疾走・急停止
十五秒ほど走って、車道に出た歩行者向けの信号は赤。勿論、よい子は止まって待つべきタイミングだ。しかし今の私にそんな良識があるわけも、なおかつ止まる手段もなく、白昼堂々、真正面から、悪びれもせずに、豪快に信号を無視した。
瞬間、横合いから軽自動車が迫ってきた。運の悪かった運転手はそんな馬鹿なと言いたげな顔をしながら、何とかして私をよけようと必死にハンドルを回そうとしている。しかし残念。止まろうと思って止まれる距離なんて残されていない。
運転手が両目を閉じて、後ろに座っていたらしい子供も目を閉じた。何とかして彼らを前科持ちにさせたくなかったし何より惹かれることなんてまっぴら御免こうむりたい私は、その場の勢いで跳んだ。
ぐん。と、耳元で何かが縮む音がした。両足の裏が硬い地面から解放されて、私の体が揺れる。
跳んでいる、いや、これは飛んでいると言ったほうが近いのではないだろうか。それほどにまで、私の体は宙を漂っている。気分はさながらバットで弾かれた野球ボールだ。毎日殴り飛ばされる野球ボールは、こんな世界を見ているのかもしれない。人も屋根も車も、今や私の足の下だ。
数秒の停滞をはさみ、私は重力に捕まった。コンクリ製の屋上に着地する。ここで前転しながらの受け身でもできたらよかったのかもしれないが、そこまで頭が回るはずもなく再び走り始めた。屋根の端まで走ったら、先のように跳ぶ。無造作に着地した家屋に謝罪を置きつつ、私はまだ走る。走っている最中は本当に視界が狭くなり、それゆえ足元も疎かになる。この数分で学んだことだ。
忍者だ。自分のことを客観的に考えて苦笑する。ジャンプして、重力が私を地面に引きずるより早く次の屋根に着地する。何度も繰り返し、私はやっと地上へ降りる。疲れのせいだろうか最初に比べるといくらか勢いが落ち着いているものの、止まれないことには変わらない。坂道を駆け下りているような感覚だ。疲れていても、足が止まらない。今の私はまさにそんな感じだ。
どう止まればいいのか。混乱するせいか、角を曲がる人への反応が遅れた。「あ」と呟くよりも早くその人とぶつかりそうになる。きっとさっきの車を運転していた人もこんな気分だっただろうな。そんなことを思いながら、瞼を強く締める。
体が浮いた。左手に手を添えられたかと思ったら、私の体は宙へ放り投げられていた。自分で跳んだわけではないせいか、重心のバランスを損なって私は背中から地面へ落ちる。その勢いを殺し切れず、二メートルほどごろごろ転がる。形はどうであれ、やっとの思いで止まることができた。
「あの」
私は素早く立ち上がり、出会い頭に投げ飛ばしてくださった人へと歩み寄る。投げてもらった際に、なにか怪我をしていたら大変だから確認するためだ。「お体は大丈夫ですか?」
「いいよ。それより君のほうこそすごい速さで走ってきていたけど……」
女性が振り返る。セミロングの黒髪が、緩やかな弧を描く。
「あ」
私は、間の抜けた声を上げた。どこかで見たことのある――と、言うより、かねがねお世話になっている人の顔だ。
「輪廻さん」
「……慧ちゃん?」
この事態はいささか予想外だったのだろう。珍しく、輪廻さんも目を丸くしている。
「どうしたんだい一体」
「えっとですね……」
このことを説明するのにどのくらい時間がかかるのだろう。そんな思いを浮かべながら、私は輪廻さんの後をついて舞踏荘へと帰ることにした。
なんとか今日中に更新できました。これって、考え方次第じゃ一日に二回更新したってことになるんでしょうか。なんだか贅沢! そんな気分です