再会と必然
主人公は美形じゃないとこがミソ。男は顔じゃない、色気で勝負。いえす、個人的な趣味です。
閑散とした離宮の一室に、男女の唇が交わる湿った音が響いていた。
トージャに案内、否、途中から主が勝手に先導して辿り着いた神王宮の外れ、清月の離宮。
取敢えず主は、急遽かつて使っていたこの離宮で身支度を整えることになった。どうやら歓迎は期待できそうにないが。
宮内の掃除はされてある様だし、無人の割には荒れてはいないが、どう見ても客人を迎える準備は整ってなかった。
皇帝への謁見を求められていながら、主が滞在する離宮は用意されていなかったらしい。こうなると端から皇帝に会わせる気があったかどうかも疑わしい。主め。それも承知で罠に自ら飛び込んだか。
だがしかし、主の期待に反して、この離宮で主を待ち構えていたいたのは、暗殺者でもましてや殺人用の術陣でもない。
女官の手配すら儘ならないこの離宮で、我が主は思いもよらない歓迎に晒されていた。
一心不乱に主の唇を食む金髪の美女。
主は宮に入るなり突然、中に潜んでいたこの女に主は襲われるようにして抱き着かれたのだ。
以来、女は主との長い接吻に興じ続けている。
我が主、実は、この男、非常に女にもてる。異常にもてる。
本当にどうしてか、この件に関して不自由しているところをこの百五十年、我は見たことがない。
何故か、と聞かれると、人間に対して知識の乏しい我には、混沌しか表せない現象だった。
前述もしたが、主の容姿は見劣りはしないが、大して傑出したものでもない。
女の細い身体が絡み付くのは、成人男の平均的な身長に、無駄に肥えていないのは善しとしても、どちらかといえば痩せ形で頼り無いと呼ばれる部類の体躯。
まぁ、がりがりと酷評されるまでではないし、華奢ではあるが並程度には男としての体ではある。魔術に頼らない生活が長い為か、ひ弱な癖に、思いの外健康的な体をしている。
だが、着衣でも判明する筋肉、と誇れる見栄えは無く、主の三歩後ろで石像のように固まっているトージャと比べれば、間違いなく貧相と呼ぶに相応しいものだ。
不潔ではないが清潔ともまた言い難く、見目に気を使い、飾り立てるような気質でもない。異性に媚びるような態度を見せたことなども、我の知る限りは皆無だった。
強いて異性に好まれそうな部分といえば、少々腫れぼったいが形良く物憂げな大きな灰色の目と、稀に良く響く声くらいだろうか。あとは愛想のよい態度と、無害そうな笑顔。
だが、人間の雌という生き物は、同種の雄より感性が鋭いものと聞く。
形の良い瞳が他者を拒む様や、優しい口調に混じる嘲り、一見無害を装いつつ、決して心から笑うことのない冷たい眼差し。これらも見抜けぬ鈍感な人間は、確かに女には少なかった。
それなのに、主が求める求めないに関わらず、その身を差し出し、遂には追い求めるようにすがりつく。そんな女達が主の周囲に絶えることはなかった。
我が知る限り、今、主の唇を貪っているのもも、そんな、主に焦がれてやまない女達の中の一人である。
突然、主に組み付いたこの女に、我も主も大して焦らず、全く驚かなかったのは、現在、主の住んでいる安借家において、こういう光景は然程に珍しい展開ではなかったことと、主に飛び付いてきたこの美女の素性を知っていたからだ。
だが、若い魔導師には、この光景はあまりにも予想外なものだったのだろう。
獣のように主を貪る女に向かい合う格好で、トージャは思考ごと動きを完全に制止してしまっていた。
顔の大きさに普段は目立たない目を見開いて、艶しい女の両手が主の髪を掻きまわす様を呆然と凝視している。
職務に忠実なこの男ならば、本来なら無人の筈のこの離宮に潜んでいた不法侵入者を、さっさと縛り上げるか、まぁ殺したとしても、それも立場的には正しい選択肢であったろうに。
息継ぎの合間に幾度か、女の翡翠の色をした潤んだ瞳に、固まるトージャが映し出されている。
女はその状況すら悦であるかのように、主の唇へと更に執拗にしゃぶりつく。
もとより常に乱れて絡まっている主のごわついた髪の毛を、女はさらにぐしゃぐしゃに引っ掻き混ぜ、申し訳程度に結んでいた髪紐が解けてトージャの足下に舞い落ちた。
トージャは何かに憑かれたように、重なる二人を無言で見詰めていた。
別にその無様な様子に言い訳を加えてやるつもりもないが、この女は異様に美しいのだ。
主の頭にその顔を埋めながらも、その絡み付く肢体の完璧な造形と、光るような白磁の肌、薄い衣が主に触れて擦れる度に、滑り落ちる豊かな黄金の髪。そして主の頭や肩を世話しなく撫でる白魚の指。
魔導師とはいえ、トージャも通常機能の人間の男なら、この女の匂い立つような色気に、動きを封じられても仕方がない。
だが、主はトージャと同じ理由で動かない訳ではないようだ。
身体の力を抜いて、女にされるがまま唇を重ねているが、その両目は閉じることも、ましてや見開くこともなく、ただ冷めた眼差しが女の見事な金髪に埋もれている。
この女に限らず、睦事の最中にいる主を見るたびに我は思い知る。唇の自由を封じられた主の顔に、如何によい形の眼孔があろうとも、これには最早、死体のごとく無感情しか表現できぬことを。
無抵抗、そして無反応を貫く主は、女の豊満な身体を押し付けられるままに後ろにじりじりと退いていく。記憶力の良い主は、この女の性質上、無闇に拒めば行為が長引く上、更に欲情を煽ってしまうことを心得ているからだろう。
絡まる二人はトージャの眼前を通りすぎ、主が冷たい石壁に叩きつけられるようにして寄りかかると、漸く女はその唇を主から離した。
改めて至近距離で主の顔をうっとりと眺め回した女は、今更ながらこれの死にそうな土気色の肌色に気が付いたようだった。
「あら、具合でも悪いの?」
口腔の交わりの生々しい痕跡を、まるで食事の味を惜しむように舌なめずりしながら、女は主の胸元に寄り掛かるようにして白々しく美しい顔を傾げる。
主は意図せず湿った唇を不快そうに拭いながらも、解放された頬の筋でいつもの笑みを象り、肩をすくめて見せた。
「挨拶がわりに男に襲いかかっていた君も、そんな気遣いが出来るまでに成長してしまうとは。やっぱり時間って恐ろしいものですね」
襲いかかるのは変わってないでしょ、と女は再び整った鼻梁を主の口許に押し付けるが、今度は主も片手で乱れている女の襟元を整え、笑いながらその見事な胸元をやんわりと押し戻してやり過ごす。
「男にここを嬲られるのが大好きなのは覚えていますが、見られながらも昔からそんなに好きでしたっけ?」
主の下品な皮肉が、まるで甘美な囁きだとでもいうかのように、女は名残惜しそうに主の唇を指でなぞる。悠然と微笑む主の唇のその整った弓形に、取敢えず女は諦めた素振りで、漸く話しやすい位置まで主との距離を広げた。
「貴方だって昔からそんなに意地悪だったかしら。二百年も逢わなかったから、すっかり忘れてしまったわ」
ふざけた調子ながら、女は美しい肢体を見せ付けるように胸を張り、つんと頤を反らした。
主の性格の悪さを、この勝るとも劣らない性悪女が、まさか忘れるわけもないだろうに。
「百五十年ですよ。二百年じゃ君、まだ生まれてもないでしょうに」
けろりと訂正する主に、相変わらず細かいわねと女は嬉しそうに微笑んだ。
「で、この邪魔な見物人は誰?」
女の手にはいつの間にか煙草入れが握られていて、当然のように主の香り煙草を二本取り出す。
どうやら接吻に紛れて主の懐から煙草入れと火打石を擦り盗ったらしい。
全く、主に惚れているという共感で多少は多目に見てやっているが、相変わらずとんでもなくけしからん女だ。
女は一本を己の艶やかな唇で挟んで、もう一本を主の口許に押し付ける。
「トージャ・マディタくん。宮廷魔導師の副長ですよ。いい男でしょ。わたしを殺してくれるかもしれません」
差し出された煙草をくわえつつ、主は簡潔に、そして主観的に、相変わらず石像状態の魔導師の紹介をした。
「ふーん。ガルフちゃんの部下にこんな可愛い坊やが居たなんて知らなかったわ……ねぇ、貴方まだこんなの使ってるの?もぅ、まどろっこしい」
女はトージャにはあまり興味が無い様子で生返事を返す。それよりも思うように火打石を扱えぬことが不愉快らしく、煙草に火を付けるのに悪戦苦闘している。
己の名前とガルフの名前を続けざまに聞いて、トージャもなんとか正気を取り戻したらしい。開きった目蓋を元のように鋭く絞った。
この展開で、驚く以外にどういう態度を示せばいいのか、トージャは見際めているようだった。
この若い魔導師は、主が期待するだけはあり、やはり愚か者ではないからだろう。
トージャは、主から、そしてその向かいに微笑む女から憮然とした態度で視線を外した。
恐らくトージャならば、この女の正体も粗方検討が付いている筈だ。
百五十年、宮廷に寄り着かなかった主と、こんなにも明白に顔見知りな宮人など、このトージャを含めてたとしても、片手の指で足りる数である。
百五十年ぶり、と言えば尚更だ。そんなに長く生きている人間など限れたもの。
しかも、それが直視を憚られる程の絶世の美女となれば、選択肢はすぐに絞られる。
徒にこの女を不法侵入者と騒ぎ立てれば、逆に己の破滅を招きかねない事態であることを、この切れ者の魔導師は充分に理解した様だった。
この宮廷には、ただ一人を除いて、絶対に男がその姿を拝むことの許されない女が、一人、存在するのだ。
今更、女の恥態を見なかったことには出来ないが、伝えるべき誠意を現すように、若い魔導師は黙ったまま、女に向かって恭しく膝を付いた。
「流石はトージャ君。賢いですね。……君は、相変わらず不器用だな」
主がトージャの敬虔な姿に倣う訳もなく、無造作に女の手から火打石を奪い返す。慣れた手付きで己の煙草に火を付けた。
「でも、今更格式ばっても虚しいだけじゃないですか?こんな阿婆擦れ相手に」
トージャの予測からすれば考えられないような暴言を吐きながら、女の唇から煙草を引き抜く。
主はくわえていた煙草で一息だけ煙を吐くと、その煙草をほらと顎で指図し、女へと差し出した。
女は酷く満足げな、それでいて僅かに悔しげな顔をして、長い指を主の口に押し付けながらそれを受け取った。
「酷い男よね。相変わらず」
恨めしげなその独白は聞こえない素振りで、主は火打石をかちかちと鳴らしながら、女の横を通り過ぎる。
卓に備えられた火鉢に火種を作ると、女の紅が吸い口を染めた煙草を煙らせて、主は投げやりに長椅子へと身を委ねた。我の刀は布巻きのまま床に転がった。
別に主の手だろうが、床だろうが、便所だろうが、主の守護に関わることではないが、この扱いである。酷い男呼ばわりを我も否定するつもりはない。
甘く苦い、強い香りの煙をぷかぷかと吐き出しながら、とって付けたような慇懃な言い回しで、主が言った。
「で、その酷い男に何のご用でございましょうか?皇后陛下さま」
アネイ国現皇帝、ライワン=ハロナの正室であり、創世の伝説を伝える神官の長、預言の巫女でもあるリリシア=ダルシャ=ハロナは、主の問いには答えず、主の寝そべる長椅子の背凭れに寄り添った。
潤んだ碧玉の瞳を細め、探るように主の瞳を覗き込む。
「野暮なこと聞くのね、百年ぶりの会瀬に特別な理由なんている?」
「百五十年ですって」
主は眼差しをリリシアとは交差させず、気怠げに辺りを見渡した。
清月の離宮は飾り気の無い白壁の、簡素な石造りの小邸だった。
この国の建築様式には珍しく、門扉の内側に間仕切りは一切無く、上階にある浴場以外は、全てが一繋がりの住まいとなっているようだ。
表側の白い外装に反して、室内は落ち着いた暗青色の壁で囲み、最低限の家具と実用的な調度品、部屋の中央には大きな寝台が置かれ、開放的な屋内は境界が曖昧なまま、天然の小川に張り出た露台へと繋がっている。
先程までは接吻の音に紛れていたが、絶え間なく流れる湧き水からの軽やかな水音は、静寂ならば部屋の隅々にまで響いていく。
以前、この離宮に主が滞在していたことは知っていたが、なるほど、主がよく好みそうな趣の宮だった。
いや恐らくは、初めから主の為に建てられた離宮なのだろう。
主は視線を天井に移して、煙混じりの疲れた吐息を溢す。
「またここは、悪意を感じるくらいに昔のまんまですね」
「ガルフちゃんが管理してたのよ。魔術で保全できないから大変だったようだけど。貴方が必要とする時がくるからって」
あー、と主は意味の無い音でリリシアの言葉を遮ると、僅かに上体を上げてトージャに声を掛ける。
「トージャ君、魔導師長さんが今頃手配してくれている女官達は、ここに着く前に追い返したほうがいい。この巫女さまは不運な目撃者に情を掛けるような柔な女じゃないですよ」
遠回しに退室を促す主の言葉に、顔を地面に向けたままトージャは頷いた。
その様子にリリシアはくすくすと笑っている。
「面を上げても構わないのよ?不貞を見られてしまったあたくしが、皇帝に貴方の無礼を言い付けるわけがないわ」
「…………ご安心を。全て見なかったことに致します」
顔を上げないのは、最早畏敬の念からではなく、アネイ国民にとって特別高貴な存在であるリリシアに、うっかり侮蔑の眼差しを送ってしまわないようにする為だろう。
視線を逸らしたまま、素早く身を翻したトージャに、主は苦笑しながら言った。
「服なんかはこの宮に備わってるだろうし、身支度は自分で出来ますから、手配は不要です。食事もその気なれば十年くらい無くっても平気ですし。いや、明日の朝くらいには欲しいですが。ま、どちらにせよ、今日はこのまま休ませて貰っても構いません?」
青ざめた顔を全く感じさせない、楽しげに歌うような口調に、トージャは振り返ることもなく頷いた。
「明日、お迎えに参上致します」
トージャは固い言葉でそれだけ告げると、足早に離宮を去っていった。
「なにあれ、かっわいいじゃないー。ガルフちゃんとは大違いよね」
トージャが視界から消えると同時に長椅子の背凭れを乗り越えて、リリシアは主の腰元に跨がるように座り込む。吸いかけの煙草を火鉢に放って、両手で主の頬を覆った。
「でも、あの坊やに貴方が殺されるようには見えないけど」
主は露骨に迷惑そうに喉元にまで絡み付いてきた腕を取り外す。
「久々に期待できる逸材なんですから、縁起でもないこと言わないでください、預言の巫女」
縁起でもないのは紛れもなく主である。リリシアは輝く瞳に憐憫の情を浮かばせて、主の顔を覗き込んだ。
「ほんと、相変わらずねぇ。まだ死にたいとか無駄なことやってるの、貴方」
飲み込みの悪い子供を諭すようなリリシアの口調に、主もまたまるで聞き分けのない子供のような顔で口を結び眉を絞った。
リリシアは悩ましげに溜め息を吐き、細く可憐な指先で強張った主の頬をなぞる。
「でももう、時間切れね」
主の渋面を映す瞳を細め、愛を囁くような艶やかな声で、預言の巫女リリシア=ダルシャ=ハルナは言った。
「それを確める為に、あたくしに逢いに来たんじゃじゃなくって?大魔導師シン・ロウ、いいえ、白夜に選ばれし白の導師よ」
威厳すら滲み出る美しさで、巫女は妖艶に微笑した。主は表情なくそれを見詰め、暗い眼差しを返す。
「やはり目覚めてしまったか、あれは」
苦々しくもはっきりと響くその固い口調が、主の余裕なさの現れだとこの女は知っている。リリシアは悪戯にその身体に触れることを止め、真剣な面持ちで頷いた。
「ええ。全ては伝説と貴方の記憶通り。もう既にあたくしに《声》が降るようにまでなってきているわ。諦めなさい、シン、貴方はもう使命の最中にいるのよ」
「だからって、このわたしに何が出来るというのです」
主は静かに自嘲の表情を造って、己の額に手を置いた。指の間で半分以上短くなった煙草からほろほろと灰が崩れて主の額を汚す。
リリシアは今にも主の指を焼こうとする煙草を奪い取りながら、飽きれと憐れみと苛立ちを綯い交ぜにした吐息を漏らす。
「ガルフちゃんが死んでしまったのは本当に痛手だわ」
「……死んでしまった?殺されてしまったの間違いだろう」
ガルフの死に関する発言で、初めて主は怒りの感情を明確に外に表す声を発した。
手のひらで感情を顕にする眼を被って、吐き捨てるように呟く。
「それとも、殺してしまったの間違いかい?」
冷え冷えと響く主の声に、驚きと怯えを混ぜた顔でリリシアは首を振った。
「彼の死は、あたくしも、勿論、皇家も、全く関知しなかった出来事よ。あの子が赤の導師として精霊《暁》を探していたことは貴方も知ってたでしょう?西海に現れた毒竜に精霊の干渉の気配があったから、ガルフちゃん自ら討伐に向かったの。その戦いで斃れたと聞いたわ」
我と対をなす精霊、暁はハロナ皇家の至宝として存在する我とは違い、創世より此の方、人の管理下に措かれたことはない。あいつは羨ましいことに、我のように封印され自己を制限された精霊ではないのだ。
だが、自由な精霊であるということはすなわち、力ある精霊の多くがそうであるように、人間に仇を為す存在であることを意味する。真の主、つまりエジンの子孫と契約を結ぶまでは、暁は決して人間に恭順することはない。
暁の在処を突き止め、その暴走を律することは、赤の導師としてサラザン家に求められてきた務めでもあるのだ。
「毒竜?そんなものに殺されるわけないでしょう。あの子が」
必死に無実を主張するリリシアに毒気を抜かれた主は、疲れの濃い、無関心そうな口調に声を戻して呟く。
リリシアは微かに安堵の息を吐いた。
「そんなことあたくしに言ったって……シン?」
ふいに、主のふらふらとさ迷わせていた視線が一点で止まった。
我もそちらへ意識を向ける。
露台の上に魔力の残照。そして露台の下には人間の息遣い。
幼い子供と、若い女。
敵意もなければ殺気の欠片も感じられないふたつの気配だ。主一人ならば兎も角、皇后が隣にいるこの状況で騒ぎ立てることは得策でないと判断する。主も、我の無言が安全の証であることは心得ているようだ。
不審げに主の視線を追うリリシアへ何でもないと笑いかけた。
「それにしてもリリィ、流石にあまり長居しちゃまずいんじゃないですか」
言いながら、主は腰元に座るリリシアを否応なしに抱き抱えて立たせ、言外に退出を促し始める。
「あら、大魔導師様は死にたい癖に、陛下に殺されるのは嫌なのね?」
リリシアは物騒な言葉で揶揄しながらも、意外と素直に主の横たわる長椅子から離れた。
主は意地の悪い顔で薄暗く笑った。
「へぇ、皇帝ともあろうものが、嫉妬のあまり思わず大魔導師様をも殺してしまうほど君は愛されている、と。幸せそうでなによりですね。御馳走様です」
「……ほんと、嫌な人」
言葉とは裏腹にリリシアは慈しむように微笑んで、主の唇に軽く口付けた。入室の際交わした激しさはなく、親愛を感じさせる、柔らかいじゃれるような接吻だった。
我が辛うじて気が付くくらいの僅かな変化だが、主の眼差しが軟化する。
「君にはまた迷惑をかける」
背を向けたリリシアに、良く響く、不器用な主の言葉がかかる。
リリシアは驚いたように振り向いて、すぐに肩を揺らしながらくすくすと笑い出す。
「えぇ、ちっとも構わなくってよ」
そう言うと、リリシアは舞うような軽やかな足取りで離宮を出ていった。
主は難しい顔付きで瞼を閉じ、じっと彼女の遠退いていく足音に耳を傾けていた。
「…………さて、と」
リリシアの気配が完全に室内から消えると、主は億劫そうに長椅子から起き上がった。
床に転がっている我が刀を拾い上げ、固く結ばれた紐を解き、巻き付いてある汚い布を外す。
久しぶりに外気に晒された我が封印の刀。白い糸巻に銀細工の鐺、細身だが主の半身程の長さを持つ太刀である。
−主、敵意は感じられぬぞ−
いつでも引き抜けるよう刀を腰元に当てた体勢になる主に、我は一応助言を加えた。我の存在が宮内に広まると主が動きづらくなることも加味し、音を発せぬ意志伝達の方法を選ぶ。
頑なに自棄の姿勢を貫いてはいるものの、常人には想像も出来ない数の死地を経験してきた主である。
露台の下で、震えながら身を潜める二つの気配が、限り無く無害に近いものであることは容易に察知がついているだろうに。
まぁどちらにせよ、害があろうと無かろうと、この男が保身の為に行動を起こすことなど有り得やしないが。
主は微笑みながらも冷徹な空気を纏い、抜口に指を掛けたまま言った。
「私の離宮に移動陣を敷くとはいい度胸じゃないですか」
成る程。この殺気の理由がそれか。
それにしてもこんな微かな魔力の残照だけで、術の種類まで言い当ててしまう主に下を巻く。才能の持ち腐れにも程があると嘆くべきか、魔力過敏症もこの境地に達すると、寧ろ便利にすらなるのかと感心するべきか。
使用の只中ならば兎も角、術印を畳んでから時間の経過したものの種類を、探知の為の魔術も何も使わずに言い当てることが出来る者は、精霊も選択肢に入れたとしても恐らくこの世では、これ以外には存在しない筈だ。
魔力、人間がそう呼ぶ彼の力の最たる結晶たる精霊の我が言うのもなんだが、それは絶大であるが故に常に儚く流動的で変動が激しく、人間にとっての呪文や術印や、我等精霊が発動する絶対行使など、操るには確固たる理が必要になる。
魔力の世に漂う本来の在り方は、複雑且つ曖昧な底無き混沌だ。永遠と高速に絶えず流れを変え誘う底無しの滝壺が想像に易い。
今、我が主が不機嫌そうに言い当たことは、その滝壺を滝の水飛沫も掛からない遥か上空から見下ろして、貴様昨日ここへ小便を放ったな、と言ったようなものだ。いやなんとも下品な喩えで心苦しいが、そういう次元の話なのだ。常軌を逸する。
「しかも宮廷無認可じゃないか。これだけで文句なしに死刑確実ですよ。羨ましい」
今のは、しかも酒を飲みすぎて催したのか、とそんなことまで解ってしまった感じだ。失礼、この喩えから離れよう。
兎に角、この魔力に対する狂的に鋭い感性を目の当たりにすれば、我と出逢ってからまだ一度も魔術を使ったことがないというこの意味不明な魔導師でも、確かに偉大な魔導師を名乗る資格を有すると、嫌が応にも我は認めざるを得ないのだ。
それは主がこの世で最も望まぬことだから、我は密かに心中で嘆息を漏らしてしまう。
主は血の気の引いた顔で焦点の判じずらい濃灰色の目を細め、今にも刀を抜き斬りかるかのような気迫を纏っている。この我ですら思わずこれが歴戦の剣士だと勘違いしてしまいそうな程、鬼気迫るものがあった。
役者もいいとこである。刀など真面に鞘から抜いたことすらない癖に。
「嘆かわしい。いつからサラザン家の子はそんな不良魔術師になってしまったんでしょう」
間違いなく主がその家系の双子を育て上げたときからだろう、と我には答えられたが、敢えて黙っておく。
口調は柔らかく改めているものの、低く響き渡る声音は主が心から腹を立てている証であるし、未だ姿を表さない二人の侵入者へ向ける鋭い殺気は本物である。
だが、我はこの主の態度に懐かしい暖かさを感じていた。
昔は毎日のように主はこうやって真剣に怒っていたものだ。そう、あの加減を知らぬ真っ赤な髪をした無邪気な二人の悪魔を相手に。
さらりと家名まで主に言い当てられ、観念したかのように侵入者が姿を現した。
露台の縁下から這い上がり、なおも視線を弱めぬ主を震えながら見上げている。
それは我が感じた気配そのままの、若い娘と、彼女に大切そうに抱えられた幼い子供だった。
主に呼ばれた家名を証明するかのように、両人ともに目慣れた鮮やかな深紅の髪と、深い暗紫色の瞳をしている。
「あなたは……」
まずは己が名乗り、今までの盗み見、盗み聞きの非礼を詫びるのが筋というものだが、二人の容姿を見れば名乗りより雄弁に名を晒しているようなものだし、主とリリシアの先程までの醜態を鑑みれば、隠れていたことは寧ろ賢明な判断と称すべきか。
声を上げたのは、娘の方だ。華奢な肢体と健康的な肌色、高くで纏められた髪に短い前髪がくりくりとした瞳とあどけない顔付きと合わさって、まだ少女と呼ぶのが相応しい娘だった。
怯えながらも、真っ直ぐ主を見据え、震えを感じさせないはっきりとした声には、芯の強さを感じさせる。
彼女に抱き抱えられて、不安げにこちらに視線を向ける幼児は、同じ色合いの髪と目をもつものの、彼女とは対照的に、白い肌と繊細そうな切れ長の瞳の、美しい顔をした子供だった。幼い年頃が成せることかも知れないが、男女の判別は見た目ではつかない。男子であることは我も主も承知していたが。
ガルフの娘と、ガロンの息子。
つまり、あの娘が「赤の導師」ということだ。
上等ではないか。まだ15歳に届かぬ筈だが、あの歳で移動陣を敷いた才。宮廷魔導師に無許可ともなれば、魔導院の補正も効かず、相当な技術を必要とする。流石はやること為すこと規格外であったあの暴れん坊ガルフの娘である。
若さゆえの未熟は我と主で配慮すればいい。なんといっても主はこの世で一番の年配者なのだから。
我は赤の導師に抱いていた一抹の不安を拭えたことに安堵する。いざとなったらガルフに全て押し付ける気でいた主も恐らく同じ気持ちだろう。
魔力は充分父親級のものを持っているし、技術も年齢を加味すれば申し分ない。暁の契約に耐えうる精神力もありそうだ。
全てを押し付ける訳には流石にいかなくなったが、主に頼らずとも己の身くらいは己で守ってくれるだろう。
だが主の苦々しい視線は晴れることはなく、娘と幼児を容赦ない顔で睨み付けたままだった。
気丈にも娘は耐えているが、可哀想な幼児は目に涙を溜めて、娘の胸元にすがりついた。
「……あの馬鹿息子どもが」
珍しく声を潜めて、主は低く唸るように独白した。
ようやっと舞台に人が揃ってきました。