幸四郎
男の手が私の頭に触れる。思ったより大きい手が、私の視界を覆い隠す。
「お前だけだよ、小春」
脳裏に火花が散った。接地感が喪失して、意識が宙へ引き上げられる。白濁した世界は私と外との境界線を曖昧にさせる。
映像が浮かんだ。走馬灯のように駆け巡るビジョンが、私を飲み込む。
様々な人の顔が私の脳内に浮かんでは消える。どの顔も見覚えがあって、見ない顔も混じっている。フィルムを高速で巻き取るようにして流れる。気分はさながら、映画の早送りだ。
感覚が戻る。タイムトリップした直後みたいに気分が冴えない。もちろんしたわけではないので憶測なのだけれども、時差ボケのような感覚に近いかもしれない。黒目がぐるぐると動いて、胃を混ぜ返されたような嘔吐感がこみ上げる。
ふらふらと定まらない脳をなんとか沈めて、私は男を見上げる。
「幸四郎」
私は思わず口を閉じる。今の、いったい誰の名前だろう。私は知っている。知った。幸四郎とは、今目の前にいる男の名前だ。目線を上げる、男の顔が、涙で緩んでいた。男が、私の体を抱きしめる。そこには劣情や性的な思惑はない。強いて言うなら、杏樹が私を抱きしめる時と似ていた。親しい人間に対して示す親愛だ。
「小春」
男の声が湿っぽい。鼻水まですすっている始末だ。小春。その名前に聞き覚えがある。かつて舞踏荘に居た女性で、輪廻さんやタンポポがなかなか触れたがらなかった女性のことだ。
「違う」私は答える。「私は小春じゃない」
「小春だよ」
男は即答する。「お前は今から、小春になるんだ。俺の能力で」
顎を掴まれた。
「俺の頭の中に眠る小春の記憶を全部お前に植え付けて、お前の記憶を小春の存在で上塗りにする」
私の顎を掴む手に力が入る。男の顔が先ほどまでとは変わって盲目的になっている。焦点を見失い、私の背後に立つ誰かを見ているようだ。
「お前が小春になるさまを、タンポポや輪廻にだって見てもらおうじゃないか」
「タンポポたちはここに来ません。私が勝手に舞踏荘を出ましたから」
「来るさ。俺が呼んだ」
確信を含んだ笑みに、私の背筋が泡立った。動かない両手が歯がゆい。幸四郎の目が、妖しく光る。能力発動の予感が渦巻く。
奥歯を食いしばった瞬間、鉄製のドアが蹴破られた。廃倉庫内に残響するけたたましい音に、私と幸四郎の意識が音源に持っていかれる。
「幸四郎ぉ!」
獅子が吠えた。ぐわんぐわんと空間を曲げる大音量に、幸四郎の顔が露骨に歪む。
「来たか――タンポポ!」
幸四郎も私の顎から手を離し、声を上げる。彼の口角が釣り上がる。
今日はなんとかその日に更新できました。そして新しい作品を考える片手間で明日提出のレポートの取り掛かります。ぜ、全力出せば余裕だし(震え声)