小春④
午後十一時。牛乳を取りに一階へ降りた私が見たものは、一条の明かりが漏れる広間の扉だった。牛乳を注いだあとでふと気づいた私は、なんとなしに耳を澄ませる。広間では、どうやら輪廻さんとタンポポが話しているらしかった。何について話しているかはわからないものの、二人がぽつぽつと話していることだけはわかる。
私はキッチンの壁に耳を押し当て、なにか聞こえないものかと体を動かせる。
「だから 小春や も」
タンポポの声色で、小春さんの名前が聞こえた。私はさらに体をよじらせ、意識を集中する。耳に気を取られすぎていたからか、誰かが退室することに全く気付かなかった。からからと戸がスライドする音に、私は体を凍らせる。下手に動くとばれてしまう緊張感のせいで、私は一ミリも動けない。足音の大きさからしてたんぽぽのものらしい。たんぽぽはそのまま私に気づかないまま、階段を上がっていく。私は大きく息を吐いて、背中を壁につける。人の話を盗み聞きすることは、自分の精神的にも聞かれる方にもいいことはない。そう学んだ私は、牛乳で満たされたコップを手に取る。自室に戻ろう。そう思った、まさにその瞬間のこと。
「で、慧ちゃんはどう思う?」
突如として真後ろから、剣で滅多刺しにされた気分になった。冷や汗が、一気に額に浮かぶ。広間の戸が大きく開いているせいで、輪廻さんの声がクリアに聞こえてきている。
私は一瞬だけ葛藤したもののこそこそ帰って後日誤魔化し通せる自信もないため、おとなしくコップを持ったまま広間へ入ることにした。言い訳というか、自分の無罪だけはしっかり証明しよう。
姿を見せて第一声、私は口を開く。
「聞いてください。私は最初から盗み聞きしようとしたわけじゃなくて、牛乳が飲みたくなって降りた時に声が聞こえたものですから、お二人が何話しているのかもよくわかりませんでしたし」
おたおたと自己弁護する私を、輪廻さんは柔和に笑いながら片手で制する。
「いいよ。別に悪巧みしていたわけじゃないしね。今からは暇かな?」
「まあ、やることもありませんし」
出された宿題は金曜日に済ませたし、やることといえば牛乳を飲んで寝ることくらいだ。輪廻さんが、私を手招く。「おいで。ちょっと話をしよう」
私は誘われるままに広間へ足を踏み入れる。大きなちゃぶ台の上には、徳利一つとお猪口が二つ転がっている。輪廻さんとタンポポが、飲んでいたらしい。酒のせいでほんのりと朱が差した頬としっとり濡れた髪が輪廻さんの色気を一層引き立てる。きっと、まだ風呂からあがって間もないのだろう。
徳利内の酒を一気に呷った輪廻さんは一息吐いて、私に尋ねる。
「慧ちゃんも飲む? お酌くらいはしてあげよう」
「いえ」私は怯む。「まだ高校生ですし」
「そうかい。じゃあ大人になったら一緒に飲もうね」
輪廻さんは残念そうに酒を追加でお猪口から注ぐ。お互いに無言で飲んで数分、輪廻さんがおもむろに口を開いた。
またもや遅れてしまいました。やるやると言っておきながら滑り込みで遅れてしまうのがなんとも申し訳ないです。予約掲載設定なる機能があるっぽいので、それを試す時が来たのかもしれません