死者の衣
ごめんなさい。まだまだなかなか進みません。
−遅いっ!−
あからさまに真っ白な導衣を着て、悠々と二階から降りてきた主に向かって、思わず恨み節の念を送ってしまうほど我は居心地の悪さに苛まれていた。
見張り役のつもりで我を置き去りにしたのだろうが、子供といえども魔力ある人間共の好奇の目にさんざん晒され落ち着きを無くし、やっと飽きたかと思ったら何故か娘に煙草製造の極意を引くほど語られ。
かといって主の真意が読めぬこの状態では、自ら正体を明かして突っ込みをいれるのも憚られ。
ガロンの知恵をその息子に語るはいいが娘よ。乳離れもしてないような餓鬼に、煙草の上手な作り方は教育上良くないだろう。あんなもの、百害あって一利なし。確かに臆病な主の考案したものだから市販の屑煙草よりは周囲への害は少ないが、我は常々主に禁煙を進言しているのだ。
主は我の密かなる声へか、それともはっと居住まいを正したサラザンの餓鬼共に向かってか、どちらにへともつかぬが曖昧な言葉と穏やかな笑顔を向けた。
「すみません、待たしてしまって。導衣なんて久しぶりに着たんで、少し手子摺ってしまいました」
確かに我も百年ぶり位に見たわ。しかも「白の導衣」ともなれば、これと契約してからは恐らく初めてだった。
魔導師の衣は、貴族の地に裾を引き摺る長衣や、その他のアネイ国民に広く着用される下袴と合わせる着物とは違う。
着物や長衣のように前を重ねて帯で止める形ではなく、頭から被って着る形式の、飾り紐で腰を固める特殊な衣服だ。
導衣と呼ばれるその衣服には、魔力を混めた様々な塗料が使われ、術印を込めた刺繍や織模様が施されているのが一般的だ。
その服自体が、魔導を補助する一つの魔導具となる。
衣服という役割からか、防御や守護の術印を施すのが通例で、魔術であるからして製作者が絶命すると効力が無くなるという弱点がある。
その為、己の導衣は己の魔力で織り上げるのが原則だが、集団の結束やあるいは師弟や婚姻の誓いなど、魔導師同士の絆の証としての譲渡にも用いられてきた。
だが勿論、我が主にそんな魔力がたっぷり染みこんだ服が着られるわけもない。
主の着る導衣といえば、つまり、術者が死んで魔力も抜け色も褪せたみすぼらしいものか、そもそも導衣など着ないか。近頃は後者であることが圧倒的に多かった。
だが本来、シン・ロウの名を聞いた多くの者が思い浮かべる主の装いは、この現在着用している「白の導衣」ひとつであろう。
それは一言で言えば、魔力を込めた塗料を使用していない、術印も何も刺繍していない導衣である。要するに導衣の形式を持った普通の着物である。
ただ、製作者死亡の古着を着るのと異なる点は、それは誰が見ても明らかに、この導衣には何の術も掛かっていない、ということが一目瞭然である点だ。
古着は見た目は普通の導衣だから、相当な襤褸とかでなければ、探知魔術や攻撃魔術などを仕掛けられないかぎり大抵ばれない。
いつだったか一度だけ、主は酔い潰れて口を滑らせたことがある。
このこれ見よがしに白い導衣は、主にとっては、当初、死装束のつもりだったらしい。
己は無防備だと雄弁に語る何の加護もない衣。そして無力な死者を象徴する無染色の白。
それを着た主を見れば、千年も越えてだらだらと生きるうちにいつのまにか異常に畏れられ、側に寄り付きもしなくなった他の魔導師達も、もしかしたら、「この機会にあの老害を殺っちまえるんじゃないか」と希望を持ってくれるかもしれない、と。
我の守護がなかった頃の主が、どうしてあの自暴自棄な態度のまま生きてこられたのか、漸くその謎が解けた瞬間だった。
我はこの話を聞いた夜、この素晴らしくずれた思考を持つ過去の主に、大笑いしながらよくぞやったと感謝したものだ。若かったんだと本人も認めていた。いや、冗談抜きで、主のこの愚かな行動がなければ、我らは出会うことすら叶わなかったかもしれない。
結果は、当然のことながら主の思惑の逆を進んだ。
主は更に一層、もうそれは取り返しのつかぬほどに、魔導師達に畏れ敬われる存在となっていった。
布や糸に魔力を仕込み、身に術印を仕込まなければ表も歩けないような魔導師達が、この潔い白装束を見て、攻撃の好機、などと思える訳があるまい。
小賢しい術を付加した導衣など我にとっては無力に等しい。人々の目には、主がそう宣っているように映ったことだろう。
死者と同じ色を、無力の証と言うのは勿論、基本的に死を恐れない主のみ。白を身に纏うのは、死を超越した者の証だと誰もが畏れ慄いた。
最強の魔導師としての誇りと、格の違いを見せ付けられ、密かに主の存在に反意を抱いていた数少ない部族すら抵抗を諦めて主の元へひれ伏した。というのは今でも有名な昔話だ。
漸く主が己の致命的、否、救命的ミスに気が付いたころには、白色の衣は主と死人以外には身に付けることすら禁じられいた。
しかもその白という色目が禍したか、我が世に目覚める千年も前の昔から「白の導士」に内定してしまうというおまけまで付いて、主は絶対不可侵の最強の魔導師としての地位を確立してしまったという。
そして、今、主は自身の象徴とも云えるその純白の導衣を、実に百五十年ぶりに身に召しているのだ。
しかも、半ば自棄糞の境地で同じ色に合わせたという白い腰紐へ、我が白き刀を無理矢理差し込んでいる。
この子供らは知らぬようだが、この刀が「白夜」の封印であることを知る宮廷魔導師は多い。
その刀を、白の導衣を纏った主が腰に差して歩くとなれば、己が白の導師であると自ら名乗り回るようなものである。
我にとっては願ってもないことではあるのだが、思考に巣喰う疑念を抑えられない。
白の導師になるわけにはいかないと言う主にしてみれば、今、このような格好をすることは、目的の邪魔にしかならないだろう。
この百五十年間、幾度我が説得しても、頑なに「神討ちの二導師」としての役目を受け入れなかった主だというのに。
−何を考えておられる−
「すっごい!えほんとおんなじだー。ほんとにシン・ロウさまはまっしろ、なんだね」
我の思念に重なるように、無邪気な歓声が響く。
「だっ、ロイくん、失礼よ」
口を開けて呆けていた娘が我に返り、ロイくん、たしか正式にはロイフィ・サラザンを、慌てた様子で窘めた。
「別に失礼じゃないですよ。だってわたしほんとにシン・ロウですし。服は真っ白だしね。あー、絵本に載ったのはちょっと初耳ですけど」
少し前までの脅かしようがまるで嘘のようにおどけた調子で主が言った。
子供も、驚くほどの切り替えの速さで、脅えの欠片もなく主の言葉に答える。
「あのねー、ロイのおとうさまがかいたんだっ」
主は一瞬、おい聞いてないぞと言う顔で固まったが、すぐに穏やかな笑顔に戻り、屈んで子供と視線を合わせた。
「へ、へぇー。それ、あとで見せてくれますか」
「いいよっ。さんじゅっさつあるけど、ぜんぶ?」
「三十冊……え、絵本が?」
衣装室で仮面を被り直してきたような無害に緩んだ顔で、子供と話す主を前に、娘はなんとも言えない複雑な顔をしていた。
なんというべきか、この娘は時折どうにも心情の読めぬ顔をする。
主が睨んでいた時は、脅えの所以かと思っていたが、顔の表情を混乱させるほど恐怖を感じていたにしては、言動には幾何か余裕があるようにも見えた。
何より、端から今に至るまで、その山葡萄色の瞳からは、はっきりとした理性の輝きを感じていた。彼女は断じて、恐怖に己を失うような人間ではない。
だが、主のように本心を隠す仮染めの表情を作っているでもないようだし、トージャのように感情を抑え込んだ鉄面皮を目指してるわけでもないようだ。
確固たる理由もないのだが、何となく、得たいの知れない娘だと感じてしまう。
「あっ!!!」
我が興味深く観察していると、突然娘は大きな声を上げた。
「はいっ!?」
我は主で慣らされているから驚かないが、主自身が己の声の音量で神経が鍛えられるということはないようだ。
反射的な返事と共に肩を跳ねさせて、しゃがんだまま娘の方に顔を向ける。
「……っ!ご、ごめんなさいっ!名乗りもせずっ」
どうやら何気なく主から名を明してしまったことに、突然気が付いてしまったらしい。
娘は、酷く恐縮した様子で立ち上がって魔術師の礼を示した。傍らの幼児も立派に空気を読み、彼女に倣って同じ動作を続けた。
腰を低くして両の手のひらを相手に見せるように掲げるお辞儀は、魔術師の最敬礼に値する。
陣印を象る魔術の命でもある指を相手に晒すことで、絶対の恭順を誓う、という解釈らしい。
そういえば、トージャも宮廷魔導師たちも、主にこの姿勢はとらなかったな。
「申し遅れましたっ。お初にお目通り致します。御存知かとは思いますが、あた…私はサラザン家が当主エンジュ・サラザンと申します。これはガロン・サラザンが子息ロイフィ・サラザンに御座います。御覧のごとく揃って若輩の未熟者にて、重ね重ねの無礼、どうか御容赦ください」
緊張しつつも、貴族然とした口調でガルフの娘、エンジュは名乗り、傍らの従弟ロイフィを紹介した。
「こ、この度は卑小なること、御心を傾けて頂き、はるばる御参上頂きまして誠に畏れ多く存じます」
珍しく、主は彼女の辿々しい口上を遮らずに聞ききった。
だが、空気を読んでエンジュの手より自分の頭の位置が高くなるよう立ち上がる、という気遣いはやはり無く、子供の目線のまま、のんびりと頬杖を付いて差し出される小さな手を見上げている。
主がしゃがんでいるせいで、エンジュは顔を上げずとも、主の顔を視界に含めてしまう。
恐怖で動けない兎のような顔をしている癖に、それは何処と無くあの双子を彷彿とさせる、恐れ知らずの力があった。真っ直ぐな視線は主の瞳を臆せず覗いている。どこか笑みを堪えるような、それでいて物足りなさそうに結んだ口許。
やはり我にはこの娘の感情が見極められない。これが、彼女が暁の主であるという先触れなのだろうか。
この不可思議な少女は、主の深く病んだ瞳に何を見ているのだろう。
主も興味を覚えたのか、虚ろげな眼差しを指先から彼女の瞳に移動する。
「卑小なこと、なんて、長くこの世に在るが、わたしはまだひとつも知らない。世界は手に負えないことばかりですよ」
難解なその言に眉を寄せるエンジュを、珍しく微笑みのない顔をした主が見返した。
普段は口許に表情がないと穴のような顔になる主だが、エンジュの澄んだ眼差しに感化されたか、相変わらず感情は無いまでも、驚いたことに瞳の焦点がはっきりと定まっている。
主は真っ直ぐに、エンジュ・サラザンの瞳を覗き込む。
「君のお父さん、死んじゃったんでしょう?」
主の言に、弾かれたようにエンジュは顔を上げる。視界から外れてしまった少女の顔を追うように、主もゆるりと腰を上げた。
「…………ほんとに、死んじゃったん、ですか?」
恐る恐る、主に問うエンジュの声音は、まるで今この時、初めて父の死を知らされたかとでもいうように震えていた。
「わたしが頷けば、確信が持てますか?」
どこか突き放すような冷たさが混じる主の声音。
少女が返事を返すのを待たず、主は己に差し出されたままの掌を握った。
まだ律儀に高く挙げている手を己の胸元まで引き寄せる。
「送りましょう。清火の離宮、ですよね。秘密の近道を知っています」
秘密の近道、に反応したロイフィが無邪気に喜びの歓声を上げた。
どうやら空気を読める上、要領も良いらしいこの幼児は、いつのまにかさっさと無意味なお辞儀は改めて、静かに二人の様子を伺っていたようだ。
「おいで、心配はいらないから」
主は柔らかな微笑みを再び顔に張り付けている。
優しく歩みを促す主に、エンジュは何も言わずに従った。
なんてお喋りな刀だっ。