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第一章・死の臭いがするそうです


「くさい。死ぬ臭いがする!」

 春休みの終盤。

 下宿による一人暮らしを始めるために街へ出た私を待っていたものは、暖かい近隣住民の慈愛でもなければ“おのぼりさん”を餌に私腹を肥やす甘言でもなく、幼女からの辛辣な言葉だった。

 初対面の年上に向かって失礼な言葉を吐く幼女に驚くことコンマ数秒、私はその幼女に対して何かしらのコメントを述べるより早く上着の袖先を自分の鼻先に押し当てた。この時の私は相当動揺していたらしく、そもそも死ぬ臭いとはなんなのかと言及する余裕なんてなかったようだ。薄手のカーディガンからは、特別何かしらの異臭がしているわけではなさそうに思える。

 でも。

 人間、自分で自分の匂いを認識するのは難しいと聞いたことがある。ひょっとしたら、私も自分の匂いに気づいていないだけで周りにとんでもない腐乱臭でもばらまいていたのだろうか。しかし周囲でベンチに座っている人たちからは、不快感やそれらに類する表情は見えない。日本人は口より顔を動かせると思うので、多分臭くはないのだろう。とりあえず、私はほっと胸をなでおろした。

 不意打ちすぎる洗礼にたじろいだ私は、改めて幼女を見る。

 月並みな表現を使うことを許されるなら、その幼女はさながら人形だった。陽光を弾く金髪と真っ青な瞳。顔立ちは少々日本人に寄っているあたり、ハーフなのだろうか。私も一応女なので、幼い頃には人形を持っていたこともあったが眼前の幼女はまさにそのお人形のように見えた。しかし生憎と言うべきか、ふんだんにフリルが付いたようなドレスではなく着ているのはベージュ色をした薄手のポンチョ。素材たる幼女が可愛いせいか、なかなかポンチョも悪くない。

 さておこう。

 私はポンチョなんてどうだっていい。推定年齢六歳程度の幼女が小癪にも私に異臭を放っていると言ってきたことについて、いくつか訊いておかねばならないことがある。

 できる限りの笑顔を作って、私は可能な範囲で優しい声を搾り出す。

「今の意味、お姉さんに教えてもらえるかな」

「臭い!」

 一瞬、あと一週間で高校生という立場すら忘れて全力で張り手を叩き込んでやろうかとすら思った。そのくらい、今の私は憤怒している。

 奥歯を噛み締めて二秒と少し、私は大きく息を吸い込んで呼吸を整えた。せっかく新しい土地へ来たのだ。ここは私が大人になって、何事もなかったかのように済ませるに限る。なにも自分から、経歴に傷を付けるようなことをしなくてもいいじゃないか。

 寛大な心で幼女の無礼を赦してやらんでもない。自分に言い聞かせて私は先ほどよりも三割増で優しい声と表情を――

「死ぬ臭いがいっぱい!」

 我慢なんてフリマで売った。十円だ。

 もう許さん。人が下手に出て優しくしてやろうと思った矢先にこれだ。説教だけではなく多少の折檻なら許されてしかるべしという私の結論に則り幼女へ手を伸ばしたその瞬間、まるでその幼女に糸がついていたかのように垂直方向――要は空中へ飛んだ。風に揺られるポンチョを目で追うと、その先にはひとりの男が幼女を抱き上げている。黒い髪をボサボサと荒立て、いかにも部屋着といった服装の軽快そうな雰囲気をした男だ。

 見た感じ二十歳後半くらいであろうか。中学生の頃に英語を教えていた二十四歳の教師と比べれば、少しだけその人よりも人生の先輩みたいに見える。

 しかしそんな年になっても夏になればセミを追いかけ回したり柄にもなく早起きして木々を見て周りカブトムシを探したりしているような、ある種の若々しさも兼ね備えた男だ。なんとも不思議な雰囲気を持っていた。

 幼女を抱き上げた男性が小脇に幼女を抱えながら、腰を九十度曲げる。

百華ももかが無礼なことを言ってしまい、すいません!」

 この幼女は百華というらしく、その保護者にあたるであろう男が私に頭を下げている。色々と言いたいことはあったものの、一体どんな教育をしたら初対面の年上に不躾な言葉遣いができるのであろうか。散々追求して鬱憤を晴らしてやりたい気分も無かったといえば嘘になるけど、私はとりあえず「いえ、子供の言ったことですから」と余裕を見せる。

 申し訳なさそうに頭を上げていた男性が顔を上げると同時に、私と目が合う。

 しまった。

 私は慌てて顎を引く。理由はわからないものの、私の下瞼したまぶたにはくっきりとした隈がついている。寝不足になると目の下が黒くなるあれだ。なぜか私は十時間以上寝ても、目の下にある黒々とした隈が消えない。それが、若干の身体的コンプレックスだ。

 それを見られないように顔を伏せた私に、声がかかる。

「お嬢ちゃん」

 先ほどの男だ。これ以上謝ることを要求していない私に何の用があるのか。

「超能力って、信じる?」

 嗚呼。まだ祖母が生きていた頃、私の頭を撫でながら繰り返していた、いわば祖母オリジナルの決めゼリフが脳裏に点滅した。

『いいかいけいちゃん。都会で若い男に変なことを訊かれたら真っ先にお逃げ。目的は話題なんかなじゃくて、青い果実だからね』

 当時は真意がわからず無邪気に首を傾げることもできていたのだが、今となってはそうもいかない。何より、カマトト振っていられるほど冷静な思考ができていなかった。

 考えるより早く、体を半回転。アメフト選手のごとくボストンバッグを固定して、私は逃げるように走り出した。いや、逃げた。人の間をすり抜けて、必死に男から遠ざかる。

「ねえちょっとお嬢ちゃん!」

 追いかけてきている。声で分かった。なぜだ、なぜ私にそこまで執着を見せる。自虐するようで悲しいが私はそこまで魅力的な女じゃない。同じクラスの女子に「朝倉さんって、なんか冷めてるよね」と指摘されたことがあるくらいだ。それ以外、取り立てて何か特別扱いされるような謂れもないし容姿もしていない。強いて言うなら下瞼の隈が特徴らしい特徴だがそれはむしろマイナスポイントだ。負の方向へ評価の針が動いても、正の方向へは傾かない自信がある。


 やっと書き始めることができました。もしよろしければ、この物語に最後までお付き合いいただけると幸いです。気の利いたことも言えない作者ですが、よろしくお願いします。

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