業火
甘いものを諦めた私たちは、エスカレーターで二階へ。先日開店したばかりの雑貨屋があるそうで、私は杏樹に手を引かれるまま床を滑る。何も考えず呑気に歩いていたせいだろう、私のつま先が、何かをカツンと蹴った。黒目を下に。コンビニへ行って二百円ほど出せば手に入るであろう、安物のライターだ。
「なにそれ。落し物?」
覗き込む杏樹に、私はそれが何なのか見やすいように手首を捻る。「わ、ライターだ」
「多分、落とし物っぽいね」
誰が落としたのかはわからないが、私と杏樹は数秒相談してライターを中央の案内センターへ持っていくことにした。多分、そこで落し物の取り扱いだってしているはずである。女子高生の私たちがライター単品で手にしていても使い道がないし、もし持っていることが大人に知られて、変な勘繰りをされるのも腹立たしい。杏樹も、ライターを落し物コーナーへ預けることに異論はないそうだ。ライターをポケットに入れて、前を向く。
その瞬間だった。私の胸の中で、何かが渦巻いた。誰かからなんとなく見られているような、物理的に立証はできないもののある種感覚として察知できる気配だ。私はこの気配を知っている。最近知った。誰かが、仮面を使っている気配だ。
私は振り向く。私と杏樹の間を、熱波が通り過ぎる。一箇所に集めた数々の暴力を球形に丸め空中で炸裂させるときっとこんな音がするのだろう。そう思わせるほど荒々しく刹那的な音が、私の鼓膜を圧迫する。
熱い。当たり前だと笑われそうだけど、顔の表面が乾く。熱気に当てられたせいか、髪が少し温かい。
十数メートル先で、黒と橙が咲いている。一瞬それが何なのかわからなかったが、熱風が私の頬をいやらしく撫でた瞬間やっと該当するコトバを見つけた。
爆発だ。原因は全くわからないが、爆発が起きた。
目を見開いて唖然としている杏樹の手を咄嗟に取る。爆発が起きた場所から離れるように、私は駆け出した。杏樹の意識が走ることに向かっていないせいで、半分引きずるような形になってしまっている。私の頭は、すっかり混乱してしまっていた。
「慧ちゃん、なにこれ」
「私にもわからない」
わかる人がいるなら教えて欲しい。「わからないけど、爆発が起きた」
炎は逃げ惑う私たちを追い掛け回すように、後ろから迫る。まだ距離に若干の余裕があるとは言え、背後から舐めるように近づく熱気がその脅威を物語っている。見なくてもわかる。飲み込まれたら、絶対に生きて帰れない。
後ろの炎に気を取られている杏樹を、全力で一喝する。「前を向いて、走ることだけに集中して!」
杏樹の足に力が宿る。さっきまでと比べ、私は格段に走りやすくなった。しかし十分に余裕が確保されているわけではなく、曲がるために速度を落としたり、転んだりすれば命はない。
私は一瞬だけ、仮面を出すことも考える。が、二秒でその発想をすり潰した。また、変な物を見る目で蔑まれるのはごめんだ。杏樹の中では、私はただの友人でいたい。何か特別で、違う存在だと思われたくはなかった。自然と、杏樹を引く手に力が入る。
「あ」
杏樹が、間の抜けた声を上げる。彼女の視線を追いかけると、杏樹の鞄から熊のぬいぐるみが落ちていた。どうやら、紐が切れたらしい。
彼女の足が一瞬止まる。私はつんのめる。でも負けずに、一歩踏み出して手を引く。
「待って!」
杏樹が叫ぶ。全く予想していなかったことに、私の肩が跳ねた。杏樹が、迷うようにぬいぐるみを見ている。
「あれ拾わなきゃ」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」
私も叫ぶ。ぬいぐるみだなんて呑気なことを言って、死んでしまったら元も子もない。しかし杏樹は違うようで、やけにぬいぐるみへの拘泥を見せた。「だってあれは私と慧ちゃんにとって特別なものだもん!」
「馬鹿なこと言ってないで――」
ぬいぐるみに対する躊躇が生まれた瞬間に殴って黙らせてでも、私は彼女を連れて行くべきだった。
杏樹は私を、力強く突き飛ばす。その拍子に、眼鏡が外れる。右を向けば、火の手がすぐそこにまで迫ってきている。
杏樹が、申し訳なさそうに微笑む。突き飛ばされたはずみで重心が後ろに逸れる中、私は必死に右手を伸ばす。
「ごめんね」
火の波が、杏樹を飲み込んだ。何も掴めなかった私は、したたかに尻餅をつく。炎が目の前を通り過ぎる中、私は放心する。
杏樹の微笑みが、ぼんやりと思い浮かぶ。これじゃまるで、走馬灯みたいじゃないか。
一気にバトルチックな展開に入りました。僕はメリハリがどうも苦手なので、ここんところの温度差がしっかりできているのか怪しいです。頑張ります