僕はある一つの覚悟を決めると、彼女の目を見つめ言葉を述べた。



 夕焼けの空にそれは黒ずんで浮かんでいた。僕は小さな川の土手で彼女と様々な話をした。僕らは互いに不器用な性格だった。人の愛し方や、デートや、その他諸々の常識的な事柄についてほとんど知識がなかった。だけどそれについて互いに深く考えるようなことはなかった。手さぐり状態で進めていくのも面白いと思ったのだ。

「たまには街にもいってみたいな」

 自転車を引きながら彼女は言った。

 僕は頷きながら目線を下に向けた。

「街は人も多いし…… 俺はちょっと苦手だな」

「そっか……」

 車輪の回る音が微かに旋律となって二人の関係を照らしていた。前にも言ったように僕らは実に奇妙なカップルだった。もはや付き合っているのかさえ、時々曖昧になるくらい、それは本当に奇妙なものだった。世間並な恋愛なんて出来ない。僕はそう割り切っていた。

「ねえ」彼女が可憐な目で僕に呼びかけた。考え事をしていた僕は、その一言で我に返った。

「ん、なに?」

 彼女は首を傾げながら言った。

「私と一緒にいて、楽しい?」

「もちろんだよ。時々言ってくれるじゃないか。あなたと一緒にいて、とっても嬉しい気持ちになるって。君がそう思ってくれているんだから、俺だって同じ気持ちになるのは当たり前だろう?」

 僕の問いかけに彼女は納得したように頷いた。しかしすぐに彼女は俯き沈黙してしまった。僕は訊ねずにはいられなかった。

「一体どうしたんだ? どうして、急にそんなことを?」

「え、別に特別な理由がある訳じゃないの。ただ、ふと疑問に思ったから」

「そうか。それならごめん。俺って感情が顔に出ないねって言われるから、よく誤解されるんだよ。さっきも言った通り、君と一緒にいるのはすごく楽しい。自分を愛してくれる人がこんな近くにいるんだって実感するだけで、幸せな気分になるんだ」

 彼女は安堵したように息を吐いた。

「良かった。あなたからその言葉を聴けて、安心した」

 彼女はそう言うと微笑んだ。僕も微笑んだ。たとえこの関係が奇妙に映っても、おかしいと分かっていても、僕は心から幸福だった。



 そうして時は流れ、僕らの関係は始まってから一年が経とうとしていた。僕らの微妙に動いてゆく時間は途切れることがなかった。どうしてか分からないけれど、僕らの関係はクラスに露見することはなかった。それは僕と彼女があからさまに付き合っていたわけではなく、友達と恋人の境目に位置するような空気を作りだしていたからかも知れなかった。僕らは彼らに悟られないよう、下校時には一緒に帰ることを避けた。僕が街へデートに行くのを嫌がっていたのも、今思えば理由の一つかもしれなかった。ばれても構わないじゃないかという強い思いはなぜか出てこなかった。僕は彼女がクラスの話題になってしまうところを想像したくはなかったのだ。そう、僕は段々と彼女を私物化するようになっていった。当時の僕は人に愛されるということがどういうことかはっきりと理解していなかった。人から好かれることで、僕は自分を可愛がるようになっていった。彼女を愛するのではなく、自分を上げることで僕は自分を正当化していたのだ。だけど、あの時の僕はそれをしていることに気付けなかった。そしてそのことを薄々感じていた彼女の心も、気付いてやることができなかった。

 ある日の土曜日。僕らは公園のベンチに座っていた。時刻は午後五時。そろそろこの日のデートも終わりに差しかかっていた。

 彼女は僕の右横に座っていた。彼女は向こうに見える噴水を眺めながら僕に言った。

「もうすぐ、今日も終わっちゃうね」

「そうだな」僕はそっけなく返した。

「もうすぐ受験生になるけど…… 大学はどこを受けるの?」

「わからない」僕は言った。「まだ決まってないんだ。どこの大学も同じに見えちゃって」

「ちゃんとオープンキャンパスに行った方がいいよ。やっぱり将来のことは自分の目で確かめておかないと…… 実感が沸かないんじゃないかな」

「そうだよな。分かってはいるんだけど、なかなか行動に出せなくって」僕は腕を組んだ。

 彼女はずっと噴水の方を見ていた。まるでそれは噴水に向かって話をしているようにも見えた。僕は腕を組みなおした。

「難しいよね。将来のことって」彼女は言った。

「そうだな。いろいろ考えなくちゃならないから、仕方がないね」

「私たちの関係も、そうなのかな」彼女は突然僕の方を見た。彼女が急に目線を合わせてきたので、僕は思わず黙ってしまった。

 沈黙が続いた。噴水の近くで遊ぶ、子供たちのはしゃぎ声が耳に届いた。彼女はなおも僕に訊いた。「ねえ、どう思う?」

 僕は渇ききった唇のままかろうじて口を開いた。顔には汗が噴き出していた。それが今の季節のせいなのか、緊張のせいなのか分からなかった。

「将来も何も、そんなことをいちいち考える必要はないだろう。僕は君を愛しているし、君も僕を愛してくれている。それだけで僕らは十分なはずだ」

「本当にそうなのかな……」彼女は悲しげな声で呟いた。

「どうして?」

「あなたは私と一緒にいることを、自分のステータスとしているの。今は黙っているけれど、本当は私と付き合っていることを誰かに自慢したくてうずうずしているんじゃないのかな」

「そんなことはない」僕は強い口調で言った。「僕は君を必要としているんだ。僕は自分の利益のために、君と付き合っているわけじゃない。誤解しないでくれ」

「そんなに言うんだったら、一つ質問していい?」彼女は語尾を強めた。

「あなたは、私と結婚する気はあるの?」

 彼女の質問に僕は思わず口ごもった。予想だにしなかった言葉が、一番禁じられていた言葉が、彼女の口から発せられたような気がした。僕は途端にいま流れているこの現実から逃げたくなった。「結婚」とはいったい何のことなのだろう。しかし、彼女がその言葉を発した直後の表情を見て、僕はすぐに現実へと引き戻されてしまった。彼女は鬼の首をとったように、僕を追及した。

「ほら、やっぱり。何も考えてない。あなたはやっぱり数年後には私を捨てるつもりだったんでしょ。私はあなたを愛している。あなたも私と同じ気もちを抱いている。最初はそう信じてた。でもそれは違ったの。あなたは、私を愛していないのに私と付き合うことに同意したの。それは自分に自信をつけるため。自分を可愛がるため。あなたは私を利用したの。口では愛してると言っていながら、本音はそうじゃなかった。どうしてそんな軽はずみな気持ちで私と付き合ったの? 駄目なら駄目って、最初からはっきり言ってくれれば良かったのに。どうして、そんなことをするの?」

 最初は強かった彼女の口調が、だんだんと力を失くしていった。僕は何も言い返すことができなかった。出来ることなら俯きたかったが、僕の目を見て訴える彼女の芯の通った気持ちを見て、そんなことは出来ないと思った。空虚な風が僕の心を支配した。

 彼女は僕が何も言えないことを悟ると、ベンチから腰を上げた。そして黙ったまま、まるでそれまで他人と話していたかのように、どこかへ行ってしまった。

 取り残された僕は、公園のそばの道路に植えられた街路樹のようになっていた。

 僕は、そのまま家に帰った。いま思えば急いで彼女を追いかけていれば、運命も少しは変わっていたのかもしれない。だけどその時の僕は放心状態に近い心境に陥っていた。だから例え「追いかける」という思いがその時に芽生えたとしても、僕の体は動くことがなかっただろう。

 そうして、僕の青春は終わりを迎えた。僕と彼女が過ごした期間は一年。改めて考えればそれはあっという間の出来事だった。一つ一つの区切りで見れば長く感じるものでも、全て合計して遠くから眺めれば、短いものに感じてしまう。それは摂理のようなものなのかもしれないと僕は思った。何もかもが未熟に始まり、未熟なままで終わった。僕は彼女にひどいことをしてしまった。だけど、その自覚はあの時の僕にはない。やはり僕はその程度の人間だったのだ。



 昼の光が、夕方の光に変わった。会社からの帰り道。僕は自転車を近くに止めて、草原に寝転んでいた。数十メートル先に見えるのは高速道路。そう、僕は例の場所で自分の愚かな過去を振り返っていたのだ。たまにはこうして考え事をするのも悪くはない。僕はふと空を見上げた。彼女は今頃、どうしているだろうか。素敵な男性を見つけて、ささやかだけど、幸せな家庭を築いているのだろうか。気になっても、僕にはそれを知る術がない。それどころか、僕には知る権利すら無い。彼女は僕のことを覚えているのだろうか。答えのない疑問が次々と生まれては消えていった。

 あの時に戻れたら…… そう思うことが時々あった。僕は彼女を傷つけた。いくら自分を責めても、何度も心の中で懺悔をしても、その事実は変わらない。結局は自己満足の謝罪でしかない。それは僕の心の中で一生過誤として残る。

 遠くから車輪の回る音が聞こえた。僕は考え事をやめ、その自転車が過ぎ去るのを待った。自転車は草原と高速道路の間を左から右へと走っていくようだった。沈黙した僕と、車輪の回る音。それだけが今の世界を構築していた。

 僕はその過ぎ去る自転車を何のとりとめもなく、ただ傍観していた。自転車は何事もなく僕の視界から消えていくと思った。しかし僕は「あること」に気づき、全神経が雷に撃たれたような衝撃を受けた。


 過ぎ行く自転車に乗っていたのは高校生くらいの男女だった。風を切り、僕のほうを見向きもせず、その場を通り過ぎてゆく……。


 僕は目を大きく見開き、思わず立ち上がった。二人の男女はまるで金管楽器のような麗らかな笑い声を上げていた。僕はその一瞬の光景をじっと見つめていた。

 自転車は通りすぎた。

 僕は走って、道路に飛び出した。すでに自転車は遠く離れ、点のようになっていた。

 あの時、なぜ僕は追いかけなかったのだろう。

 なぜ僕は彼女を愛することが出来なかったのだろう。

 情けないことに、今まで僕はそのことについて深く考えたことはなかった。

 今なら、どうだろうか。


 車輪の回る音は自転車が過ぎた後でも、僕の耳元で響いていた。

 戻ってこい、僕は心の中で呟いた。

 あの後悔の日々よ、戻ってこい。

 あの若かりし日々よ、戻ってこい。


 風が吹いて草原の緑を揺らした。僕は拳を握りしめていた。

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[良い点]  主人公の心情の描写がとても鮮明に表現されており、これはひょっとすると作者様の実体験をもとに執筆されたものなのではないだろうかと疑ってしまうほどでした。情景描写に対する比喩表現も一つ一つが…
[良い点]  回想シーンから現実に引き戻され、そこからの怒涛の展開が、印象に残りました。過去と今と未来が一体になったあの場面は思わず唸ってしまったほどです。主人公である男の心理状態も、何だか身近なもの…
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